« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

2009年11月28日 (土)

ご本山報恩講参詣

ご本山報恩講参詣
西蓮寺聞法会旅行会
ご本山報恩講参詣

朝6:30 晨朝法要に来ました。
日中法要の坂東曲目当ての方々が、5:00の開門前から並んでいたそうです。
職員は3時集合だったそうです。
ご門徒の皆様、職員の皆様、ご苦労さまです。

10:00から結願日中法要が勤まります。御影堂は満堂です。
京都はこの時期にしては暖かいです。

2009年11月27日 (金)

日はまた昇る

こころの病気にかかったり、自死を選んだ人に対して、「こころが弱いからだ」などと言う人がいるけれど、
果たして「こころが強い」人なんているのだろうか。強い人がいたら、お目にかかりたい。

くじけそうなとき、
自分を情けなく感じるとき、
そんな自分を責めないでください。

「日はまた昇る」
「やまない雨はない」
「どん底だと思ったら…もっと掘れ!」
自分を責めるのではなく、自分を認めてあげることができた人のことばだと思います。

2009年11月24日 (火)

あたたかい川

数日前、NHKのドキュメンタリーを見ました。
心臓の臓器移植を待つ方々のドキュメンタリーでした。
 
幼い女の子2人のお母さんは、心臓の病気で、臓器移植のための心臓を待つため、入院しています。
現在の日本のシステムでは、臓器移植まで3年は待たなければならないといいます。臓器移植までの間、入院は続きます。
お母さんがインタビューに応えてました。
 
「入院するまで、娘二人と川の字になって寝ていて、大の字になって寝たいなぁって思っていました。でも今は、川の字になって寝たいです」
 
川の字で寝ていると窮屈です。こどもが寝返りをうてば起こされることもあったでしょう。たまには一人、大の字になって寝たいな。ささやかな幸せです。
でも、いつ退院できるとも分からない入院生活…ひとりで寝ることの淋しさを痛感します。
大の字でなんか寝られなくてもいい。窮屈でも、娘ふたりと川の字になって寝たい。これ以上の幸せはありませんでした。
   
隣に人がいてくれるということの大切さ、有り難さを感じています。
テレビを見ながら、次のことばを思い出していました。
     
四畳半にコタツ置けなくなるが、あったかいよ。
        (『わたしの出会った大切なひと言』より)
 
結婚したご夫婦が、ふたりの稼ぎでなんとか生活していました。
奥様が妊娠されたのですが、正直3人での生活は無理と、仲人さんに相談にいきます。
仲人さんは、生めとも生むなとも言及せず、「四畳半にコタツ置けなくなるが、あったかいよ」と、静かに言われたそうです。
  
今ある幸せには、なかなか気づけないものです。悲しいことに、手放したときに幸せであったことを痛感する。
「幸せを求めるのが人生ではないですか?」「幸せになる方法を教えてくれるのが宗教じゃないんですか?」とよく言われます。
もし「幸せ」というものが求めて得るものなら、「手放せ」ということを教えることが宗教になってしまいます。
「幸せ」は、「今ある」現実の中にある。「四畳半にコタツ置けなくなるが、あったかいよ」

2009年11月20日 (金)

ご恩思えば みなご恩

報恩講とは、親鸞聖人のご法要です(11月28日がご命日です)。

報恩…「恩に報いる」「恩を報る(しる)」と書きます。
親鸞聖人から教えをいただいたご恩に報いる、恩を報るとも読めますが、私を中心とした報恩は、危ういものです。
恩を感じると普段は思っていても、悩み苦しみにぶつかれば「これだけ報恩の気持ちをもっても、なにもいいことがない」などという想いに転じてしまいます。
ご利益を求めてのお念仏も、思い通りにならない現実にぶつかれば、念仏を捨ててしまいます。
恩を感じて、感謝して、念仏申すのではありません。
見返りを求めた「報恩」を、果たして「報恩」と言えるでしょうか。 
 
この身は、すでにご利益をいただいている身です。
私は、多くの恩の中を生かされて生きています。
 
「恩に報われている」
そういういのちをいただいて生きている「恩を報らされる」
  
報恩講は、そういう事実に目覚めさせられるという集まりなのです。
   
 

大阪のお寺の報恩講でお話をさせていただきました。
2日で4座(1座は「永代経会」)のご縁をいただきました。
 「報恩ということ(上記のような内容で)」
 「親鸞聖人のご生涯について」
 「米沢英雄先生の「その人」という詩をいただいて」
 「亡き人からの呼びかけ」
一応準備はしていきましたが、法話はライブ。準備どおりに話すこともあれば、まったく予定してなかった話をしたり、その場で感じたことを話したり。
このような経験は初めてだったので、自分自身楽しみでした。果たして話しきれるのか。もしかしたら、話しが尽きてしまうのではないか。
いただいた時間、お話を続けることはできましたが、門徒さんにどのように伝わったでしょうか…。そこが不安です。話し方も固かったですね。お聞き苦しいところ、分かりづらいことがありましたら、申し訳ありませんでした。
4座ともご住職をはじめお寺の方がどなたか本堂にいらして、一緒に聴聞してくださり、有り難いことでした。
報恩講の大切な時間をちょうだいして、感謝しております。ありがとうございました。
  

  
  
帰り…京都に5年間住んでいて、大阪に行くこともあったのに、大阪で串カツを食べたことがありませんでした。
帰りの新幹線まで時間があったので(時間に余裕のあるチケットを買ったので)、新大阪駅の構内で、串カツを食べながら、一人反省会をして帰りました
おしえは、全国共通普遍であることを実感して参りました。
帰ったらすぐにブログに書くつもりでいましたが、用事に流され、帰京後早くも一週間が経ってしまいました。時間の使い方が下手です。
一気に寒くなりましたね。お風邪など召しませんように

2009年11月10日 (火)

西蓮寺報恩講

11月5日(木) 西蓮寺報恩講が厳修されました。
新型インフルエンザの影響でしょうか、今年は参詣される方が少なかったです。例年のほぼ4割減。参詣される方が少なくて、淋しかったです。
  
蓮如上人がおっしゃるように、人数が多いことが一宗の繁昌ではありません。
参詣された方の中には、志を持って大谷大学に入学され、西蓮寺報恩講のために京都から駆けつけてくださった方がいます。
9月30日にご本山で勤められた還座式に、帰敬式を受けてから臨まれた方がいます。
奥様とのお別れを縁に、親鸞聖人のおしえを聞き続けられている方がいます。
参詣された方、一人ひとりのお顔をみていると、親鸞聖人のおしえに出遇われ、報恩講にお参りくださったわけです。人数の多少では計れない、今におしえが伝わっている事実を感じます。
ご法話に耳を傾け、法要をみんなでお勤めしていると、大事な場に、一緒にいさせてもらっているんだという感動があります。
  
とはいいつつ、参詣が少なかった現実を見つめます。インフルエンザだけが原因ではないと考えています。これは私自身の、親鸞聖人のおしえを知ってもらいたい、伝えたいという想いの希薄化・欠如だと感じました。
個人的には、報恩講は毎年ワクワクしながらお迎えしています。ご法話をいただくことが楽しみです。報恩講という場にいることが楽しいのです。そういう場に、もっと多くの人に来てもらいたい。そういう場があることを知ってほしい。そう思っています。
「報恩講、楽しいのになぁ…」とつぶやいたら、妻は「じゃぁ、もっとそのことを伝えなきゃ」と言ってくれました。
うん、そういえば表現してないなぁ。楽しさが伝わらない態度なんだろうなぁ。もっともっと、喜びを外に表わさないといけないなぁ。やれること、できることはまだまだたくさんある!!
来年の報恩講(報恩講を迎えるまでの歩み)が楽しみになってきました。
  
    
11・12日と、大阪のお寺さんから 報恩講でお話をさせていただくご縁をいただきました。
寺報を読まれて、「こういう文章を書く人の話を聞いてみたい」ということでお電話をちょうだいいたしました。
有り難いことです。お電話をいただいてから、楽しみにしていました。
喜びをいっぱい表現してきます

2009年11月 1日 (日)

2009年11月のことば

  Rimg0036_2
  顕微鏡で自分ばかりを見ていたけど、
  望遠鏡で自分を見るととても小さく見える。
  自分しか見えないと、世界が見えないんです。

                 姜 尚中
     「読売新聞」夕刊(2009年10月2日)「yumi yoriな話」より
     
寒くなってきました。お風呂が愛しい季節です。気持ちよく入っている お風呂。ところが、次の日の朝、お風呂を洗おうとするとビックリします。
目の悪い私は、お風呂に入るときは裸眼で、掃除をするときはメガネをかけることになります。すると、カビや汚れなど、お風呂場がけっこう汚れていることに気付かされます。毎日掃除しているのですが。汚れに気付かず、ゆったりとお風呂につかっているわけです(それはそれで幸せですね)。
同じものを見ているのに、見えたり見えなかったりする。見えないと気にもならないのに、見えた途端に気になる。面白いものです。
   
偏ったものの見方や、先入観に捉われたものの見方を「色眼鏡で見る」と言います。
自分の答えを持って見ているのだから、曲がったものがまっすぐにも見えるし、まっすぐなものを曲げてしまうこともある。
色眼鏡をかけると、よく見えているようで、なにも見えていません。経験やこだわりといった「自分が正しい」という色眼鏡は、実は誰もがかけています。
   
顕微鏡をのぞくと、肉眼では見えないものが、実によく見えます。
真宗の教えでは、「自己を問え」「自己をたずねよ」ということをよく言われます。自己を見つめること・知ることが大事なのです、と。
しかし、あまりに自己を見つめすぎて、苦しみしか感じられないという穴にはまってしまうことがあります。
すると言われます。「真宗のおしえは、苦しいですね」と。
自己を見つめすぎて、他者が見えないということがあります。自己を見つめるとは、他者との共存の中での自己を見つめることだと思います。
「隣に人がいる」・・・その感覚を持つことが、自己を見つめることだと、最近思ってもいます。
特化しすぎて、周りが見えなくなる。周りが見えないと、自分の立ち位置も分からなくなります。
   
望遠鏡をのぞくと、遠くのものが近くにあるように感じます。まるで私の手元にあるように。でも、当然ながら私の手元にはありません。
仏法聴聞して、自分を見つめて、自分というものがよく分かったつもりになっていたけれど、そうではなかった。身近になったようでいて、実は遠かった。望遠鏡でのぞいて、遠くにあるものを近くに感じたかのように。
  
他人事として仏法聴聞。自分のことを言われているとは、これっぽっちも考えない。望遠鏡を逆さにしているのかもしれませんね。
自分さえよければいい この悲しさ
ということばを掲示したとき、
「ホント、今の人たちは、自分のことしか考えてませんよね。頭にきちゃう」という感想を言われました。いやいや、自分自身のことなんですけどね。
 
メガネや顕微鏡や望遠鏡、いろいろなもので自分を見つめてみる。同じものを見ていても、見え方はみんな違う。感じ方は人それぞれ。それはそれで仕方のないこと。当然のこと。
問題なのは、メガネをかけているのが、顕微鏡や望遠鏡をのぞいているのが、“私”であること。それでは、自分の良いようにしか見えない。見たくないものは、目を伏せてしまう。結局、なにも見えていないのと同じです。
   
おしえをいただくことができるのは、この私を見つめている はたらきがあるから。
「自分さえよければいい」という罪業性を抱えている私。そんな私をみつめ、「阿弥陀仏の名を称えよ、称えるものをすくおう」という願いが、私にはかけられている。
お念仏申すことができるのは、仏法聴聞できるのは、私という存在を見つめ、認め、助けたいと誓われたはたらきがあるから。
私という存在を見つめると、見えるのは自己ではなく、阿弥陀如来でした。
南無阿弥陀仏
   
     
  
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
11月の人形は、イヌとお家です。イヌが大きすぎて、家に入れません
Rimg0037

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ