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2009年7月

2009年7月23日 (木)

地球最期の日

明日は、核ミサイルが発射される。地球最期の日。それが分かっている。

不思議なことに、こころは落ち着いている。しなければならないことが分かっているかのように。

大切な人の手を握りながら、普段なら口にするのも恥ずかしいようなことばが口から出てくる。

「今までありがとう。出会えてよかった」

小さな小さな 二人だけの空間。
静かにときが流れる。

いよいよ地球最期の日。
今日核ミサイルが発射されるのは分かっている。
しかし、いつなのか、時間は分からない。
なにも手につかないというわけではなく、ただ、空を見上げている。

晴れ渡った、青く澄み切った空。白い雲が、ゆっくり流れていく。

やがて日が暮れはじめ、青かった空が、夕焼けの赤に染まっていく。

こんなにもじっくり空を見続けたことがあったかな。
間もなく終わるいのちにではなく、移りゆく空の景色に、涙がこぼれる。

広い広い草原に、ひとりポツンと立っている。やがて日は完全に暮れ、漆黒の闇が私を包む。

時計をしてないのに、ハッキリ分かる。
あ、日が変わった…

昨日は、核ミサイルが発射される。地球最期の日。そのはずだった。

なにが起きたのだろう。
いや、起きなかったのだろう。

普段とは違う一日を過ごした。
普段とは違う一日を経て、また元の日常に戻る。

「今までありがとう。出会えてよかった」
そのことばは偽りのない本心。しかし、濁ったこころに、ことばが染まっていく。
ねたみ・そねみ・腹立ちのこころは、消えてはいない。

「移りゆく空の景色に、涙がこぼれる」
その涙は、人知が混じらない、自然の涙。しかし、時の流れに、涙の流れは打ち消されていく。なにも残らない、時に流されているだけの日常に埋没していく。


   


ぼんやりと目が覚める。
いつのまにか寝てしまった。
いや、はじめから夢だった。
まるで、現実に経験したかのように、心身ともに疲れている。

死ぬということはハッキリしている。しかし、「その時」は分からない。
本当に生きるとは、このような心身の疲れを抱えて生きることなのだろう。
しかし、それでは辛くて生きられないから、こころを濁し、日常という時に埋没する術(すべ)を身につけたのかもしれない。
それが良いのか悪いのかは分からない。
しかし、今現在の私の人生の背景には、疲れてしかるべき現実が内在している。

2009年7月11日 (土)

御遠忌は、私の姿

ご本山のHP(TOMO-NET)に、
東京教区同朋大会の取材記事がアップされました。
どうぞご覧ください。
 
しんらんしょうにんホームページ
 
     
  
2011年に宗祖 親鸞聖人の750回忌法要が勤まります。
750回忌に向けて、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマが発表されました。
このテーマのもと、御遠忌を迎えましょう!という方向に進んでいくものだと思うのですが、テーマが発表されてから何年も経つのに、いまだにテーマの解題が中心になったり、意味が分かる分からないというところで留まっているように感じます。
 
「今、いのちがあなたを生きている」 
おしえに出会い、おしえに生きている。そのような事実がテーマとして表現されたのだと思います。
テーマとして表現され得たのは、親鸞聖人のおしえを聞き注いできた先人がいるから。
テーマを、言葉として理解しようとする必要はないのだと思います。おしえに出会った私自身が、テーマを体現しているのですから。
 
今回の同朋大会は、講師のお話に先立ち、3名の方の感話がありました。
3名の方が日ごろ感じておられるお話を聞いて、それから講師の大江憲成先生(九州大谷短期大学学長)のお話を聞いていたら、4名の方のお話を通して、一本筋の通った何かを感じました。
4名の、人生の歩みはそれぞれですが、その背景には共通のいのちがあります。それは、その4名だけでなく、私たち一人ひとりを包んでいるもの。見捨てませんという、必死で衆生を護ろうと誓う優しさ。
そういう優しさの感得がテーマとなり、それは、理解したり強要したりするものではなく、私自身の姿。 
 
テーマを目にするとき、いつも平野修先生のことばが思い起こされます。

   如来の本願は、
    風のように身に添い、
     地下水の如くに流れ続ける

2009年7月 6日 (月)

泣きたいときは 泣いてほしいのです

2009年7月4・5日(土・日) 西蓮寺新盆法要をお勤めいたしました。
この一年の間に、大切な方を亡くされたご門徒さんにお集まりいただき、合同の新盆法要をお勤めいたしました。
法話は、私がさせていただいています。
  
   
     
お盆の由来
『仏説盂蘭盆経(ぶっせつ うらぼん きょう)』というお経があります。
お釈迦さまのお弟子さんの目連さんのお話です。目連さんはある日ふと、亡くなられたお母様がどうされているか心配になりました。神通力を使い、お母様を探されます。
ところが、どれだけ探しても、お浄土にお母さんがいません。もしやと思った目連さんは、餓鬼道という地獄に行ってみます。すると、飢えに苦しみ、痩せ衰えたお母さんがいました。目連さんは食べ物を渡すのですが、お母さんが、その食べ物を口に運ぼうとすると、食べ物が炎に変わってしまい、口にすることができません。
困った目連さんは、お釈迦さまに相談します。「どうしたら母を救えるのでしょうか?」
お釈迦さまは言います。 「多くの修行者の力を借り、お供え物をし、母が浄土に行けるように念じなさい」と。
お釈迦さまが言われた通り、お供え物をし、多くの修行者と共に、餓鬼道に堕ちた人々が浄土に行けるように念じました。すると、目連さんのお母様だけでなく、餓鬼道に堕ちたすべての人々が、浄土に行く姿が、目連さんの目に映りました。 
この『仏説盂蘭盆経』のお話が由来となって、日本ではお盆(盂蘭盆)の習慣ができたと言われています。
 
 
 
毎年お盆にお話をしていて、基本的には同じ話をしているのですが、毎年ちょっとずつ変わってはいます。そのときの私自身の想いの違いもありますので。
明日話すという晩、つまり3日の晩、話す内容について考えていました。
 
で、思ったのです。新盆法要に集まられる方は、この一年のうちに大切な方を亡くされ、つらい想い、悲しい想いをされた方々です。そういう方々が新盆法要にお集まりになって、その法話で聞きたいこととは、こういう話なのだろうか?と。 
身近な人を亡くして、「なぜ死んでしまったのだろう」「限りあるいのちをどのように生きればいいのだろう」「なぜ生まれたのだろう」…いろいろなことを考えたはずです。 
とりあえず、話の導入として『仏説盂蘭盆経』の話をしてから、声を聞くことにしました。「大切な方を亡くされて、なにか感じられたことはありませんか」と。
 
おひとり、手を上げてくださいました。
「亡くなった人のことを思い出して、今でも涙が出ます。でも、亡くなった人が心配するから、いつまでも泣いていてはいけないと諭されて…。でも、涙が出るんです。泣いてはいけませんか?」
 
つらい想いをされたうえに、さらにその想いに蓋をさせられて、余計につらい思いをされていたのですね。
泣きたくなったら泣いてください。声を出して泣いてください。
どんなに涙流しても、涙は枯れることがありません。不思議なものです。もう涙は流れないと思うほど泣いても、また、涙は溢れてくるのです。それを我慢することはありません。
  
身近な人が亡くなると、いろいろな迷信を言う人がいます。
「亡き人が心配するから泣いてはいけない」
「いつまでも亡き人のことを想い続けてはいけない」
「不幸が続くのは、亡き人が迷っているから」
そのようなことを言う人は、本人としては相手を心配してのことかもしれませんが、そのようなことは言ってはいけません。
物事を亡き人のせいにしてはいけません。 
亡き人は、迷いもしないし、生きている私たちを呪ったりもしません。
 
私たちは、縁を生かされて生きる身です。
我が身に起こることは、すべて縁によります(自分にとって都合がいいことであっても、悪いことであっても)。
亡き人のことを想って涙流すということも、亡き人との縁があるからこそ、流れるのです。  
涙によって、亡き人に出会う。亡き人を想うことを通して、私自身を見つめることとなります。 
  
身近な人との別れを通して、我が身に沸き起こる様々な想い。
その想いは、亡き人から与えられたもの。
与えられた想いは、私がこれから歩む人生に、なんらかの道標となる。その想いを打ち消す必要も、隠す必要もなありません。

法話・法要を勤め、食事の時間…お参りされたすべての門徒さんと話すように努めています。すると、「手を挙げられてお話された方の気持ちがわかります」「私も同じようなことを言われた経験があります」と、たくさんの方が同じような苦しい経験をされていました。それだけ、想いを封じ込める迷信が蔓延しているのですね。泣きたいときに泣くことを許されないで、いつ泣けばいいのでしょう。泣きたいときは、泣いてほしいのです。

2009年7月 1日 (水)

2009年7月のことば

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   一切の有情(うじょう)は
    みな食(じき)によりて住す

          『成唯識論(じょうゆいしきろん)』
  
食べることというのは、生きることの根幹かもしれない。
 「なぜ生まれてきたのか」
 「なぜ生きなければならないのか」
 「なにをすべきか」
 「どう生きるべきか」
 「この世に生まれてきた意味はなにか」
 「生きることに意味はあるのか」
人は、多くの苦悩や疑問を抱えて生きている。しかし、それら苦悩や疑問が、どんなに深く大きくとも、お腹がグゥッと鳴ったとき、意識は空腹に奪われる。どんなに悩んでいても、食べることを忘れてはいけないと、体は訴えているのだろう。
頭ではいろいろ考えて、人生という道の歩みは止まってしまっても、体は、食べろ食べろ、動け動けと催促する。
「自分のことは自分がよくわかっている」とか「自分の体なんだから、自分がどうしようと勝手だろう」などというけれど、自分ほど分からない存在はないのではないだろうか。
食べ物を口にすると、そのときばかりは苦悩も忘れられ、その美味しさにこころを奪われる(あぁ、こころを奪われるから、それまで頭でいろいろと考えていたことも、消えるのか)。
なんて書いたけれど、なにものどを通らないほどに悩み苦しんでいる人もいる。味を感じない人もいる。食べ物でごまかせるほど、単純な悩みじゃないんだと、お叱りを受けることだろう。
そのような人は、確かにいる。私にも、そのような時期があった。それほどの苦悩を軽んじているのではありません。
 
人は、それぞれに問いを持ち、もがき苦しんでいる。しかし、その問いは、頭で考えているもの。その問いが、私を苦しめていると思っているけれど、果たしてそうなのだろうか。
お腹がグゥッと鳴る事実にしても、私の想いとは別に働いているものがある。この身だ。どんなに苦しんでいても、食べる気がしないと思っていても、お腹は鳴る。
怪我をして傷になっても、骨を折っても、傷は治ろうとし、骨は再生しようとする。生きていることに疑問を感じている人であっても、その肉体は治癒に努める。死を考えている人だから、体も治らなくていいねなんて、傷口が膿み出したり、骨が再生を拒んだりはしない。やはり、治ろう治ろうと一生懸命になる。
目前に大きな仕事が迫っていて、それを無事に成功させるため一生懸命になる。そのときは必死だから頑張れるけれど、仕事が無事終わったとき、体は途端に悲鳴をあげる。疲れたり、だるくなったり、寝込んだりしてしまう。頭ではまだまだ動けると思っていても、体は「休んだほうがいいよ」と訴えかける。まだ大丈夫だから、休む必要はないと気持ちで押さえつけても、体は正直。いつか無理がくる。
頭と体、こころとからだは、一つであると錯覚しているけれど、べつべつのようですね。
 
生きることに意味を探すことが流行っています。誰もがそういう時期を通過するのかもしれない。意味を探すことはいいけれど、意味を探し当てたら、どうなることでしょう。
自分で見つけた意味は、自分を納得させるための意味でしかない。その瞬間は納得できても、次の瞬間にはもろく崩れ去ることでしょう。それもつらいけれど、もっとつらく悲しいことがある。もし、「私は、私が生きる意味を見つけた」と言えたなら、その人は他者を、見下げてしまうことでしょう。「私は見つけた。こいつは見つけていない」「私には意味がある。あいつには意味はない」…私は意味を見つけたと言った時、他者を想う気持ちを失い、他者を批評・批判する者になってしまうのです。
私は思います。生きることの意味を見つけるということは、楽になることではなく、重荷を背負って生きることなのではないかと。いや、重荷を感じて生きることなのではないかと。
生きとし生けるものは、誰しも重荷を背負って生きています。ただ、それを感じたくないがために、架空の意味で逃げようとしている。実は、知ってはいるのだ。その重荷の存在を。だから、そこから逃げ出そうと必死になる。逃げることは出来ないのに。逃げようとする理知と、逃げ出せない現実。頭と体、こころとからだがバラバラになっている。意味を探す旅が、余計に意味を分からなくさせている現実。
食べることは生きることの根幹。飲み食いせずに旅を続けられるのなら、そうすればいい。しかし、それはできない。食べることにより、潤いを得ることにより、バラバラだったこころとからだがひとつになれる。そこで初めて、自分が生きているという実感が湧きあがる。
  
一切の有情は みな食によりて住す
(生きとし生けるものはすべて常に何かを食べることによって生きている)
食べるということに特化して文章を書きましたが、「食(じき)」とは、人の持つ欲望を表わしていると聞いています。『成唯識論』に出てくるこのことばは、もっと違うことを訴えているのかもしれない。唯識に明るくない私は、そこのところを語れません。
しかし、このことばに出遇い、生きるということに根が生えることばだと感じました。
   
     
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。7月は金魚すくいです。
クマが獲物を狙っています。でも、桶の中にいるのは、金魚ではなくクジラです。壮大な金魚すくいです。
クジラの置物は、大久保石材様より頂戴致しました。ありがとうございます。
Dscf2357

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