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2009年6月

2009年6月18日 (木)

仕合わせ

前回の文章で、最後に
 
幸せだから感謝するのではない。感謝しているからこその幸せ。
 
と書いた。好きなことばです。
でも、〆に書いておきながら、「これでいいのかな」と、釈然としませんでした。
ことば自体は好きだし、大切なことを表わしているのだけれど、私の拙文によって、ことばが死んでしまっているように感じていました。
 
「幸せ」って、なんでしょう。
私たちが求める「幸せ」って、どうしても、自分に都合がいいことの枠を出ないような気がします。
自分や、自分に身近な人々さえよければいい。他の人はどうでもいい。というような。
そのような「幸せ」を求めていて、「幸せ」も「感謝」もないような気がします。
 
幸せを求めて、不幸になっている今の世の中。
なぜでしょうか。
「幸せ」を求める内容が「自分さえよければいい」の結果、生み出されたものは「不幸」。
そのことに気付かず、まだ「幸せ」を求めている。
 
「人間は幸せを求めて生きているものじゃないんですか!?」と、言う人もいるけれど、
幸せを求めるのはいいけれど、結局幸せを求めて不幸を導いているのは、誰でもない、私自身。
以前、「幸福を求める者は 必ず不幸になる」ということばを掲示したら、「どうしてですか?」って、たくさん尋ねられたことを思い出しました。
 
「幸せ」の語源は「仕合わせ」というのを聞いたことがある。
「仕合わせ」…「仕える人に出会えること」
この人の元で働こうって、心底喜んで仕えることができる人との出会い。それが「幸せ」ということ。
仕事に限らなくてもいいと思う。人間関係すべてにおいて、「この人に出会えてよかった」と思うことができたら、それが幸せな人生なのだろう。
忘れてはいけないことは、「出会えてよかった」と思える人とだって、確執は起こるし、「好きなんだけど、ここだけは許せない」ということは多々ある。
つまり、まったく不快な思いをすることの出会いが「幸せ」なのではない。
人と人とが出会えば、いろいろあるもの。でも、それでも「この人に会えてよかった。この人との出会いが、人生のすべてだ」と、言えることがあれば、それが幸せ。
そういう出会いがあったとしても、人間関係のゴチャゴチャがなくなるわけでも、苦悩がなくなるわけではない。つまり、私が求める意味での「幸せ」ではないけれど、「仕合わせ」ということは起こりうる。「仕合わせ」が「幸せ」に導く。
 
幸せだから感謝するのではない。感謝しているからこその幸せ。
釈然としない思いをかみ締めながら、「仕合わせ」について、つまり「人との出会い」について考えていました。 

2009年6月10日 (水)

道標

ちらかった部屋に通されたら、ちらかっていることが気になることでしょう。
「少しは片付けろよ」と、文句も出ることでしょう。
でも、きれいな部屋に通されたら、特になにも感じないことでしょう。
だから、「きれいですね」とか、ほめることばも出ないことでしょう。
 
服にほころびがあったら、
「縫っておけよ」と、文句も出ることでしょう。
でも、知らないうちにほころびを直されていたら、その事実を知らないままになる。
「縫ってくれて、ありがとう」なんて感謝のことばが出るはずもない。
 
道路を無謀な運転をする人がいる。
今まで事故を起こさずに済んでいるのは、自分の運転のテクニックが上手いからなんて思っているかもしれない。
多くの人間の安全運転のおかげで、事故にならずに済んでいるのに、それに気付かない。
事故を起こす前に、気付いて欲しい。
 
街の環境が整備されていても、そのことに気付かなければ、
不備にばかり憤りを感じることでしょう。
「ここがああなら便利なのに」「これは不便で腹が立つ」
便利さばかりを追求してると、すでに私のために為されている優しさに気付かない。
  

  
綺麗にされていて、直されていて、安全安心で、優しさに満ちた世界にいるのに、
それに気付かない私は、
汚れて危険な環境に身を置いているのと同じこと。
汚れて危険な環境は、私自身が作り出す。
どんなに環境が整っても、たとえここが浄土でも、
私ひとりのために、たとえ浄土でも地獄になる。
 
綺麗にしていて、直していて、安全安心に気を配り、優しさを発しているのなら、
それに気付いてもらえないことを、愚痴ってはいけない。
こんなにしているのに、こんなに頑張っているのに、こんなに想っているのに…
こんなにする、こんなに頑張る、こんなに想うのは、褒めてもらいたいから?
いや、元々の想いは違うはず。その想いを忘れないで生きたい。
気付いてもらえなくても、褒めてもらえなくても、
見ていてくれている人は、必ずいるのだから。
だから、愚痴らなくてもいい。愚痴ると、自分で自分を安っぽくしてしまいますよ。 
  
   
優しさに包まれて生きているのに、その事実に気付かずに不平不満ばかりの不幸。
でも、優しさに包まれている事実に気付くことが幸せなのではない。
すでに幸せの中に身を置いている。感謝の日々。
幸せだから感謝するのではない。感謝しているからこその幸せ。

2009年6月 1日 (月)

2009年6月のことば

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     忙しいということは
      怠けている証拠です

                安田 理深
           
「忙しいほど頑張っているのに、怠けているとは、どういうことですか?」という声が聞こえてきそうです。
「忙しい」と口にするときは、仕事に忙しいのでしょう。家事に忙しいのでしょう。人間関係に忙しいのでしょう。生きていくうえで、しなければいけないことはたくさんあります。たしかに、忙しいものです。
しかし、人間として、誰とも代わることのできない私として、いのちをいただいて生まれたということは、そこに意味があるのではないでしょうか。その意味を尋ねる歩みこそが、一生をかけてしなければいけないことではないでしょうか。
私(いのち)を問うことなく生きる一生は、生きることを怠けているのかもしれません。
   
「怠」は、「なまける」と読みますが、「おこたる」とも読めます。やるべきことをやら
ない、つまり「おこたる」から、忙しい日常に埋没しているのかもしれません。
やるべきことをやらずに、世間の都合に、自分の想いに振り回されて、忙しくしていないでしょうか。
                   
なぜ生まれてきたのか。なぜ生きているのか。誰とも代わることのできないいのちを、なぜ私として生きているのだろう。
人として生まれ、私として生まれ、問うことはいっぱいある。人生そのものを根底において問い続けていく。「やるべきこと」は尽きない。それなのに、持って生まれた宿題を放り出して、世間のことに こころを削り、  いのちをすり減らしている。
『「忙」という字は、「心を亡くす」と書きます』とは、よく耳にするお説教。だけど、よく考えてみると、大変なことを言っている。
「無くした」ものは、探すのをやめた時、見つかることもよくある話です。しかし、 「亡くした」ものは、もう、見つかりません。「忙しい」とつぶやく背景には、自分の人生を見失って生きている事実があります。自分が見えない人に、他人(ひと)が見えるということはないでしょう。
人を人と見ない最近の風潮。仕方のないことなのかもしれません。
                
「宗教なんて信じてないし、信じていなくても人生に困ることなんてない」という声を耳にすることがあります。素直な意見だと思います。私も、浄土真宗の寺に生まれることがなかったら、そのように考えていたことでしょう。しかし、生まれたからこそ、「あぁ、真宗の寺に生まれてよかったなぁ(いや、生まれるべくして生まれたのかもしれないなぁ)」と思えます。一生を尽くして問い続ける課題をいただいて生きていけるのですから。
答えを求めるのが問いなのではありません。問い続けていけることが、本当の問いなのだと思います。
先のような声を口にする人は、気の毒です。確かに、「困る」ことはないと思います。でも、「困る」ということを知らずに、生きるなんて、味気ない人生です。
           
   
子どもの「ママ(パパ)、あのね、」の呼びかけには、手を休めて、目線を子どもに合わせて話を聞いてあげてください。「忙しいんだから!」って、怒らないであげてね。
というアドバイスをいただきました。「ママ、あのね、」の呼びかけには、いのちをいただいて間もない、小さい人たちの、これから生きていくための一生懸命な呼びかけが込められています。応えるということは、呼応するということ、問いを共有するということ。
いのちをいただいて年月が経ち、いのちについて何の感謝も疑問も持たずに生きている、大きくなっただけの人に、小さい人は感謝や疑問の気持ちを、お裾分けしてくれます。 「ママ、あのね、」の呼びかけに応えること以上に、どんな「忙しい」ことがあるというのでしょう(なんて書いたけれど、応えることのなんと難しいことでしょう)。
  
「南無阿弥陀仏」は、衆生から阿弥陀仏への、「あのね、」ではないでしょうか。「阿弥陀さん、あのね、」の呼びかけに、阿弥陀仏は、手を止め、私たちに目線を合わせ、「はい」と、応えてくれる。「南無阿弥陀仏」と申すところに、阿弥陀仏はいらっしゃるのです。
でも、子どもが「ママ、あのね、」と呼びかけられるのは、ママがそこにいるから。衆生が「南無阿弥陀仏」と称えられるのは、阿弥陀仏がそこにいるから。
「私があなたを守ります」という想いが 子どもに伝わるから「ママ、あのね、」という呼びかけが生まれるのです。
「私が衆生をすくいます」という願いが、衆生(ほとけの子)に伝わるから「南無阿弥陀仏」という念仏が、私の口から出るのです。
呼応の関係とは、どちらが先ということではなくて、お互いがいて、お互いを成り立たせていく関係なのです。

人として生まれ、私として生まれ、問うことはいっぱいある。
問いを持って聞法していたのに、結局は自分に良いように聞いてしまう。分からなくなってしまう。
聞法に忙しい、教化活動に忙しいというのは、聞法しているようでいて、聞法を怠けていることなのかもしれない。
安田先生は「忙しさをたよりとするような生き方はやめなさい」とも言われたそうです。
そんな生き方になっていないだろうか。自己満足と言う一方通行の聞き方をしてないだろうか。
「あのね、」という呼びかけの終わることの無い人生。それが、こころを持ち続けた歩みなのです。
  
   
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
6月は、蓮の葉に乗るカエルの親子・カタツムリです。
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カエルの親子と書きましたが、考えてもみれば、カエルの親子だとカエルとオタマジャクシですよね。ですから、人形はカエルのお友達ですね。

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