« 自分さえよければいい この悲しさ | トップページ | 「苦」のもと »

2009年5月13日 (水)

人間は きっと やさしい

「誰もが五逆の罪人」という視点で、前回の文章を書きました。
そのように考えるきっかけとなった法座、5月の会に行って来ました。
 
「涅槃経」というお経に、
「誰もが仏性(ぶっしょう:仏となる性質)を持っている」と説かれています。
しかし、「誰もが」と言いながら、「一闡提(いっせんだい:善い行いをする性質を持たない者)は除く」と説かれているのです。
それだけを聞くと矛盾です。「生きとし生けるもの、誰もが仏となる性質を持っている」と説きながら、「でも、一闡提は違うけどね」なんて言うのですから。
これは、わざわざ矛盾した表現をしてまで、誰もがすくわれる存在なんだということを説きたかったからなのです。
 
で、前回の文章をお読みの方は分かると思いますが、私は、「誰もが五逆の罪人」というところに衆生観をおいて、「涅槃経」のことばをいただいていたのです。
でも、先生の言い方は逆でした。「一闡提は除くと言ってますが、一闡提と思われる者がいそうだけど、でも、こいつは一闡提だって、ハッキリ言い切れる者はいないんですよ。つまり、一闡提なんて、いないんですよ」と言われました。
 
私は、「誰もが罪人である」という見方を根っこにして、話を聞いていました。
しかし先生は、いや、『涅槃経』を説かれたお釈迦さまは、「罪を持つ存在ではないんです」ということを前提にされていたのですね。
 
罪の自覚において、仏法に聞くんだと思っていたけれど、仏の眼からすれば、罪人はいないんだなぁ。
と、お話を聞きながら驚いていました。
法の場に身を置くと、いろいろなことを感じさせていただけます。
   
    
ちょっと補足・・・
「誰もが罪人」という視点で今までも文章を書いてきました。
でも、「人間なんてろくなもんじゃねぇ」論者ではないのです。
「罪を持つ存在」だからこそ、他力がはたらく。
「ろくなもんじゃねぇ」どころか、いのちは、なにものにも変えられない大切なもの。
そういう想いを強くもっています。
 
森達也さんの『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』という本があるのですが、題名を見たとき、「あぁ、素敵な題だなと感じました。
さだまさしさんの「償い」という歌に、「人間って哀しいね/だってみんなやさしい/それが傷つけあって かばいあって」という歌詞があります。初めて聞いたとき、これが人間なんだなぁと、こころ打たれました。
人は優しいんです。本当に優しいんです。でも、縁によっては、本当になにをしてしまうか分からない存在なんです。気をつけてれば悪いことをしないとか、強い気持ちを持っていれば道を踏み外すことはないなんて、言えないんです。その発想が、人を傷つけもするのです。哀しい…だけど、世界は、人は、もっと豊かだし、もっと優しいんです。
そういう想いがつまっての、「人は誰もが罪人」発言なのです。
     
   
お手紙ありがとうございます・・・
最近寺報やブログで、「罪の自覚」について書いていたので、あるご老僧からお手紙をちょうだいいたしました。
罪業の身に卒業はないのに、卒業した気分になっていた身の程を知らされました。罪業の身に立てるとしたら、自心の破れ以外ないのでしょう
「自心の破れ」…あぁ、私は、自心の破れなしに「人間は罪人」だと語っていました。自心がやぶれるどころか、慢心という空気でいっぱいの自心になっていました。お手紙、有り難くいただきます。
お手紙の最後に書かれていました。
「昔の人は、“光明のフトコロ住まい”と言われました。その言葉が蘇ってきます」
このような私でも、いや、「このような」と言っている時点で、人間の側の思惑が含まれていますね。
私のことを包んでくださっている弥陀の光明。その光明というフトコロに住まいしている私。昔も、今も、これからも、ずっとずっとフトコロ住まい。南無阿弥陀仏 

« 自分さえよければいい この悲しさ | トップページ | 「苦」のもと »

コメント

昨日は聞法会に参加させていただき、ありがとうございました。いただいたスルメは美味しくいただきました。ご馳走様です。ご住職様、早く治るといいですね。

「涅槃経」には「衆生に定性無し」「一闡堤に定性無し」ということが説かれ、それ故に「一闡堤が一闡堤ではなくなって成仏する」と説かれています。闡堤成仏については他にも種々の根拠が説かれていて複雑なのですが。私の性は定まらずに刹那ごとに変化していますが、それでも放っておけば、やはり一闡堤の性の中で変化しているだけであると実感されます。私が一闡堤ではなくなる(なくならないかも知れません)のは、「今大聖の真説に拠るに、難化の三機・難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまう。」の一念だけであろうと感じます。この一念を外れれば、また一闡堤です。

 人は他人に嫌なことをする人を悪人だと思い、他人の喜ぶことをする人を善人であると思ってしまうんでしょうね。誰もが自分や自分の好きな人を傷つけた人を憎んで、悪者だと思って嫌いになってしまう。

 この世に悪い人がいて、悪者が悪いことをするわけではないんだ。人は一人一人多種多様の価値観を持って生活をしていて、その生活の中で人と人との衝突があるから、とある行為が悪行為になってしまう。

 社会で犯罪者と言われている人も悪者ではなくて、ただ社会に適応せず、迷惑をかけたということ、ただそれだけ。社会の価値観に合わなかった人のことを悪者扱いしているのですよ。
 
 悪人とか善人がいるというより、みんなそれぞれ異なった個性をもっている。一般的に言う偉人も天才も怠け者も臆病者も変わった人も有名人も貧乏人も金持ちも善人も悪人も、一人の人間なのだ。一人ひとり違って、違う事をして生きている。似ている人はいても、全く同じ人はいない。ですから、比べたり、格付けしたりする必要もない。

 一人ひとりが世界の一部分として活動している。その意味で人は平等。人の罪を考えるなんて勿体無い、如何なる生命にも慈しみの感情を持ち、幸せになれるように願う方が合理的である。

☆やすさんへ
金剛不壊の真心を求念します。
本願醍醐の妙薬を執持します。
南無阿弥陀仏
 
スルメ、美味しかったですね

☆真照さんへ
みんなちがって みんないい
ですね。

飲酒運転そのものは、決してしてはいけないことですが、これだけ飲酒運転に対する罰則が厳しくなっても、飲酒運転をしてしまう方が居なくならないという現実について、自分は、してしまった方のことを決して非難できないし責められない、そして、自分はそういうことをしないでいる、したことがなかったというだけで有り難いと思っております。

☆がくさんへ
良い悪いで判断を下すことは、ある意味簡単で、社会生活を営む一員として そこに従わなければならない面はあります。
でも、そういう面を越えて、人間が人間を判断する見方を越えて、「人間とは、あんなことも、こんなこともしてしまう存在ではあるけれど、でも、でも…」という姿があると思うのです。
抽象的な書き方をしましたが、そういう姿を大事にしたい、忘れてはいけないと思うのです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 自分さえよければいい この悲しさ | トップページ | 「苦」のもと »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ