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2009年7月 1日 (水)

2009年7月のことば

 Dscf2356
   一切の有情(うじょう)は
    みな食(じき)によりて住す

          『成唯識論(じょうゆいしきろん)』
  
食べることというのは、生きることの根幹かもしれない。
 「なぜ生まれてきたのか」
 「なぜ生きなければならないのか」
 「なにをすべきか」
 「どう生きるべきか」
 「この世に生まれてきた意味はなにか」
 「生きることに意味はあるのか」
人は、多くの苦悩や疑問を抱えて生きている。しかし、それら苦悩や疑問が、どんなに深く大きくとも、お腹がグゥッと鳴ったとき、意識は空腹に奪われる。どんなに悩んでいても、食べることを忘れてはいけないと、体は訴えているのだろう。
頭ではいろいろ考えて、人生という道の歩みは止まってしまっても、体は、食べろ食べろ、動け動けと催促する。
「自分のことは自分がよくわかっている」とか「自分の体なんだから、自分がどうしようと勝手だろう」などというけれど、自分ほど分からない存在はないのではないだろうか。
食べ物を口にすると、そのときばかりは苦悩も忘れられ、その美味しさにこころを奪われる(あぁ、こころを奪われるから、それまで頭でいろいろと考えていたことも、消えるのか)。
なんて書いたけれど、なにものどを通らないほどに悩み苦しんでいる人もいる。味を感じない人もいる。食べ物でごまかせるほど、単純な悩みじゃないんだと、お叱りを受けることだろう。
そのような人は、確かにいる。私にも、そのような時期があった。それほどの苦悩を軽んじているのではありません。
 
人は、それぞれに問いを持ち、もがき苦しんでいる。しかし、その問いは、頭で考えているもの。その問いが、私を苦しめていると思っているけれど、果たしてそうなのだろうか。
お腹がグゥッと鳴る事実にしても、私の想いとは別に働いているものがある。この身だ。どんなに苦しんでいても、食べる気がしないと思っていても、お腹は鳴る。
怪我をして傷になっても、骨を折っても、傷は治ろうとし、骨は再生しようとする。生きていることに疑問を感じている人であっても、その肉体は治癒に努める。死を考えている人だから、体も治らなくていいねなんて、傷口が膿み出したり、骨が再生を拒んだりはしない。やはり、治ろう治ろうと一生懸命になる。
目前に大きな仕事が迫っていて、それを無事に成功させるため一生懸命になる。そのときは必死だから頑張れるけれど、仕事が無事終わったとき、体は途端に悲鳴をあげる。疲れたり、だるくなったり、寝込んだりしてしまう。頭ではまだまだ動けると思っていても、体は「休んだほうがいいよ」と訴えかける。まだ大丈夫だから、休む必要はないと気持ちで押さえつけても、体は正直。いつか無理がくる。
頭と体、こころとからだは、一つであると錯覚しているけれど、べつべつのようですね。
 
生きることに意味を探すことが流行っています。誰もがそういう時期を通過するのかもしれない。意味を探すことはいいけれど、意味を探し当てたら、どうなることでしょう。
自分で見つけた意味は、自分を納得させるための意味でしかない。その瞬間は納得できても、次の瞬間にはもろく崩れ去ることでしょう。それもつらいけれど、もっとつらく悲しいことがある。もし、「私は、私が生きる意味を見つけた」と言えたなら、その人は他者を、見下げてしまうことでしょう。「私は見つけた。こいつは見つけていない」「私には意味がある。あいつには意味はない」…私は意味を見つけたと言った時、他者を想う気持ちを失い、他者を批評・批判する者になってしまうのです。
私は思います。生きることの意味を見つけるということは、楽になることではなく、重荷を背負って生きることなのではないかと。いや、重荷を感じて生きることなのではないかと。
生きとし生けるものは、誰しも重荷を背負って生きています。ただ、それを感じたくないがために、架空の意味で逃げようとしている。実は、知ってはいるのだ。その重荷の存在を。だから、そこから逃げ出そうと必死になる。逃げることは出来ないのに。逃げようとする理知と、逃げ出せない現実。頭と体、こころとからだがバラバラになっている。意味を探す旅が、余計に意味を分からなくさせている現実。
食べることは生きることの根幹。飲み食いせずに旅を続けられるのなら、そうすればいい。しかし、それはできない。食べることにより、潤いを得ることにより、バラバラだったこころとからだがひとつになれる。そこで初めて、自分が生きているという実感が湧きあがる。
  
一切の有情は みな食によりて住す
(生きとし生けるものはすべて常に何かを食べることによって生きている)
食べるということに特化して文章を書きましたが、「食(じき)」とは、人の持つ欲望を表わしていると聞いています。『成唯識論』に出てくるこのことばは、もっと違うことを訴えているのかもしれない。唯識に明るくない私は、そこのところを語れません。
しかし、このことばに出遇い、生きるということに根が生えることばだと感じました。
   
     
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。7月は金魚すくいです。
クマが獲物を狙っています。でも、桶の中にいるのは、金魚ではなくクジラです。壮大な金魚すくいです。
クジラの置物は、大久保石材様より頂戴致しました。ありがとうございます。
Dscf2357

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コメント

食べたれるって事はものすごく有難いことなんだなぁーと思います。
生きるためには欠かせないんですけど、当たり前にように受け取ってしまいます。

苦悩や重荷もまた、生きているからこそ味わえるのかもしれません。渦中にいると逃げ出すことばかりが頭をよぎりますが、生きているからこそ、じっくり、自分のペースで向き合って、たんのう出来る身になりたいです。

☆たかさんへ
一人暮らしをしていると、自分で食べたいものを食べられる反面、食事を作ることが面倒臭くもなってしまう贅沢がありますよね。
食事、キチンととっていますか? 今度京都でお会いするときは、ゆっくり食事をしながら、お話しましょう。
 
堪能する…食べ物だけでなく、人生を堪能する。
ことばは、通じているものですね。
私も、人生を堪能しながら生きていきます。

小生は好き嫌いが無く、何をいただいてもおいしいと思います。また、小生にとっては、どんな高級レストランの豪華な料理よりも、ごはんと味噌汁が最高の食事です。そして、おいしいものをいただくというよりも、おいしくいただくということを大切にしたいです。かつて、冬の寒い朝の柔道の寒稽古の後、師範のご好意で作ってくださった一杯の豚汁をいただいたときのおいしかったことは、今でも良い思い出です。

☆がくさんへ
寒稽古の後の暖かい汁物
遠足のお弁当
泳いだ後のアイス
等々、なぜか とても美味しく感じますね
 

 体が無かったらこの世の諸事の何も楽しめませんからね。体の機能は優先的に守ろうとするでしょう。意識と肉体は別々だったとしても、やはり我々の意識は肉体に依存している。少なくとも肉体が無ければ“今の意識”は成り立たないから、どんな地球上の生命も肉体を維持する食べ物を求める。

 すべてのものは流れ移り変わっているが、ただの流れでは今の世界は成立しない。その流れが固まって、数多の存在がいないといけない。だから、全ての存在はその姿形を一定期間キープする必要がある。永遠ではない、流れの凝縮に過ぎないのだから、私たちは必死になって意識と肉体を維持しようとする。どんな生命もこんなに必死になって生きようとするのはこのためだ。みんなが生きることを止めてしまったら、世界には何もなくなり、ただの流れになってしまうからだ。

 私たちの意識や肉体なんてこんなもんだ。生きることに意味があるのではなくて、生きていることによって色々な展開がおこることに意味があるのだと私は思う。

 

☆真照さんへ
「生きることに意味があるのではなくて、生きていることによって色々な展開がおこることに意味があるのだと私は思う」
なるほど。私もそう思います。
そういうふうに受け取ることができれば、「意味」が「答」ではなく、「問い」になりますね。

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