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2009年11月24日 (火)

あたたかい川

数日前、NHKのドキュメンタリーを見ました。
心臓の臓器移植を待つ方々のドキュメンタリーでした。
 
幼い女の子2人のお母さんは、心臓の病気で、臓器移植のための心臓を待つため、入院しています。
現在の日本のシステムでは、臓器移植まで3年は待たなければならないといいます。臓器移植までの間、入院は続きます。
お母さんがインタビューに応えてました。
 
「入院するまで、娘二人と川の字になって寝ていて、大の字になって寝たいなぁって思っていました。でも今は、川の字になって寝たいです」
 
川の字で寝ていると窮屈です。こどもが寝返りをうてば起こされることもあったでしょう。たまには一人、大の字になって寝たいな。ささやかな幸せです。
でも、いつ退院できるとも分からない入院生活…ひとりで寝ることの淋しさを痛感します。
大の字でなんか寝られなくてもいい。窮屈でも、娘ふたりと川の字になって寝たい。これ以上の幸せはありませんでした。
   
隣に人がいてくれるということの大切さ、有り難さを感じています。
テレビを見ながら、次のことばを思い出していました。
     
四畳半にコタツ置けなくなるが、あったかいよ。
        (『わたしの出会った大切なひと言』より)
 
結婚したご夫婦が、ふたりの稼ぎでなんとか生活していました。
奥様が妊娠されたのですが、正直3人での生活は無理と、仲人さんに相談にいきます。
仲人さんは、生めとも生むなとも言及せず、「四畳半にコタツ置けなくなるが、あったかいよ」と、静かに言われたそうです。
  
今ある幸せには、なかなか気づけないものです。悲しいことに、手放したときに幸せであったことを痛感する。
「幸せを求めるのが人生ではないですか?」「幸せになる方法を教えてくれるのが宗教じゃないんですか?」とよく言われます。
もし「幸せ」というものが求めて得るものなら、「手放せ」ということを教えることが宗教になってしまいます。
「幸せ」は、「今ある」現実の中にある。「四畳半にコタツ置けなくなるが、あったかいよ」

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コメント

今ある現実をありのままに受け入れられるようになると確実に幸福になります。私がいるという感覚がなくなると不幸にはならなくなります。
 でも、人の妄想はなかなか止まらない。幸福になるには、体の感覚と心の動きをそのまま感じ取り、今とは関係のない考えを全て省くことということが分かったところで、この実践が難しい。
 現実をありのまま見ることがいかに難しいことか、実践すればするほど思い知らされる。私という感覚が超強力な存在感で立ちはだかるのだ。

 今ある現実の中の幸せに気付くということは、実質上の完全なる悟りなのだから。

 体の能力とか財産とか親しい人とかの失ったときに実感する“あるもの”では人は幸せにはなれない。人は“あるもの”で幸せになれるのではなくて、“あるもの”で生きているのだから。

 何かを失ったときに感じることといえば、以前は幸福だったんだというよりも、今まで生きていくための刺激が沢山あったけど、今からはこれだけの刺激で生きていくのだなと感じるぐらいです。何かを得たときはこの反対。急激な変化でものの見方が変わり、生きている充実感を得られるのです。だからある程度なら幸福になることもあります。

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