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2009年5月 8日 (金)

自分さえよければいい この悲しさ

本当は4月中にこの文章を書いておきたかったのですが、落ち着いてパソコン前に座る時間がなく、いつの間にか5月になってしまいました。
 
2009年4月のことば
「五逆」について触れ、誰もが五逆の罪を犯している罪人です、と書きました。
違和感を持った方、私は五逆の罪を犯してない、と感じた方もいることでしょう。
 
「2009年4月のことば」の文章を書いた背景には、ある法座での出来事がありました。
その法座で、先生は、「人は誰もが仏性(ぶっしょう:仏になる性質)を持っている」と説かれました。「しかし、五逆の罪を犯した者はこの限りではない」とお話くださいました。
先生の「仏性」理解ではなく、仏教のおしえとしては、その通りなのです。五逆の罪を犯した者に、仏性はないと経典には説かれているのです。

で、先生のお話も終わり、質疑の時間。ある方が質問をされました。
「私は五逆の罪を犯していませんから、当然仏性があるわけですが、どうすれば仏になれますか?」という質問だったと思います。
その質問を聞きながら、唖然としたというよりも、「あぁ、今日の先生の話を聞いて、そのように思っている方は多いんだろうな」って思ったのです。自分が五逆の罪人なんて考えないだろうなって。
 
先生の「五逆」の説明を聞きながら、
「親に迷惑ばかりかけてきたなぁ。今でも心配ばかりかけてるよなぁ。人が生まれるってことは、母体にどれだけの負担をかけているか分からないんだよなぁ。今の日本では、五体満足・母子共に健康で赤ちゃんが誕生することが当たり前のように思われているけど、とんでもない。どれだけの危険と隣り合わせでいのちが誕生するのか、そのことがあまりに無視されているよなぁ」
などと考えていました。
実際に父・母を殺したという人はいないかもしれないけれど、私の存在そのものが、父・母の苦労の上に成り立っているんだということを考えていたのです。
そんなことを考えていたものですから、先の質問を耳にしたとき、「悲しい質問だなぁ」って感じたのです。
 
それに、『祖父母やおじおば殺害は「五逆」の対象ではないから、「仏性」は持ち続けている』なんて、どうして言えるでしょうか。
 
そのような「自分はキチンとしているから」的な発想は、「自分さえよければいい」という想いが根底にあるような気がします。
それはつまり、一緒に法を聞く仲間(僧伽)に対する裏切りであり、破壊だと思うのです。
 
「私は五逆の罪を犯していませんから、当然仏性があるわけですが、どうすれば仏になれますか?」
という質問は、質問そのものが五逆の罪を犯していることだと感じました。
質問された方を責めているのではありません。このようの考えるほうが多数派であり、私みたいな考え方をする方が変わっているんだろうなぁって思います。
だけど、人は誰もが気付かないうちに、父を、母を、仲間を、仏を、傷つけている存在なのだと思います。そのことが見えていないのが、現代日本の姿ではないだろうか。
そういうことに気付かされ、考え、「2009年4月のことば」を書きました。

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コメント

善人であろうとするよりも、自分が善人にも悪人にもなり切れないということに気付く。また、自分が無意識のうちに発したことばのために傷ついてしまうどなたかの存在があることに気付く。「嘘をついてはいけない」という教えの一方で、「うそも方便」ということばもある。そして、「生き物を殺してはいけない」という教えの一方で、人間は他の動物や植物のいのちをいただかなければ生きていけないという厳然たる事実があるということ。さらには、自分が殺生した魚肉や獣肉をいただかなくても、医学の発展のために、どれだけ多くの動物や植物が犠牲となっていただいたことか。そうしたことに思いを致すとき、小生は、昨日も今日も、自分の眼に見えない大きな御存在、それは神様仏様そしてご先祖様のことですが、そうした大きな御存在の手のひらの上で右往左往しているばかりだと思うのです。そして、生きているのではなく、生かしていただいている、だから、自分勝手にいのちを絶とうということはやはりしてはいけないことなのだと思うのです。苦しいこと、辛いことから眼をそらさずに、その事実とまっすぐに向き合う。他にどうしようもない自分がここにいるということを自覚したうえで、それでも何とか頑張って、今日この一日を大切に生きていく。そうすると、自分の周りのいろいろなことが全部有り難いことなのだなと思えるようになる気がします。

質問された方にとって仏とは何か?
すごく気になりました。
高名な宗教家 哲学者でもなかなか?????
な質問ではないでしょうか?
すごい質問だなと感覚的におもいました。

☆がくさんへ
「自分が善人にも悪人にもなり切れないということに気付く」
大切な気付きですね。そういうものだと思うのです。人間は。
どちらかになり切れれば、それはそれで楽なのでしょうが、それは個人的な快楽です。
悪人は罪と感じられますが、
善人も、じつは罪なのです。
自分で他者を傷つけていることに気付かない分、悪人よりも質が悪いかもしれません。

☆大さんへ
お久しぶりです。読んでいただいていたのですね。
「質問された方にとって仏とは何か?」
なるほど、あらためてそのように聞かれると、「仏」をどのように考えられての問いだったのでしょうね。
「悩み苦しみから脱却した、さとりの状態」を仰っているのかなと思っていましたが、
「無上の存在」をイメージされていたのかもしれないし、「困っている人を救う存在」をイメージされていたかもしれない。
「仏」の内容によって、質問の内容も、変わってきますね。

 私みたいに自分の性格のことを散々叩かれる立場なら、このことは良く分かる。
 指導・指摘してくる人の大半は、鬼になっているのですよ。こちらの立場のことを考えてなどいない。

 いつも思うんだよ。あなたたちは正しいことをしているのかと。結局社会に対応できている人というのは心を変える努力をしなくていいのに対し、私たち不適合者(悪人)はいちいち努力しないといけないわけですよね。
 それに、性格を変えて社会に適応できている人もいるでしょうけど、みんながみんな同じように、努力できるってわけないでしょうに。

 性格を変えていかないとならないのはお互い様です。誰もが心を成長させなければならないのです。でも、成長の度合いと過程は人それぞれペースが違うのです。みんなそれなりの経験を経て、心を成長させていっているわけです。遅いことは駄目なことではないのです。心の成長が遅い人ほど数多の経験を摘んでいるわけでしょう。それなりに尊いはずです。心を早く成長させた者は、遅れている者にヒントを教えて、長い目で見てあげて、相手を慈しんで導いてあげればいいのです。

 他人を叱るときは、「ゆっくりでもいいので良い方向に変えて行きましょうね。」という態度でいいのです。よく子どもが親を殺すケースがあるでしょう。これは、親は子どもの気持ちを考えずに例えば、「勉強しろ、勉強しろ。」と説教したために、子どもに殺されるのです。誰だって人格否定されたら怒りますよ。

 悪人はこのことが分かるのです。自覚がある分正義気取りの善人よりも人道的です。

 

☆真照さんへ
芹沢俊介さんのお話を聞きに行ったとき、
「親殺しの背景には、子殺しがある」
という話を聞きました。
親を殺してしまう背景には、親が、子を殺している現実があるのだと。
実際に殺してはいませんが、真照さんがおっしゃるように、人格否定があるのです。
傷つく言葉での否定もあるし、勝手な期待という否定もあります。厄介なことに、後者の場合、人格否定をしている事実に気付いていない。
そのような、“気付かずに犯している罪”について文章を書いているのですが、たいてい叩かれます。実際に人を殺した人間と、人格否定を一緒にするな、と。私は、一緒だと思うんだけどなぁ。

真照さん、最近ご自身の背景を書いてくださるから、私も一緒になって、いろいろと考えることが出来ます(今までのコメント返しが、なにも考えてないというわけではありませんよ)。

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