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2009年11月 1日 (日)

2009年11月のことば

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  顕微鏡で自分ばかりを見ていたけど、
  望遠鏡で自分を見るととても小さく見える。
  自分しか見えないと、世界が見えないんです。

                 姜 尚中
     「読売新聞」夕刊(2009年10月2日)「yumi yoriな話」より
     
寒くなってきました。お風呂が愛しい季節です。気持ちよく入っている お風呂。ところが、次の日の朝、お風呂を洗おうとするとビックリします。
目の悪い私は、お風呂に入るときは裸眼で、掃除をするときはメガネをかけることになります。すると、カビや汚れなど、お風呂場がけっこう汚れていることに気付かされます。毎日掃除しているのですが。汚れに気付かず、ゆったりとお風呂につかっているわけです(それはそれで幸せですね)。
同じものを見ているのに、見えたり見えなかったりする。見えないと気にもならないのに、見えた途端に気になる。面白いものです。
   
偏ったものの見方や、先入観に捉われたものの見方を「色眼鏡で見る」と言います。
自分の答えを持って見ているのだから、曲がったものがまっすぐにも見えるし、まっすぐなものを曲げてしまうこともある。
色眼鏡をかけると、よく見えているようで、なにも見えていません。経験やこだわりといった「自分が正しい」という色眼鏡は、実は誰もがかけています。
   
顕微鏡をのぞくと、肉眼では見えないものが、実によく見えます。
真宗の教えでは、「自己を問え」「自己をたずねよ」ということをよく言われます。自己を見つめること・知ることが大事なのです、と。
しかし、あまりに自己を見つめすぎて、苦しみしか感じられないという穴にはまってしまうことがあります。
すると言われます。「真宗のおしえは、苦しいですね」と。
自己を見つめすぎて、他者が見えないということがあります。自己を見つめるとは、他者との共存の中での自己を見つめることだと思います。
「隣に人がいる」・・・その感覚を持つことが、自己を見つめることだと、最近思ってもいます。
特化しすぎて、周りが見えなくなる。周りが見えないと、自分の立ち位置も分からなくなります。
   
望遠鏡をのぞくと、遠くのものが近くにあるように感じます。まるで私の手元にあるように。でも、当然ながら私の手元にはありません。
仏法聴聞して、自分を見つめて、自分というものがよく分かったつもりになっていたけれど、そうではなかった。身近になったようでいて、実は遠かった。望遠鏡でのぞいて、遠くにあるものを近くに感じたかのように。
  
他人事として仏法聴聞。自分のことを言われているとは、これっぽっちも考えない。望遠鏡を逆さにしているのかもしれませんね。
自分さえよければいい この悲しさ
ということばを掲示したとき、
「ホント、今の人たちは、自分のことしか考えてませんよね。頭にきちゃう」という感想を言われました。いやいや、自分自身のことなんですけどね。
 
メガネや顕微鏡や望遠鏡、いろいろなもので自分を見つめてみる。同じものを見ていても、見え方はみんな違う。感じ方は人それぞれ。それはそれで仕方のないこと。当然のこと。
問題なのは、メガネをかけているのが、顕微鏡や望遠鏡をのぞいているのが、“私”であること。それでは、自分の良いようにしか見えない。見たくないものは、目を伏せてしまう。結局、なにも見えていないのと同じです。
   
おしえをいただくことができるのは、この私を見つめている はたらきがあるから。
「自分さえよければいい」という罪業性を抱えている私。そんな私をみつめ、「阿弥陀仏の名を称えよ、称えるものをすくおう」という願いが、私にはかけられている。
お念仏申すことができるのは、仏法聴聞できるのは、私という存在を見つめ、認め、助けたいと誓われたはたらきがあるから。
私という存在を見つめると、見えるのは自己ではなく、阿弥陀如来でした。
南無阿弥陀仏
   
     
  
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
11月の人形は、イヌとお家です。イヌが大きすぎて、家に入れません
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コメント

いつもながらこころに響くことばを頂戴いたしました。と同時に、いつも私自身のことを言い当てられている気がいたしまして、恥ずかしい思いです。お風呂掃除のお話は全く私と同じです。私もメガネを掛けているので、お風呂に入るときは裸眼で、掃除するときはメガネを掛けます。日常の生活の何気ないありふれた場面の中に、仏様阿弥陀様の教えが存在するのですね。
今月も心に響くことばを頂戴し、ありがとうございます。

色眼鏡を破ってくれるのが「南無阿弥陀仏」であるとも、「南無阿弥陀仏」が無色透明な眼鏡であるとも、本当の眼であるとも言えると思います。

いやァ! わが家に新型インフルエンザが入り込んで来てしまいました。私が発症するかどうかは分かりませんが、感染拡大を避けるために報恩講を欠席することになるのは残念です。自宅で「御伝鈔」を聞かせていただきましょう。

☆がくさんへ
お久しぶりです。お元気ですか?
白骨はいつも平日に設定してしまい、申し訳ありません。
 
妻に寺報を校正してもらったら、「これって、かっちゃんがお風呂掃除をしているのが分かっちゃうね」と言われました
そう言われつつも書きましたが、がくさんもお風呂掃除担当でしたか。お風呂掃除くらい、させていただきましょう。
 
仏法は、日常と離れてあるのではなく、日常のど真ん中にあるのです。

☆やすさんへ
今はなによりも、病気になられた方の回復にお努めください。そばにいてさし上げてください。
どうぞお大事に。早く治られるといいですね。

報恩講…白骨バージョンでお勤めしましょうか。

新インフルにかかった家族のことをご心配いただき、ありがとうございます。発熱は発病した時の38.2度が最高で、それ以降は37度前後。きょうは朝から熱が全く上がらず、本人も暇をもてあましているという軽症で済んでいます。

「報恩講…白骨バージョン」とは、お勤めの最後に、かつさんがあの「御文」(名前を忘れました!)を詠まれるのですか?

☆やすさんへ
ご家族の回復、よかったです。
体を休めなさいという催促だったのだと思って、しっかり静養なさってください。
     
「報恩講…白骨バージョン」…深い意味はなかったです。報恩講で読むお勤めをしましょうか、という意味でした。
  
あの「御文」…なんでしょう?
妻に書いた手紙とか? それは読めないですねぇ

あの「御文」とは、「御俗姓御文」でした。「白骨の会」で、かつさんがそれを読まれればよいのでしょう? 「正信偈」を「草四句目下」ではなく「真なんとか」で読むのであれば、私は読めないです。

☆やすさんへ
報恩講の雰囲気が出るお勤め…いつものお勤めで充分です。
「真四句目下」と念仏和讃だと、40分かかりますしね。

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