« お彼岸な一日⑧ | トップページ | 宗祖親鸞聖人御真影還座式 »

2009年10月 2日 (金)

2009年10月のことば

   Dscf2796
   川の向こうの紅葉が
    きれいだったので
     橋を渡って行ってみた

   ふり返ると
    さっきまでいた所の方が
     きれいだった

             星野 富弘
   
隣の芝生は青く見えるものです。今の自分にないものは、きれいに見えて、うらやましく思ったり、欲しくなったりします。でも、いざ手に入れてみると、期待していたほどではないものです。

川の向こうの紅葉がきれいに見えるのは、こちらの世界が息苦しい(生き苦しい?)からでしょう。でも、その息苦しさを作り出しているのは、この私自身かもしれません。
家庭や職場の空気が悪いことを、誰かのせいにしていませんか? そのように思う気持ちが、周りを不快にしているのかもしれません。
家族や仲間に対して不満を抱えているけれど、不満が態度に表われていて、そのことが相手を腹立たせているのかもしれない。
こんな私が川の向こうに行ってしまったら、憧れの世界が、すぐに汚れた世界になってしまうことでしょう。
  
「ふり返ると/さっきまでいた所の方が/きれいだった」…幸せな世界を求めていたけれど、気が付けば今が幸せでしたという『青い鳥』風のいただき方もできますが、でも、そういうことだけではないと思うのです。
そもそも、川の向こうの世界なんて、ないのではないか。あるとしたら、理想郷です。自分で思い描いた世界です。さぞ素晴らしい世界でしょう。
しかし、私が生きる世界は、今生きている世界しかないのです。この世界を、この人生を生きられるのは、この私をおいて他にいないのです。
自分のことを棚に上げて、自分の不都合を他者のせいにする。今に喜びを見出そうとせずに、理想の世界を求める。
そのような気持ちで川の向こうに行ったところで、「さっきまでいた所」のきれいさにも気付けないことでしょう。
そのようなことを考えていたら、茨木のりこさん(1926~2006 詩人)の詩がこころに刺さりました。
   
   
 自分の感受性くらい  茨木 のりこ
   
   ぱさぱさに乾いてゆく心を
   ひとのせいにはするな
   みずから水やりを怠っておいて
   
   気難しくなってきたのを
   友人のせいにはするな
   しなやかさを失ったのはどちらなのか
  
   苛立つのを
   近親のせいにはするな
   なにもかも下手だったのはわたくし
   
   初心消えかかるのを
   暮しのせいにはするな
   そもそもが ひよわな志にすぎなかった
  
   駄目なことの一切を
   時代のせいにはするな
   わずかに光る尊厳の放棄
   
   自分の感受性くらい
   自分で守れ 
   ばかものよ

     
     
「自分の感受性」とは、たいていは「私が持つ感受性」を意味するのでしょうが、「私自身を感じる感受性」という捉え方もできるのではないでしょうか。
ぱさぱさに乾いてゆく心・気難しくなってきたこと・苛立ち・消えかかる初心・駄目なことの一切…すべて私のことです。そのような私を感じるこころを失って、他者のせいにしてしまう。すべてを他者のせいにして、私はどこに行こうというのでしょう。何を求めるのでしょう。対岸の紅葉ですか。「自分の感受性くらい」守れない私が、対岸の紅葉を見て、何を感じることでしょう。
   
星野富弘さん(1946~ )は、中学校の体育教師をされていました。クラブ活動の指導中に頚椎を損傷し、手足の自由を失いました。病院に入院中、口に筆を加えて、文や絵を書き始められます。病室で、キリスト教の洗礼を受けられました。星野さんの詩画展は全国各地で開催されています。現在、詩画やエッセイの創作活動をされています。
星野さんは、体が自由だった頃を思い返して、この詩を書かれたのではないと思います。
   
誰とも代わることのできない私。
私しか歩むことのできないこの人生。
駄目なことの一切を、他者のせいにして生きていた私。
   
自分のことを見失い、他者のせいにして生きていた自分。ある日、そんな自分を感じたのでしょう。その瞬間、「さっきまでいた所」、つまり〝今〟がきれいに輝き出した。
体が治ったわけではない。自分を感じたからといって、他者のせいにする気持ちが無くなったわけではない。状況はなにも変わらないのに、生きる世界が一変する。
紅葉の見え方は、自分の感受性で、どのようにも変わります。
   
     

西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。10月の人形は、ハロウィンのお化けです。
なぜお寺でハロウィン? などと尋ねないでくださいね。
お店で見かけて、つい買ってしまいました。 
Dscf2785 Dscf2786 Dscf2795
  
     
          
西蓮寺聞法会
 10月14日(水) 副住職の法話
 11月11日(水) 住職の法話
  時間:午後1時30分~4時頃
   
西蓮寺仏教青年会(白骨の会)
 10月22日(木) 午後5時~8時頃
  西蓮寺にて 今月はフリートークの会です

« お彼岸な一日⑧ | トップページ | 宗祖親鸞聖人御真影還座式 »

コメント

 人間は経験したいことはとことん経験したくなるというものです。それが、今まで一度も経験したことのないものであるなら、なにがなんでも経験してみたいのです。その分からない感覚を体験して楽しみたい。そうなれば幸せになれると思っているのです。でも、今まで経験したことのない死ぬほどの痛みという感覚を経験してみたいという人は皆無でしょう。好きな経験はしたいけど、嫌な経験はしたくないのです。快楽に基づきそうな経験は大好きですが、不快な経験は大嫌いなのです。だから、人間はかなり自分勝手です。
 経験したことのないことだから、当然自分の都合の良いように想像するので、機会が廻ってきていざ自分の希望していたことが叶っても、凄い期待はずれに終わってしまいます。想像が妄想に変わり、徐々に膨れあがって予想が大きくなりすぎたからです。
 また、経験したらしたらで、経験した心に変わってしまいますので、もう満足感は薄れていくのです。そして、また未経験なことをしたくなるし、そもそもこれからすることは全て未経験なのです。全く同じ音楽でも、聴くたびに感じ方は違うのです。同じ曲でも、楽しいことがあった日に聴くのと辛いことがあった日に聴くのとでは随分聴いた感想が違うでしょう。連続で聞いた場合、一回目と二回目とでは違うと思います。なぜ同じ曲でも好きなら何度でも耳が疲れるまで聴いてしまうかといえば、ずっと未経験だからです。
 しかし、こんなことをいくら理解しても、自分勝手な期待や希望は止まりません。妄想も止められません。それはまだ、今まで書いてきたことを理屈でしか理解できていないからです。世の中の出来事を大雑把に捉えて真実を推測している段階だからです。
 この世が無常であることは誰もが理解していますが、それは理屈として理解しているのです。昨日綺麗に咲いていた花が今日は枯れているところを見て、私は無常を理解したという人がいますが、あれは本当の無常ではありません。無常は細かいところまで観察して自分で経験しないと分からない。本当に無常を理解したなら悟るのです。心は完璧のはずです。
 恋愛経験のない私はやはり、異性に対する思い入れは大きいのです。この未練に対する執着は半端物ではない。私の心に住むマーラの左腕だろうと私は思っています。度が過ぎるほどにすべての生命が幸福になると願う病的な慈しみもそうだろう。格差社会が覚者社会になったらいいのにと思うぐらいですから。これは煩悩でも異質かな。(覚者社会というのは私の理想郷、全ての出来事に同等の価値を見出し、物事全てが愛おしく感じる世界、皆が喜んで生きるとができる世界)
前者は共感する人もいるでしょうけど、後者は分からないでしょうね。
 欲しいものは美しく見えて、でも実際に手に入れたら大して良くはなかったことは良くあることですから、期待どおりにいかないことは真実でしょう。でもそれは推測ですから、自分の欲しいものに対する思い入れの強い人は、その切なる思いが消えることはありません。ですから、真実のことばも心の拠り所にするぐらいにしておいたほうがいいでしょう。
 また、自分がどんなに人のためになるいいことを述べたとしても、聴いた人の性格が必ずしも良くなるとは限らないことを理解しておいた方が良いでしょうね。

 大変長い文章になってしまいましたね。いつもそうですが・・・・・・。この10月のことばの内容を待ってました。吐きたい言を吐けて良かったです。

自分の境遇を呪い、傍を羨望してしまう。
「いま」を受け入れるのがとても困難なのだと最近、気になりました。それは空間的な移動や、組織の変化で何かが変わるのではという期待感からかもしれません。
しかし、本質を見極めず、表層ばかりで判断してしまうんですね。
そうそう、紅葉を「葉」だけで眺めてしまいますが、存在と空間全部で「紅葉」かなぁと。蛇足ですが。

ずばり言い当てられた思いです。まったくおっしゃるとおりのままの現在の自分です。
これからもずっと課題として私に突きつけられていくことと思っています。何も言えません。あと、話題は違うのですが、最近の関心事は「いかに死を受け入れるか」ということです。自宅で最後を迎えたいという希望をお持ちの方が増えており、3年後医学部を受験して医師を目指す者として、目下最大の関心を寄せています。

たかさん、がくさん へ

お久しぶりです。お元気そうで安心しました。

かつさん へ

本日は聞法会に参加させていただき、ありがとうございました。御遠忌に向けての行事も次々と行なわれ、ことしの報恩講も近づいて来て「宗祖を憶う」ことが高まりつつありますね。私は毎日、聖人の御影の前で「もっと聞け」と叱られています。やはり聖人は生きていらっしゃっています。


☆真照さんへ
コメントをありがとうございます。
しかと読ませていただきました。 
「すべてが未経験の出来事」なるほどと、いただきました。 
 
「吐きたい言を吐けて良かったです」…なによりです。よかったです。


☆たかさんへ
真っ白い部屋に、私と、紅葉の葉一枚…たぶん、きれいとは感じないでしょうね。
あらゆる景色、生活環境、こころの変化等々があったうえで、紅葉がきれいに感じる。
「いま」を受け入れるというよりも、それが「いま」なのかもしれないなぁと、思いました。

☆がくさんへ
私は、自身の死を受け入れているつもりです。
ですが、本当に死が身近にせまったとき、どのような行動を起こすだろう。
やっぱり慌てるのかなぁ。
   
「いかに死を受け入れるか」
“自分が”ですか、それとも、
“患者さん”にどのように受け入れてもらうか
ですか?
自分の中で試行錯誤するのと、他者に受け入れさせるのでは、まったく違うだろうなぁと感じたので、一言書かせていただきました。

☆やすさんへ
聞法会へのご参加、ありがとうございます。
「もっと聞け」…聖人からの催促ですね。
親鸞さまがおわします♪ です
報恩講が待ち遠しいですね。

自分自身がいかに死を受け入れるかはもちろんのこと、患者さんにいかに死というものを受け入れていただくかということの両方です。鹿児島の堂園晴彦医師はご自身の著書の中で「人は生きたように死んでいく」と書かれましたが、私も同感です。
行き着くところ、いかに満足して死んでいくかということは、生きているときにいかに一日一日を大切にして生きてきたかということに他ならないと思いました。

ずばり言い当てられた思いがする一方で、やはり今でも、父親に人生を台無しにされ、その結果、納得のいかない人生を送らされたことへの恨みと憎しみが尽きない自分が居るのです。それでも従容として自分の置かれた立場を受け入れなければならないのか。一生懸命に努力して道を切り開こうとすることは結局無意味なのか。未だに答は出ておりません。

☆がくさんへ
人生に意味無意味を求めるのは…無意味です。
「意味を見出した」と思えたとしても、それは、自分で意味づけして、自分で納得できただけにすぎません。それを果たして「意味があった」と言えるのか否か。
生きていることに、「意味がない」ということはありません。この道だと決めた道を歩むのです。既に意味があったのです。
意味無意味を求めるのは無意味というのは、意味がないということではなく、自分で意味づけするまでもなく、意味のあるいのち・人生を既にいただいているのです。
悩みながら、生かされて生きていきましょう。

削除しましたね!(笑
ああいう悪戯が超極端に少ないことが、かつさんのブログの奇跡ですヨ。

☆やすさんへ
ホント、困ってしまいます
思わずクリックしてしまいました(嘘)
 
たしかに、あの手の書き込みが少ないのは、このブログの奇跡ですよね。ありがたいことです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« お彼岸な一日⑧ | トップページ | 宗祖親鸞聖人御真影還座式 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ