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2009年11月28日 (土)

ご本山報恩講参詣

ご本山報恩講参詣
西蓮寺聞法会旅行会
ご本山報恩講参詣

朝6:30 晨朝法要に来ました。
日中法要の坂東曲目当ての方々が、5:00の開門前から並んでいたそうです。
職員は3時集合だったそうです。
ご門徒の皆様、職員の皆様、ご苦労さまです。

10:00から結願日中法要が勤まります。御影堂は満堂です。
京都はこの時期にしては暖かいです。

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コメント

初めまして。京都から更新しておられるのですね。私も結願日中法要にお参りしたいところでしたが、同胞の会からの参加申込書が来た時点では、会社が休めるかどうか不明で今年は諦め、結局会社が休めたので25日にお参りして京都から帰って来たところです。こう書くと怒られてしまうかも知れませんが、法話よりも、お参りしておられる方から学べたような気がしています。もうそろそろお内陣にご出仕されるお坊さま方が出てこられるかというときに、後ろから人を掻き分けてこられた方が、ストロボ焚いて御真影の写真をバシャバシャ、真正面から撮れたぞと奥様にデジカメのモニタを見せておられました。私は人間ができていないので、思わず、その方を見てしまったのですが(私の隣に着座されたので…)、日蓮宗用のお念珠(数珠?)を右手に、赤本を畳に直置き…。お内陣への御出仕が始まる頃、別の方がやはり後ろから人を掻き分けて来られて、お内陣に「おひねり」を投げ入れ、また、別の方(中学生くらいの方)が後ろから人を掻き分けてこられて、お父さん、お賽銭はどうするのー、そこらにほったらええやんというので、御真影に硬貨をダイレクトに投げつけるのかと思いましたが、さすがに、それははばかられたようで、1mくらいぽんぽん投げておられました。そこから1mですと、着座している門徒の方々の後頭部なんですね(^o^;)。が、5円玉何枚か当てられた方、笑って拾って、お賽銭箱に入れられてました。ああ、自分はムッとした顔をしているのだろうけれども、黙って笑って拾って、お賽銭箱に入れれば良いのだなと反省しました。私の隣に着座された方はその後、睡眠学習されてましたが、大谷派の声明の中、睡眠学習できるというのは、日頃、農業なのか、漁業なのか、商業なのか存じませんが、お忙しく、おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして…とまでかどうかは分かりませんし、一生に一度かどうかは知りませんが、御開山さまにお遭いしたい一心のことだったのでしょう。私はきっと一瞬ムッとした顔をしていたのでしょうが、自分が間違いだったと思いました。

こんばんは!
本山にご一緒させていただき、ありがとうございました。

ダイナミックな坂東曲にはまさに、親鸞聖人にとどくお声明ですね。

少し反省を。
「報恩講」をどこまでご恩を胸に報じる思いで参加できたのか。自分の未熟さを後から感じております。

真実の宗を顕かにしていただいたき、私にご縁を下さった恩を「自覚」して臨む心がけを大切にしてまいります。

☆theotherwindさんへ
はじめまして
ご本山での報恩講、趣があっていいですね。
お勤めの間、じっと座って聞いておられるといいのですが、出入りが激しいですね。落ち着かないものです。
という私も、堂内での写真撮影が禁止ならと、お堂の外に出て堂内の写真を撮ってました(勤行中に)。
お賽銭の話はビックリしました。お堂のはじに座ったので、中央部でおひねりが飛び交っているとは、驚きです。浄財入れがありますのにね。
現場に居たら、私もムッとしますよ。お気になさらず。

同朋の会からの参加申込書…もしかしたら、教区の講演などでお会いしてますでしょうか。
これからもよろしくお願いいたします。


☆たかさんへ
得度考査合格おめでとう!!
ご本山の報恩講をいっしょにお参りできて、その後の嬉しい報告。めでたい めでたい。
たかさんの生き方そのものが、報恩ですよ。
未熟なればこそ、これから熟していくことができるのです。共に熟して参りましょう

突然のコメントにお返事頂き有難うございます。

言い訳をすると、「突飛だったので驚いたから…」となりますが…

「こういうのを宮城顗先生の言う(平野修先生だったか…)傍若無人と言うんだようぅ」というような考えが脳裏に閃いたわけです。「こっちはかなり前から着座してんのにぃ」という気持ちも元々あったでしょうね。

突飛な驚きから、「お念数を右手に持つなよぅ、そんなのどこの宗派でも左手だろうが、あ、日蓮宗用の数珠じゃん…」とか「勤行本を畳に直に置くなよぉ」とかという考えが閃いてしまったわけですが、それは、後から反省してみると、自分は多少のものを知っている、この人は知らない…という暗黙の前提に知らず知らずのうちに立っているという理屈になりますね。

つまり、この構図で、傲慢なのは、実は私なわけです。自分は他人とは違う、自分は偉いという暗黙の前提があったことになりますから…。

ただ、この一連の突飛な、つまり予想外の出来事、連続だったんです。驚愕から立ち直る暇なし(^o^;)。

しかもタイミング的には、「この人、御真影にダイレクトに硬貨を投げつけるの?!」という出来事のときには、既に、お内陣に出仕される方が中啓を意図的に畳に音を立てて落とす(いいなあ大谷派…、もっともあれだけざわついていると、横や後ろでは音は聞こえないでしょうが…)のが始まっていたタイミング…。全員着座しているのをかき分けて、投げつけか?!という…。

言い訳は根本的に矛盾してしまうんですが(^o^;)…、後から反省してみれば自分は他人より偉いという暗黙の前提を知らず知らずのうちに立てていながら、凡人なので、「ふつー、それはないだろう」と心中のけぞりました(というか、もしも鏡があったら、おそらく、ムッとした顔というか、驚いた表情だったことでしょう…)。

しかしながら、勤行始まってみると、さすがに落ち着くわけで、いかんいかん、自分が傲慢だった、ご本山で恥ずかしいことだった、われら、

信心は一つ

…と、まあ、あとから、かっこつけて言えば(←そのこと自体、反省の対象にはなりえますが…)、思った次第です。

日々、反省なわけですが、目から血が出たわけではありませんので、また、同じことを明日も繰り返すと思います……(^o^;)。

=== つづく ===== (^o^;)

> 同朋の会からの参加申込書…

東京真宗同朋の会に名前だけ参加しているだけの状態です……(^o^;)。

「東京真宗同朋の会は、宗旨・宗派・年齢・性別を問わず、親鸞聖人に人生を学ぶ人々の集まりです…」とのことですが、うちが大谷派ということはあります。

父の実家だけでなく、母の実家も、社内結婚なので多分偶然なのでしょうが、大谷派。

女房の実家は浄土真宗本願寺派ですね。

(女房は実はわかってなくて、おばあちゃんの納骨の話からすると、明らかに場所が大谷本廟なので、間違いなく本願寺派なのにもかかわらず「浄土宗?」とか言ってましたが…。なんで正信偈やら和讃やらお勤めしている家庭が浄土宗なのやら…)。

なのですが、東本願寺真宗会館主催の親鸞講座に通っている以外は、特に何も…門徒と言えることは実際にはなし、というのが残念ながら実態です。

お手次のお寺が名古屋にあるんです。これは祖父が元々は名古屋出身で、お墓が名古屋にあるため。祖父自身は、ずっと、と申しますか、少なくとも私が生まれたときからはずっと東京暮らしだったのですが、真宗原理主義みたいなことからすればお墓はなくても、あるいはどこにあっても良かったのかも知れませんが、お墓は出身の名古屋に欲しいと思ったのかも知れません(祖父は三男で、このお墓を建てたのは祖父なのです)。

ですから理想は、祖父の気持ちを考えれば、お手次のお寺に、あしげく通うというのが理想になりますね。(こちらの都合で改葬というのはすべきことかどうか…)。

ただ、私の今の生活ですと、毎日終電で帰宅、土日に会社に出ることも頻繁ですし、休日出勤しないときには土日48時間睡眠状態……(^o^;)。

この状態で名古屋にあしげく通うというのは、普通の社会生活の観点からはかなり無理があります(もちろん運賃も問題)。

また、このお手次のお寺には、既に父の代で、ただ毎年、お墓の管理料だけ送金して、父がお彼岸にお墓の掃除だけして、おそらく、ご住職さんのお顔も見るか見ないか、外から阿弥陀様は拝んで、帰ってきているのではなかろうかと……。「疎遠」という日本語は我が家のためにあるのではなかろうかという状態。

私の自宅から烏山は近いという親近感はあります。ありますが、散歩しているだけですね……(^0^;;)。

母の実家は北陸で、大谷派のお寺が町の真ん中にどーんとあって(山城みたいな石垣があるタイプだったのだと思います。おそらく昔は今の町は全部寺内だったのではないかとは思いますが)、お寺を中心に周囲に家がある…というところなので、おそらく住民の90%は大谷派。

この町は○○仏壇と、金仏壇の形式名一個独占している町で、とてつもなく仏壇が豪華。金箔が鏡面。つまり鏡に使えるピカピカさ。更に須弥段の平面のところが朱漆。多分、日本で一番豪華な形式。

こういうところですと、毎日だか毎週だか、みなさんお寺に通われてますね。お寺さんも各家庭回られてますし…(ただ、田舎町なので、鍵がかかっていませんから、誰もいなくて、勝手に仏間に入って、お勤めして、千円が袋に入っているの持って帰って行かれるということもあるようなので、これは聞法の機会とは限らないようです。)


こういう町ですと、全員が、一生、しょっちゅうになるので、分割払いといいますか、一回のレートが低くても、累計金額が出るので、物価の安さもあって、お寺の息子さん、娘さんが大谷大学に行かれるので…というようなことを含めても、お寺が維持できるということも含め、うらやましい限りです。

その意味では理想の町…。定年退職したら住みたいくらい。

もっとも、そこに生まれた人からすれば、長男に生まれないと、東京に出るしかないんでしょうが……。

> ご本山での報恩講、趣があっていいですね。

感動しました。

これまた私が勝手に頓珍漢で、変なことに感動しているのかも知れませんが、

お逮夜で、多分…

正信偈 句切
念仏讃 淘十 五遍反
和讃「釋迦ノ教法オホケレド」…
回向 我説彼尊心

とかではなかったのかと思いますが、自然発生的だったのか、そもそもそういうものだったのか、同朋唱和だったのですが、えーと、私は勝手に、たとえば、朝におまいりに行ったら、正信偈草四句目下であればそこは同朋唱和で、他は黙って聞いていればよいのかな(念仏讃、淘三以上--という日本語は変なのかも知れませんが--は黙っておけばよいという意味)と決め付けていました(←少なくとも後から思えば)。実際には朝には夜行バスでついたので京都タワーの地下のお風呂屋さんにいましたが…(^o^;)。

自分が勝手に思い込んでいただけなのかも知れませんが大合唱だったので、驚いて、またきょろきょろ視線を見回してしまったのですが、もしも自然発生的だったのであれば私の誤解なのですが、どうも教区によっては専用の勤行集を作って持ってきてお参りしておられる集団もあるように見えました。

そうこうするうちに、大合唱の中、なぜか分かりませんが、ちょっと涙ぐんでました(^o^;)。

そのおかげで、先のちょっとした反省しました。目や毛穴から血は出てません。

☆theotherwindさんへ
想いをたくさんお聞かせいただき、ありがとうございます。
声明に関しては、「同朋」を標榜する宗派なのだから、僧侶門徒みんなで声に出せるものにするべきだ、僧侶だけお勤めしてどうするんだ、という声も聞こえます。
そのような考え方もあるとは思いますが、私としては、決してみんなで声を揃えることが同朋唱和とは思いません。
耳を澄ませ、声明を聞く…つまり、親鸞聖人のおことばを聞くということです。それだけで、身に響いてくるものです。御影堂での声明…お勤めができようと、できまいと、そこに身を置いているだけで、なにか感じることがあります。
京都在中の学生時代、悩みがあるときや考え事をするときは本山に通ったものです。
 
参詣のマナーに関して気になるのは、もっともだと思います。
報恩講のお勤めが始まるや否や退堂される団体参拝のご門徒さん…なにをしに来たんだろう?と思ってしまいます。
団体によっては、専用に作ったものと思われる勤行集を持っている方、いらっしゃいました。あぁ、報恩講参詣を心待ちにされていたんだろうなぁって思います。とか思いながら、大切な勤行集を畳の上に直に置かれているのを見て、私も「あ~ぁ」と感じます。
いったい何を見ているのでしょう。落ち着かないですね。私は
 
奥様の出身の地…おしえが大切に受け継がれてきた町のようですね。でも、どこに住んでいようとも、うらやましい側面もあれば、大変な側面もあるものです。
生まれ、育ち、生きている現場でおしえに耳を済ませる。そのような環境に身を置いている現実が、真に有り難いことです。
目や毛穴から血は出なくても心配ありません。毛穴からおしえが沁み入ってきます。

コメント頂き、大変有難うございます。

> 声明に関しては、「同朋」を標榜する宗派なのだから、僧侶門徒みんなで声に出せるものにするべきだ、僧侶だけお勤めしてどうするんだ、という声も聞こえます。

なんでもそうなのですが…

「なんでも」は言いすぎなので、具体例で、感じたことを書きますと…

しばらくまえの『アンジャリ』だったか、エンゲージド・ブディズムの話が出ていて、それはそれで立派というか、少なくともそういうこともあって良い、とは思うのですが…

仮に、それが極端になって、カトリックは社会活動しているが、日本大乗仏教はあんまりしていない、どのお寺も全部だれでも社会活動すべきだ…まで極端になったとしたらちょっと違和感あるなぁと感じました…。

一方でたとえば、信心が大事なんだという人も同じサンガに居てよいわけですし、日本大乗仏教において、必ずしも社会貢献活動は絶対に必要ではないんだ、本来の役目を果たそうとしていけば良いのだとか、葬式仏教おおいに結構、本当に本当の仏教の葬式をやってんのか、やってないよね、だからやれば良いんだというのでたとえばおきよめの塩はいらないだろうとか、法話に力を入れようとか、自分の役目で毎日こつこつ…という人も居ても良いと感じました。

> 正信偈草四句目下であればそこは同朋唱和で、他は黙って聞いていればよいのかな(念仏讃、淘三以上--という日本語は変なのかも知れませんが--は黙っておけばよいという意味)と決め付けていました

私の「決め付け」は、ちょっと反省しましたが、黙って聞いている人も居てよいと思います。音程外れても良いから同朋唱和というのもすばらしいとは思いました(感動はしました。教区によっては多分練習してきているんですね。あんまり音程外れていない集団あり。)が、もしも、必ず全員、声出せとまで仮になってしまうとすると、それにはちょっと違和感を感じます。

いずれにしても信心は一つ。

他人より、反省すべきは自分ではあるのですが…。

でも勤行集、家庭でも、お内仏の前で、ちょっとなんというのか、水平にささげるしぐさが自然に入りますよね(←我が家だけではないと思っていますが)、礼拝とか帰命とか、フランスの哲学者であるパスカルが言うように、形というものはあるんじゃないかなぁ、畳に直に置くのはどうかなぁ、とは人間ができていないので、思わず視線が行ってしまった次第です。

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