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2009年6月 1日 (月)

2009年6月のことば

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     忙しいということは
      怠けている証拠です

                安田 理深
           
「忙しいほど頑張っているのに、怠けているとは、どういうことですか?」という声が聞こえてきそうです。
「忙しい」と口にするときは、仕事に忙しいのでしょう。家事に忙しいのでしょう。人間関係に忙しいのでしょう。生きていくうえで、しなければいけないことはたくさんあります。たしかに、忙しいものです。
しかし、人間として、誰とも代わることのできない私として、いのちをいただいて生まれたということは、そこに意味があるのではないでしょうか。その意味を尋ねる歩みこそが、一生をかけてしなければいけないことではないでしょうか。
私(いのち)を問うことなく生きる一生は、生きることを怠けているのかもしれません。
   
「怠」は、「なまける」と読みますが、「おこたる」とも読めます。やるべきことをやら
ない、つまり「おこたる」から、忙しい日常に埋没しているのかもしれません。
やるべきことをやらずに、世間の都合に、自分の想いに振り回されて、忙しくしていないでしょうか。
                   
なぜ生まれてきたのか。なぜ生きているのか。誰とも代わることのできないいのちを、なぜ私として生きているのだろう。
人として生まれ、私として生まれ、問うことはいっぱいある。人生そのものを根底において問い続けていく。「やるべきこと」は尽きない。それなのに、持って生まれた宿題を放り出して、世間のことに こころを削り、  いのちをすり減らしている。
『「忙」という字は、「心を亡くす」と書きます』とは、よく耳にするお説教。だけど、よく考えてみると、大変なことを言っている。
「無くした」ものは、探すのをやめた時、見つかることもよくある話です。しかし、 「亡くした」ものは、もう、見つかりません。「忙しい」とつぶやく背景には、自分の人生を見失って生きている事実があります。自分が見えない人に、他人(ひと)が見えるということはないでしょう。
人を人と見ない最近の風潮。仕方のないことなのかもしれません。
                
「宗教なんて信じてないし、信じていなくても人生に困ることなんてない」という声を耳にすることがあります。素直な意見だと思います。私も、浄土真宗の寺に生まれることがなかったら、そのように考えていたことでしょう。しかし、生まれたからこそ、「あぁ、真宗の寺に生まれてよかったなぁ(いや、生まれるべくして生まれたのかもしれないなぁ)」と思えます。一生を尽くして問い続ける課題をいただいて生きていけるのですから。
答えを求めるのが問いなのではありません。問い続けていけることが、本当の問いなのだと思います。
先のような声を口にする人は、気の毒です。確かに、「困る」ことはないと思います。でも、「困る」ということを知らずに、生きるなんて、味気ない人生です。
           
   
子どもの「ママ(パパ)、あのね、」の呼びかけには、手を休めて、目線を子どもに合わせて話を聞いてあげてください。「忙しいんだから!」って、怒らないであげてね。
というアドバイスをいただきました。「ママ、あのね、」の呼びかけには、いのちをいただいて間もない、小さい人たちの、これから生きていくための一生懸命な呼びかけが込められています。応えるということは、呼応するということ、問いを共有するということ。
いのちをいただいて年月が経ち、いのちについて何の感謝も疑問も持たずに生きている、大きくなっただけの人に、小さい人は感謝や疑問の気持ちを、お裾分けしてくれます。 「ママ、あのね、」の呼びかけに応えること以上に、どんな「忙しい」ことがあるというのでしょう(なんて書いたけれど、応えることのなんと難しいことでしょう)。
  
「南無阿弥陀仏」は、衆生から阿弥陀仏への、「あのね、」ではないでしょうか。「阿弥陀さん、あのね、」の呼びかけに、阿弥陀仏は、手を止め、私たちに目線を合わせ、「はい」と、応えてくれる。「南無阿弥陀仏」と申すところに、阿弥陀仏はいらっしゃるのです。
でも、子どもが「ママ、あのね、」と呼びかけられるのは、ママがそこにいるから。衆生が「南無阿弥陀仏」と称えられるのは、阿弥陀仏がそこにいるから。
「私があなたを守ります」という想いが 子どもに伝わるから「ママ、あのね、」という呼びかけが生まれるのです。
「私が衆生をすくいます」という願いが、衆生(ほとけの子)に伝わるから「南無阿弥陀仏」という念仏が、私の口から出るのです。
呼応の関係とは、どちらが先ということではなくて、お互いがいて、お互いを成り立たせていく関係なのです。

人として生まれ、私として生まれ、問うことはいっぱいある。
問いを持って聞法していたのに、結局は自分に良いように聞いてしまう。分からなくなってしまう。
聞法に忙しい、教化活動に忙しいというのは、聞法しているようでいて、聞法を怠けていることなのかもしれない。
安田先生は「忙しさをたよりとするような生き方はやめなさい」とも言われたそうです。
そんな生き方になっていないだろうか。自己満足と言う一方通行の聞き方をしてないだろうか。
「あのね、」という呼びかけの終わることの無い人生。それが、こころを持ち続けた歩みなのです。
  
   
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
6月は、蓮の葉に乗るカエルの親子・カタツムリです。
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カエルの親子と書きましたが、考えてもみれば、カエルの親子だとカエルとオタマジャクシですよね。ですから、人形はカエルのお友達ですね。

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コメント

土曜日は同朋大会の後に楽しい法談をさせていただき、ありがとうございました。

仏教の中には、世間のことも仏法であるとの建て前を掲げて、忙しく暮らすことを善しとする宗派もあるようです。世間のことに忙殺されていれば色々と苦悩が生じる時間も無いし、我を忘れて没頭することを無我の境地であるとも勘違いし易い。しかしそれは、人間の根本問題が解決されることではなく、問題を忘れて過ごせば楽だということでしょう。世間の忙しさに行き詰れば自分が行き詰ることになる。世間に忙しければ自覚は成就されない。世間のことには勤勉であっても、仏法に懈怠であるということでしょう。

<「私が衆生をすくいます」という願いが、衆生(ほとけの子)に伝わるから「南無阿弥陀仏」という念仏が、私の口から出るのです。

聖人の教えで言えば、「発願回向というは、如来已に発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。」ということでしょう。

ご無沙汰です。

ついつい「忙しい」という姿に、自己満足してします。
人生でやるべきこと、やらねばならないことは眼前に存在していて、それをどのように「生きるか」が大切なのかもしれませんね。
「お前ならできるぞ」って、阿弥陀さんが下さる日々のいのちを大切にしなけいゃ。

「はっ」とさせられました。
ちなみに、久々の書き込みは「忙しくて」と言い訳をしつつ。。。

☆やすさんへ
コメントありがとうございます。
お返事が遅れて、すみません。忙しかったもので(コラコラ
 
同朋大会ご一緒できて、よかったです。
その後のビアホールもよかったですね。
 
「忙殺」ということばがありましたね。
ことばがあるということは、そういう事実があるということ。
「忙殺」ということばが生み出される背景には、
忙しさという勘違いに流されて生きている人間の現実が映し出されているのかもしれませんね。
 
「発願回向というは、如来已に発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。」
…分かっていただけて、よかった。
こういうことを、伝えたいなぁと思いながら、書きました。ありがとうございます。
 
6月の白骨の会、お待ちしています。

☆たかさんへ
お元気でいらっしゃいますか?
コメントありがとうございます。
京都での生活は落ち着かれましたか?
 
「お前ならできるぞ」という阿弥陀さんの呼びかけ。
今まさに、お前にしかできない人生を歩んでいる。
その道を、歩んでいきましょう。
ときには駆け、ときには歩き、ときには休みながら。
せっかく、誰とも変わることのできないいのちをいただいたのですから。

4月22日の柔道の時間に右鎖骨を骨折しまして、5月13日に手術して、8月の再手術まで只今療養中です。骨折して、これまで気付かなかったことにたくさん気付きました。駅の階段は、身体が不自由な方や高齢の方にはとても負担であり、エレベーターやエスカレーターがより多くの駅に設置されれば助かるということ。雨が降ったときは傘を持つと完全に手が塞がってしまい、とても不便だということ。階段の上り下りの際、バランスをとりにくく、とても危なっかしい思いをすること。電車に乗っても普段は座らないのに、このところ、席が空いていると座りたくなるくらい体力を消耗することなど、一時的とはいえ不自由な思いをすることにより、いろいろなことに気付かされました。今回の骨折は、きっと、仏様やご先祖様が「こいつに気付きの機会を与えてやろう」ということの結果なのだと考えております。また、骨折するとどれほど痛いか、健康であるということがいかに有り難い事かということを考える良い機会と受け止めております。もしそうでしたら、愚痴や泣き言、不平不満を一切言わずに、仏様やご先祖様からの問い掛けに、まっすぐにじっくりと向き合ってみよう、骨折したことの意味とはどのようなことなのだろうか考えてみよう、そう思っております。現在、小生は、医学部に進学する前段階として柔道整復師の専門学校に通っていますが、先日の授業で「骨折すると確かに痛いですし、不便な思いをするけど、一度骨折した骨はそれまでの3倍以上には強くなるのですよ」と教わりました。人生も骨折と同じで、たいへんな思いをしたり、辛く苦しいと思うような目に遇ったりすることもありますが、そういうことを乗り越えると、他の人に優しくなれると思うのです。武田鉄矢さんの「贈る言葉」という歌に「人は悲しみが多いほど、他人には優しくできるのだから」という一節があります。この骨折を機に、患者さんの痛みや辛さを自分の痛みや辛さとして受け止めることができる、病気を診るのではなく病人を診る、マニュアルや医療機器だけに頼ることなく、真正面から患者さんに向き合って、寄り添い支えていくことができる、そういう医師を目指して、今後も精進錬磨に努めてまいります。

追記です。小生は、今後一生を懸けて学問に取り組んでいきますが、性急に正解を追い求める、あるいは短期間に成果を出すこととは一線を画し、「なぜ」「どうして」という気持ちを大切にして学問に取り組んでまいりたいと存じます。ですから、小生は「強いて勉める」勉強ではなく、「学んで問い掛ける」学問を大切にしてまいりたいと存じます。答を追い求めるのではなく、どうしてそうなるのかという過程に着目して学問を進めてまいります。そうすることによって、学べば学ぶほど、わからないこと知らなかったことが次々と出てきて、収穫の秋に穂を垂れる稲穂になることができると存じます。

☆がくさんへ
駅の階段、エレベーター、エスカレーター、街を歩くとき、いかに健常者向けに社会が作られているかを強く感じます。
怪我をしている方・お年寄り・妊婦さん・子供連れの方…不便を感じている人は多いと思います。しかし、街の構造自体よりも、そこに生きる人々の姿勢が問題だと思います。他者(ひと)が見えていません。
席を譲る・自分の前をゆっくり歩いているお年寄りがいたら、自分もペースを合わせる・ベビーカーで通る人がいたら、道を空ける・車椅子が歩道に乗りにくかったら手伝うなど、ほんのちょっとの気配りで、構造的には住みにくくても、全然環境は変わってくると思います。
自分が怪我や妊娠をしたり、年をとったりして、経験を積んで、他者に対する視線・想いが生まれる人もいることでしょう。逆に言えば、つらい思いをしなければ、他者に気付けない、あるいは、つらい思いをしても気付けない人もいる。哀しい存在です。
他者に気付けないことの原因に、“忙しさ”もあるでしょう。でも、席を譲ること、ちょっと歩くペースをおとすこと、そのことをしたばかりに、仕事に、人生に置いてけぼりを食うほど忙しい人が、どれだけいるというのでしょう。
がくさんの骨折の経験は、何年かかっても得られなかったかもしれないものを得られたのかもしれませんね。
その想いを忘れることなく、学び、問いながら、学問をお続けください。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。ですね。

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