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2009年9月 1日 (火)

2009年9月のことば

   Dscf2616
   浄土に往生するということは
    ここで生きられるようになったということ

                    信国 淳
 

浄土に往生するということは、一般的に、「死後に安らかな仏の国にいくことができること」と考えられているのではないでしょうか。でも、「ここで生きられるようになった」ということは、死後のことではないようです。
念仏申すものをすくうという阿弥陀の願いは、今、現に私に届いている。その私が「南無阿弥陀仏」と念仏申す縁を生き、その果、浄土に往生することが、死後のことなのだろうか。いや、念仏申す今がまさに、浄土に往生しているただ中に違いない。
「浄土に往生する」とは、来世の話ではない。私が好き勝手に描いている理想郷に生まれ出ることではない。
今、ここにいる私は、すでに浄土に往生しているのです。
   
    
この世に生まれてきたのは、自分自身で「生まれたい」と思ったからです。
そんなことを言ったら、笑われるかな。まだ意思がないときに、どうして「生まれたい」と思えるのですか、なんて。
でも思うのです。「なぜ生んだのか」「なぜ生まれてきたのか」「なぜ生きなければならないのか」という問いの背後には、責任を他者に押し付ける響きがあります。私という存在は、責任を背負って生きているのだと思います。自分で背負うべき責任を投げ捨てて、他者に責任を押し付ける生き方に、果たして安心などあるのでしょうか。
    
     
我が身に起こる出来事は、既に決まっている出来事なのです。
そんなことを言ったら、泣かれるかな。「頑張る意味がないですね」「運命として受け入れろというのですか」って。
でも思うのです。確かに、既に決まっている出来事なんてありません。「あれ、言っていることが違うじゃないですか」と思われるかもしれませんね。
過去を振り返り、あのとき別の道を歩いていたら…と考えたこと、ありませんか?誰もがそういうことを考えたことがあると思うのです。でも、別の道なんて、元々なかったのです。たしかに、分岐点で悩んでいる当時は、どの道を歩もうか、一生懸命に悩んだと思うのです。しかし、一歩踏み出したそのときに、別の道など元々なかったのです。あのようにしていたら、このようにしていたら…後悔は尽きません。でも、私が歩むべき道は、私が歩んできた道ただ一本だけだったのです。
なかったはずの分岐点を振り返りながら、今の歩みを後悔する私に、次の一歩が踏み出せるのでしょうか。
   
   
縁によって生かされて生きている私。私の身に起きた出来事は、たとえどんなにつらい出来事も、それも縁なのです。
そんなことを言ったら、怒られるかな。「現実につらい目に遭っている人に、そんなこと言えるのか」って。
たしかに、不幸に出遭った方にとって、それを「縁です」なんて言われたら、逆上し、希望を失うことでしょう。
でも思うのです。仏教で説かれている「縁」は、一人で生きているのではありませんよ、と教えてくださっているのだと。
一人では生きていない。関係の中を生きている。生かされて生きている。
人と人とが生きるということは、良い関係を築けることもあれば、悪い関係に発展する場合もある。厄介なことに、目的・主義・主張・思想が同じ方が、仲良くできるようでいて、かえって反発しあったりするものです。
自分にとって都合の良いものを、「縁あって」と喜ぶけれど、「縁」を口にするならば、すべてが「縁」なのです。「縁」に良いも悪いもないのです。良い悪いは、私がそのように感じているということ。「縁」は、一人で受けるものではありません。もし私が、「良い縁」と感じることがあったなら、その背後には、「悪い縁」と感じることを受け止めている人がいるのです。あるいは、私が悲しみを感じているとき、ともに悲しみを感じてくれている人もいるものです。「縁」とは、そういうものなのだと思います。「縁」という糸が、いくつもいくつも触れ合い、重なり合い、今の私があるのです。
   
私が生きている事実を見つめると、不可解で、悲しい出来事ばかりです。その中を生きていけるのは、しっかりと支えてくれているなにかがあるから。温かく守ってくれているなにかがあるから。その中を生かされて生きている。浄土に往生するということは、今を生きることといただきました。
     
   
先月、長崎教務所に行ってきました。厳しい暑さの中、汗をかき、坂を上り、重たい荷物を背負いながら。
教務所の掲示板に掲示してあったことばが、今月のことばです。
私は今、いや、すでに浄土に往生していたのだなぁと、なんだかホッとしました。
後日、長崎教務所に電話をしたところ、このことばを選ばれた方がちょうど電話に出られました。ことばの出典をお尋ねすると、「私が専修学院時代、信国先生の講義中にいただいたおことばです」とのお返事。
私は、信国先生に直接お会いしたことはないのですが、先生のお話からことばを感得された方を通して、先生に出遇うことができました。夏、大切な出遇いがありました。ありがとうございます。
   
   
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。9月の人形は、山盛りの野菜です。
食べ物が美味しい季節です(いつも美味しいんですけどね)。実りの秋が楽しみです。
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コメント

『我が身に起こる出来事は、既に決まっている出来事なのです。』
以前にもこのブログに書きましたが、父親に押し付けられた進路を歩むことになったということも既に決まっていたことだというのであれば、これまで第一志望の大学合格に向けて、ひたすら勉強してきた私の努力は水泡に帰する運命にあったということになります。そんな人生であることがわかっているとしたら、止めてしまった方が良かったと思っています。
父親のエゴと自己満足のために、意に沿わない大学に進むことになり、意に沿わない仕事に就くことになった私の人生とは、いったいなんだったのか。
私は今でも父親を恨んでいます。
一生許しません。一生恨みます。
この気持ちは昔も今も全く変わりません。
それでも父親を許し受け容れろというのであれば、この世において正義も救いもありません。

☆がくさんへ
 
大いなるはたらきの中を生かされて生きているいのち。私もそのいのちをいただいている。そういう意味では、誰もが平等。
   
しかし、だからといって、「人類みな兄弟」とか、「いのちは尊いもの」といっても、それを認めたくない私のこころ。
差別や格差を生み出しているのも、実は私のこころ。
 
そのような世界を、どうして生きられるのか。
なぜ生きなければならないのか。
いや、この世界は、生きる喜びに満ち溢れている。だって、自分で望んで生まれてきて、私に先立って生ききられた方々のおかげで歩む道があり、数多くの縁によって私が成り立つ。
   
「我が身に起こる出来事は、既に決まっている出来事なのです」
文としては書いてあるけれど、文章としては、そんなことは これっぽっちも言っていません。
気を悪くさせてしまいました。申し訳ありません。
 
私がいただいてきた親鸞聖人のおしえを、現時点での集大成的に書いたのですが、まだまだ拙かったです。
        
「運命論と間違われそうだね」と、妻に言われてはいたのですが、自分もその危惧はあったのですが、
それでも、書かずにはおれなかったのです。

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