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2009年8月 1日 (土)

2009年8月のことば

   Dscf2405
   仏智うたがうつみふかし
    この心おもいしるならば
    くゆるこころをむねとして
    仏智の不思議をたのむべし

              親鸞聖人
   
   
今月のことばは、親鸞聖人が書かれた 「仏智疑惑和讃」と呼ばれている和讃です。試訳してみました。
   
仏の智慧を疑うという罪は、とても深いものです。
このような罪深い心を思い知ったならば、
後悔・懺悔のこころを常に大切に持ち続け、
このような私をも救いたいと願ってくださる仏智に身をまかせて生きていけるようになる時が、きっとやってきます。

   

平等を望みながらも、平等とはほど遠いこの世の姿。人は、平等を望みつつも、他人より優位であろうとするのですから、仕方のないことかもしれません。
仏智…阿弥陀仏は、生きとし生けるものすべてをすくいたいと願われました。生きとし生けるものすべてが救いの対象です。あの人は頑張っているからといって、特別扱いをしたりはしません。この人は悪いことをしたからといって、見捨てたりはしません。
阿弥陀仏の願いに、分け隔てはありません。このような平等のすくいを、「仏智」と言います。
 
阿弥陀仏のすくいの光明に照らされているにもかかわらず、そのことをうたがう私がいます。
阿弥陀仏のすくいは、うたがいを持っている者にも向けられています。だからこそ、安心して生きていけるのです。
   
「仏智の不思議をたのむべし」…仏智を頼りとしなさいと命令しているわけではありません。誰に対しても仏智が注がれているからこそ、頼みとして生きていくことができるようになるときが、いつか必ず、誰の身の上にもやってくる。誰にも必ず…その想い(確信)が、「仏智の不思議をたのむべし」と言わしめているのです。
    
身近なことで考えてみましょう。人生において、師と仰げる人に出会えるか否かは、一生を大きく左右します。
師と仰げる人なんていないと言う人もいるかもしれませんね。しかし、既に会っているのです。
親、先生、先輩…。目上の人ばかりが師とは限りません。子、生徒、後輩…。
私を守りたい、助けたいという温もりに包まれて、今、私は生きています。
私を頼りとしてくれている真剣な眼差しを受けて、今、私は生きています。
しかし、そのことに気づいてない私。鬱陶しく感じてしまう私。有り難さを感じられない私。
かけがえのない師に、大切な友に出会えていないと、淋しく感じているかもしれません。でも実は出会いにかこまれているのです。
苦悩の中にいるとき、ふと温かい眼差しを感じることがあります。そのとき、今まで経験したこともないような感動が起こります。熱くて、それでいて優しい、私の意思を越えた、こころの奥底から流れ出る感動です。そのような感動を、親鸞聖人は「不思議」と表現されたのではないでしょうか。
つらくて悲しくて、目の前が真っ暗闇で、先が見えなかったのに、その感動によって 一筋の光明が見える。
温もり・眼差しを感じられるのは、すでに温もり・眼差しの中を生きているから。
一筋の光明を見られるのは、すでに私に向かって光が射しているから。
    
外からの仏智と、内からのこころの動きがかさなって、光が生じます。仏智だけでは、なにも起きません。今まで、多くの人を疑いの目で見ていた。さまざまなことを疑いの対象としていた。そのことを思い知り、悔いるこころが私に芽生えたとき、そこに、すくいの光が見えてくるのです。
今までの苦悩が取り除かれるわけでもなく、今までの生き方が変わるわけでもありません。しかし、なにかが違うのです。師が、友が、仏智が、常に一緒なのです。
うたがいのこころは、無くしたいですか?無くしたほうがいいのでしょうか? 「うたがう」ということは、そこに接点がなければできないことです。接点のないところに、うたがいは芽生えません。接点を持てたからこそ、出会えたからこそ「うたがう」ことが起こるのです。
「うたがう」ことは、悪いことではありません。無くさなければいけないことでもありません。私は、うたがうことしか出来ないのです。信じていると口にしても、そこには、うたがいのこころが含まれています。愛しています・お任せします・頼りにしています。そう思った瞬間、うたがいが生まれているのです。それが私です。
今の私の行いや考えを正すことが、阿弥陀仏に帰依することではありません。
今の私の行いや考えに目覚めたときに初めて、懺悔(さんげ)のこころが生まれます。その懺悔のこころがあって、仏智に身をまかせることができるのです。
   
   
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
8月はカメとペンギンです。組み合わせに意味はないのですが、どこか涼しげでしょ。
大久保石材様より頂戴致しました。いつもありがとうございます。
Dscf2407

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コメント

おかげさまで、鎖骨固定プレートを取り除く手術が終わり、3ヶ月ぶりに三角巾をはずしました。腕が自由に動くということは決して当たり前でなく、むしろ有り難いことなのですね。それに気付かされたことだけでも、今回骨折したことは有り難いことなのかもしれません。プレートで固定してきた3ヶ月あまりの期間、最後の辺りでは、「どうしてこんな目にあうのか、どうしてこんな苦しい思いをしなくてはいけないのか」ということが、さすがに頭に浮かびました。「誰も手助けしてくれないではないか」とさえ思ったこともあります。でも、そうではなかった。1時間ほどの電車通学において、3回も乗換えがあるにもかかわらず、しかも、新宿駅という大混雑する駅を経由するにもかかわらず、1度もぶつかられること無くここまで来ました。席を譲っていただいたこともありました。つり革につかまることができず、右腕が自由にならないというのはこんなに不便なことなのだと思いながらも、その一方で、車椅子で移動されている方、松葉杖を使って歩いている方、高齢で歩くことに難儀されている方、幼いお子さんを連れているお母さん方など、たいへんな思いをなさっている方が他にもたくさんいることに気付かされました。きっと、仏様阿弥陀様そしてご先祖様は、「この男の眼を覚ましてやろう、有り難味を味あわせてやろう」ということで、これまで父親を恨み、自分の人生を恨み、他人を疑い、自分以外の人を信用してこなかった小生に対して、投げかけをなさったのだと思っております。手術の前にも、「この医師はどこの大学の卒業か、程度の低い医師ではないだろうか」と、疑いの念が頭に何度も浮かびました。小生は今でも、信じるよりもまず疑ってかかります。これはもうずっとこのままなのかもしれません。もっと人を信用できたらどんなに楽なことかと思うこともあります。信じることが楽にできれば人生もっと楽しいものになるのに、と思うことがあります。でも今の小生にはそうすることしかできない。小生の模索はこれからも続くことと思いますが、簡単に納得できるものではないですし、またそうしたくもありません。今回の骨折のように、ある日突然気付かされるのかもしれません。それこそ、仏様阿弥陀様そしてご先祖様に全部お任せするしかない。どうにもしようのない自分がそこにいるとしか、今の小生には申し上げられません。

☆がくさんへ
手術も無事だったご様子、よかったですね。
人は、自分自身が経験しないと、他者への気遣いができないものなのでしょうか。哀しいものですね。しかし、骨折を縁に、他者の存在に気付く眼をお持ちになられたこと、これからの歩みの財産ですね。
ある日突然に気付かされることがあるのは、常に仏智の中にいるから。だからこそ、目が覚めるということが起こりうるのですね。
5日の聞法会、お待ちしております。

こんばんは。先日はコメントにお返事まで頂き、ありがとうございました。

幼少の頃から、お寺に行くたびに掲示板の言葉が難しすぎてよく解らなかったです。正直今でも難しくてよく解りませんが、ここではかつさんが訳してくれるから解り易くていいな~♪♪♪なんて思いながら読んでます。

私は、物心ついた時から片耳聞こえません。物心ついた時には片耳での生活が当たり前だったので、さほど不自由とは感じませんでしたが。ただ、小学生の頃は呼ばれる声が聞こえず無視して友達に誤解されたり、定期健診で学校を休むと“ずるい”と言われたり・・・“好きで休んでるんじゃないのに”と思いながら、悔しくて家で何度涙したことか。手話で話す人は耳が聞こえないんだって分かってもらえるし、盲導犬を連れたり杖をついている人は目が見えないんだってわかってもらえるけど、私の場合は見た目じゃ分からないからな~とひがんだこともありました。幼かったな~と反省してますが。でも、世の中には私よりもっと不自由な思いをされている方が笑顔で明るく輝いているんです。これまで生きてきた中で、不自由さに負けず頑張っている方をたくさん知りました。何度自分が恥ずかしく思えたことか・・・

私は、うちがお寺だということで人の死に対して、結構冷静に考えられたと思います。悲しくて悲しくてその時は号泣しますけど。専門学校に通っていた時、小学校からの友人で文通友達だった子が亡くなりました。とても悲しくてやることに身が入らない感じになりましたが、お通夜に一緒に行った友人のお母さんが「うちの子は悲しくて、あの子はもうご飯も食べれんけん、って夕飯も喉を通らんかったとよ」と言っていたのを聞き、帰って「あんたはしっかりご飯ば食べんばよ!あんたが倒れても亡くなった子は喜ばんとやけんね。」と、母に言われ「分かっとるさ」と言ったら「あんたはお寺の子やけんね~」とやり取りをみていた父が笑っていました。

時々、片耳が聞こえない代わりに人の気持ちを考えられるようにしてくれたのかな~?なんて思う時もありますし、結構音の違いに敏感だったりするのでそれも片耳のおかげかな?なんて思ったり・・・だから、自分を大切にして人を思いやり生きていこうと思います。

ごめんなさい、どうしても悪い癖で要点だけではなく自分の思いも説明しようとするため、いつも文章が長くなってしまいますネ・・・気をつけなければ!!

追伸:坊守さんは父のお仲間(確かコーラス?)と伺っております。くれぐれもよろしくお伝え下さい。

昨日は久しぶりに聞法会に寄せていただきました。
たくさんご馳走になり、帰りには御住職に駅までお送りいただき、ありがとうございました。皆様にお目にかかり親しく懇談することができとても良かったです。
いつもながらこころに響くことばがございました。
「苦をなくすためにつながりを無くしていいものでしょうか?」
辛いこと苦しいと思うことは、一時的にそれから離れたとしても、消えてなくなるわけではない、だったら、その辛いこと苦しいことに正面から向き合ってみる。そうすることで、何か見えてくるものがあるのではないか。人と人とのつながりについても同じことで、独りで居るだけならば「ヒト」でしかないけれど、自分以外の人と関わりを持つことで「人間」であることができる。小生は昨日のお話についてそのように思いました。今回の骨折にしても、きっと何か意味があったのだと思います。
眼の前に在ることがらに正面から向き合う、眼の前に居る方にまごころをもって接する、そうすることができれば素晴らしい人生になると思います。まだまだそうすることができるに至らない自分が居ることに気付かされた昨日のお話でした。ありがとうございます。

 みんな違ってみんな良い・天は人の上に人を創らず人の下に人を創らず・世界に一つだけの花などの平等を願った言葉が人々の痛んだ心を癒しているようですが、真の平等はなかなか実現しないものです。
 どうしても社会的な上下関係がなくなるということはありえませんから、そこで人はもう平等ではなくなるし、また差別をなくそうとするならば、その時点で、人を差別しない人は最高の人間・人を差別する人は最低の人間っと差別する人を差別していることになるのです。

 真実の言葉でさえ暴力になることもあるのです。ネガティブ思考より、ポジティブ思考の方が真実としてはいいのかもしれないのですが、ネガティブな人にポジティブな思考を強要してはいけないのです。自分の愛する人が人生に悩んで自殺しようとしたいたとしても、自殺を止められるかは分からないのです。命は大切とか周りの人が悲しむという言葉は暴力ですよ、言葉をかけられたら、理解はするし、そんなことなど誰だって分かってはいるのですから、それを踏まえて自殺に踏み込んだのかも知れません。
 聴いた人はみんな真面目に健全になっていくような魔法のみたいな言葉なんてないのです。言葉を聴いてその通りに実践するかはその人しだいですし、どちらでもいいのです。

 生きることに意味があるのではなくて、生きていることで起こる出来事・人々の行い・考え方の全てに意味がある。なぜなら、全ての物事は異なり、何一つ同じことなはい。空間において一cm違えば随分異なるし、時間においても一秒経てば随分異なるのです。そういう意味で、全ての物事はかけがえのないものだからです。
これは世間からみてどんなに悪いことでも、凄く良いことと同じだけの価値があるということで、如何なる人も平等に見る考え方なのです。

 誰もが人格否定されるのは嫌だし、改心を急かされるのも嫌なのです。心の汚れた部分があればあるほど幸せが遠のいていき、周囲の人に迷惑をかけてしまいますが、その汚れた部分はマイペースに変えてゆきたいのが人の正直な心でございます。一時の間だけでも自分の思い通りになりたいものです。やはり悟るならやりたいことをやってから悟りたいというのが大勢の願望だろう。そんな願いを実現し、心にゆとりを持たせながら、じっくり悟りを目指せるのが極楽浄土だと私は思います。

 この世では全ての人が自分の人生を素直に受け入れることは難しい、自分が自分の人生を受け入れることができたとしても、それはたまたま受け入れやすい人生だったのかもしれない。人によっては無理かもしれない。

 断然私は極楽浄土はあの世だと思う人間だ。私は私の人生現段階では受け入れ難しだ。

 

・かつさんへ

昨日は聞法会に参加させていただき、またその後に楽しい「暑気払い」まで開催していただき、すっかりお世話になりました。「暑気払い」もサンガか? そうでしょうね。凡夫(ただびと)だから、仏法を聞いた後の宴もサンガでしょう。


・がくさんへ

昨日は久々にお会い出来て、また、がくさんの回復が順調な様子を拝見出来て良かったです。また近々お会い出来ることを願っています。

☆みどりんさんへ
ようこそおいでくださいました。
お耳のお話を聞かせてくださいまして、ありがとうございます。
耳や目に不自由のない私が言うのは、失礼なことでもあるのかもしれませんが、
目が見えない方は、目が見える人以上に、見えているものがあるんじゃないか。
耳の聞こえない方は、耳が聞こえる人以上に、聞こえることがあるんじゃないか。
そう思います。いかに、私が、何も見ず、何も聞こえていないかを、知らされることがあります。
こうやって、ことばを頼りとして文章を書いていることも、実は、人を傷つけえいるかもしれない。そういうことを忘れないようにしています。起こる事象はひとつでも、捉え方・考え方は、人の数だけあります。
でも、見てくださっている人の中で、こうやってコメントをくださって、ありがたく思います。
しかも、お父様とうちの坊守が知り合いかもしれないとは。つながりを感じます。お父様にもよろしくお伝えくださいませ。

☆がくさんへ
先日は聞法会へお越しくださいまして、ありがとうございます。久しぶりにやすさんとも会ってお話ができて、よかったですね。

「苦をなくすためにつながりを無くしていいものでしょうか?」
自分で話しておきながら、難しいことだなぁって、感じます。やっぱり、断ちたいつながりはありますもの。でも、それが人間。それが人生。それがあるから、気付けること、楽しいこと、新たなつながりが生まれる。
つながりを嫌うこころを無くしましょうというのではなく、そういう想いがわいてしまうのも私。
そういうことを忘れずに、つながりを生きたいのです。
 
白骨や聞法会で、またお話しましょう。
お体、ご無理ありませんように。お大事になさってください。

☆真照さんへ
人身受け難し 今すでに受く
仏法聞き難し 今すでに受く
人として生まれ、生きている
人生の中で、仏法に出遇い、仏法に生きている。
その事実だけで、かけがいのないものです。
 
と、書いたら
「それだけでいいはずがない。これからが大切だ」
と、怒られたことがありますが。
でも、今、私がある事実が、浄土なのだと、私は思っています。 
   
  
「差別をなくそう」と言っている時点で差別が発生しているという視点は、とても大切な視点だと感じます。ありがとうございます。

☆やすさんへ
先日は聞法会へおでかけくださいまして、ありがとうございます。がくさんとお話ができて、よかったですね。
 
暑気払い…はい、まさにサンガだったと私は感じています。
「凡夫」を「ただびと」と読むとは、よく言ったものだなぁと、感じています(偉そうですね)。
 
今度は白骨でお会いしましょう。楽しみにしています。

寺報ありがとうございます!

改めて読み直して「真宗遇いがたし」という言葉を思いかえしています。

いま、幸せにも光明号を頂きながらも、本当の信心を自分は確信しているのか。
少し不安です。でも、たくさんの人たちと出会い「よき朋」を得られたのは自信を持てます。

道のりを楽しんでいきますね。

昨日は「白骨の会」の靖国神社等見学会に参加させていただき、ありがとうございました。私は昔から戦争の体験談や映像に触れると、重苦しい感情に押し潰されてしまいます。今回の見学の最中もずうっとそうでした。見学後の「感想を語り合う会」では感想を口に出せず、無関係な浮ついた話ばかりをして申し訳ございませんでした。その償いとして(?)、私のホームページの「Coffee Break」のページから私が作成した「見学記」へのリンクを貼りました。これもいい加減な内容ですが、これで御容赦ください。

☆たかさんへ
お元気でお過ごしですか。
東京はとても蒸し暑いです。京都はいかがですか?
「よき朋」との出遇いをいただきながらの生活、そこには、私が信心を得たとか得なかったという想いを越えた、不思議なご縁があります。
 
暑い夏、思索に適した季節です(by曽我量深)
かけがえのない時間、思索を深めて生活ください。体には気をつけて。

☆やすさんへ
先日は「白骨の会 戦争を訪ねる会」にご参加くださいまして、ありがとうございます。
HP拝見させていただきました。そのように、こころ詰まる想いをされていたとは気付きませんで、失礼いたしました。
私は、戦争についてブログでコメントしたり、白骨の会で戦争に関する場を訪ねることをしたりしていますが、やはり、こころのどこかに第三者的視線(というか、無関心と言ってしまった方がいいのかもしれません)があるのです。
自身で戦争を体験していないということは当然のこととして、身近な親類からすら戦争体験について話を聞いたこともないのです。だから(というのは、可笑しいかもしてませんが)、戦争はいけない、戦争は恐いと言いながらも、どこか真剣ではないのです。そのもどかしさをいつも感じています。
やすさんが感じられる重苦しい感情…そのことについてお話を伺うのは、やすさんから話してくれるのならともかく、私の方から尋ねるというのは、とても不躾なことです。会の後の感想を語る会は、あの日はあれでとても充実していたと感じています。
8月の暑い日、場を共にできたことに感謝しております。ありがとうございます。
9月の白骨は寺で行います。ぜひお出かけください。お待ちしています。

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