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2009年5月

2009年5月26日 (火)

「苦」のもと

現実が思い通りにならないなと悩む私がいる。しかし、思い通りにならない現実が悩みの種なのではない。思い通りにならないなと、思ってしまう私自身に悩みの種がある。

2009年5月13日 (水)

人間は きっと やさしい

「誰もが五逆の罪人」という視点で、前回の文章を書きました。
そのように考えるきっかけとなった法座、5月の会に行って来ました。
 
「涅槃経」というお経に、
「誰もが仏性(ぶっしょう:仏となる性質)を持っている」と説かれています。
しかし、「誰もが」と言いながら、「一闡提(いっせんだい:善い行いをする性質を持たない者)は除く」と説かれているのです。
それだけを聞くと矛盾です。「生きとし生けるもの、誰もが仏となる性質を持っている」と説きながら、「でも、一闡提は違うけどね」なんて言うのですから。
これは、わざわざ矛盾した表現をしてまで、誰もがすくわれる存在なんだということを説きたかったからなのです。
 
で、前回の文章をお読みの方は分かると思いますが、私は、「誰もが五逆の罪人」というところに衆生観をおいて、「涅槃経」のことばをいただいていたのです。
でも、先生の言い方は逆でした。「一闡提は除くと言ってますが、一闡提と思われる者がいそうだけど、でも、こいつは一闡提だって、ハッキリ言い切れる者はいないんですよ。つまり、一闡提なんて、いないんですよ」と言われました。
 
私は、「誰もが罪人である」という見方を根っこにして、話を聞いていました。
しかし先生は、いや、『涅槃経』を説かれたお釈迦さまは、「罪を持つ存在ではないんです」ということを前提にされていたのですね。
 
罪の自覚において、仏法に聞くんだと思っていたけれど、仏の眼からすれば、罪人はいないんだなぁ。
と、お話を聞きながら驚いていました。
法の場に身を置くと、いろいろなことを感じさせていただけます。
   
    
ちょっと補足・・・
「誰もが罪人」という視点で今までも文章を書いてきました。
でも、「人間なんてろくなもんじゃねぇ」論者ではないのです。
「罪を持つ存在」だからこそ、他力がはたらく。
「ろくなもんじゃねぇ」どころか、いのちは、なにものにも変えられない大切なもの。
そういう想いを強くもっています。
 
森達也さんの『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』という本があるのですが、題名を見たとき、「あぁ、素敵な題だなと感じました。
さだまさしさんの「償い」という歌に、「人間って哀しいね/だってみんなやさしい/それが傷つけあって かばいあって」という歌詞があります。初めて聞いたとき、これが人間なんだなぁと、こころ打たれました。
人は優しいんです。本当に優しいんです。でも、縁によっては、本当になにをしてしまうか分からない存在なんです。気をつけてれば悪いことをしないとか、強い気持ちを持っていれば道を踏み外すことはないなんて、言えないんです。その発想が、人を傷つけもするのです。哀しい…だけど、世界は、人は、もっと豊かだし、もっと優しいんです。
そういう想いがつまっての、「人は誰もが罪人」発言なのです。
     
   
お手紙ありがとうございます・・・
最近寺報やブログで、「罪の自覚」について書いていたので、あるご老僧からお手紙をちょうだいいたしました。
罪業の身に卒業はないのに、卒業した気分になっていた身の程を知らされました。罪業の身に立てるとしたら、自心の破れ以外ないのでしょう
「自心の破れ」…あぁ、私は、自心の破れなしに「人間は罪人」だと語っていました。自心がやぶれるどころか、慢心という空気でいっぱいの自心になっていました。お手紙、有り難くいただきます。
お手紙の最後に書かれていました。
「昔の人は、“光明のフトコロ住まい”と言われました。その言葉が蘇ってきます」
このような私でも、いや、「このような」と言っている時点で、人間の側の思惑が含まれていますね。
私のことを包んでくださっている弥陀の光明。その光明というフトコロに住まいしている私。昔も、今も、これからも、ずっとずっとフトコロ住まい。南無阿弥陀仏 

2009年5月 8日 (金)

自分さえよければいい この悲しさ

本当は4月中にこの文章を書いておきたかったのですが、落ち着いてパソコン前に座る時間がなく、いつの間にか5月になってしまいました。
 
2009年4月のことば
「五逆」について触れ、誰もが五逆の罪を犯している罪人です、と書きました。
違和感を持った方、私は五逆の罪を犯してない、と感じた方もいることでしょう。
 
「2009年4月のことば」の文章を書いた背景には、ある法座での出来事がありました。
その法座で、先生は、「人は誰もが仏性(ぶっしょう:仏になる性質)を持っている」と説かれました。「しかし、五逆の罪を犯した者はこの限りではない」とお話くださいました。
先生の「仏性」理解ではなく、仏教のおしえとしては、その通りなのです。五逆の罪を犯した者に、仏性はないと経典には説かれているのです。

で、先生のお話も終わり、質疑の時間。ある方が質問をされました。
「私は五逆の罪を犯していませんから、当然仏性があるわけですが、どうすれば仏になれますか?」という質問だったと思います。
その質問を聞きながら、唖然としたというよりも、「あぁ、今日の先生の話を聞いて、そのように思っている方は多いんだろうな」って思ったのです。自分が五逆の罪人なんて考えないだろうなって。
 
先生の「五逆」の説明を聞きながら、
「親に迷惑ばかりかけてきたなぁ。今でも心配ばかりかけてるよなぁ。人が生まれるってことは、母体にどれだけの負担をかけているか分からないんだよなぁ。今の日本では、五体満足・母子共に健康で赤ちゃんが誕生することが当たり前のように思われているけど、とんでもない。どれだけの危険と隣り合わせでいのちが誕生するのか、そのことがあまりに無視されているよなぁ」
などと考えていました。
実際に父・母を殺したという人はいないかもしれないけれど、私の存在そのものが、父・母の苦労の上に成り立っているんだということを考えていたのです。
そんなことを考えていたものですから、先の質問を耳にしたとき、「悲しい質問だなぁ」って感じたのです。
 
それに、『祖父母やおじおば殺害は「五逆」の対象ではないから、「仏性」は持ち続けている』なんて、どうして言えるでしょうか。
 
そのような「自分はキチンとしているから」的な発想は、「自分さえよければいい」という想いが根底にあるような気がします。
それはつまり、一緒に法を聞く仲間(僧伽)に対する裏切りであり、破壊だと思うのです。
 
「私は五逆の罪を犯していませんから、当然仏性があるわけですが、どうすれば仏になれますか?」
という質問は、質問そのものが五逆の罪を犯していることだと感じました。
質問された方を責めているのではありません。このようの考えるほうが多数派であり、私みたいな考え方をする方が変わっているんだろうなぁって思います。
だけど、人は誰もが気付かないうちに、父を、母を、仲間を、仏を、傷つけている存在なのだと思います。そのことが見えていないのが、現代日本の姿ではないだろうか。
そういうことに気付かされ、考え、「2009年4月のことば」を書きました。

2009年5月 1日 (金)

2009年5月のことば

Pict0758
     念仏者は無碍の一道なり
                親鸞聖人
   
今月のことばは、親鸞聖人のおしえを、弟子の唯円さんが書き残された書物『歎異抄』の第7章に出てくることばです。先ずは全文をご紹介します。
  

念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。
そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんじぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報も 感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々。
『歎異抄』第七章

  
【試訳】
「南無阿弥陀仏」の念仏は、何者にも妨げられることのない、ひとすじの大道です。
それは、どのようなことかといいますと、本願を信じ、念仏申す行者には、天の神・地の神も深い敬意をはらい、悪魔や異教の徒も妨げをすることができません。また、どのような悪業も、その報いに恐れを感じさせることはできません。どのような善い行いも、  念仏の力には及びません。だからこそ、何者にも妨げられることのない、ただひとすじの大道であります。
と、親鸞聖人はお教えくださいました。
   
   
      
「念仏は無碍の一道なり」・・・念仏を称えると、碍り(さわり)となるものが無くなるという意味ではありません。「南無阿弥陀仏」が、碍りを無くしてくれるというのであれば、念仏はただの呪文になってしまいます。念仏は、苦悩解消の呪文でも、問題解決の方程式でもありません。
私が生きる場は、今、現に生きているこの場しかありません。にもかかわらず、過ぎ去った過去を恨み、現在が居場所として落ち着かず、未来に自己中心の理想を夢見ます。
自分の都合や欲望を追求して念仏を称えても、念仏は応えてはくれません。いや、念仏が応えてくれないのではありません。自分自身のこころが、碍りを作り出しているのです。
『歎異抄』第七章は、本願の名号「南無阿弥陀仏」に出遇った聖人が、生活の中で実感したことを述べたことばです。念仏を称えれば碍りがなくなるというご利益を述べたのではありません。今まで、自分自身の迷いによって、碍りでないものを碍りとしてしまっていた事実に気づいた。その自覚のことばです。
 
   一切の功徳にすぐれたる
    南無阿弥陀仏をとなうれば
    三世の重障みなながら
    かならず転じて軽微なり

       (親鸞聖人「現世利益和讃」)

親鸞聖人は、人間の要求に応えるものを功徳とは言われません。南無阿弥陀仏を称える身になると、碍りはそのままではあるけれど、今までとは違うこころで、ものごとを受け入れられるようになりますと言われます。決して、碍りが無くなるとは言われません。碍りは無くならないのです。しかし、「軽微」になると言われています。
碍りと感じるものを抱えながらも、そこに、何か力となるものが得られる。人生の重荷が無くなるのではなく、重荷を背負う力が身につく。そういう身にならせていただくというのが、「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏」なのです。
重荷を背負う力が身につく。つまり、人間である事実を本当にいただくということ。人間である事実とは、苦悩を背負った現実を生きるということ。しかし、そこから逃げたいがために迷信に惑い、いや、惑わされているのは分かっているけれども、それでも怪しいものを頼りとしなければ生きていけない。また、起こりもしない出来事に怯え、それでいて自分が起こしたことによる報いを恐れる。そして、私がした些細な善行を頼りとして生きています。
 
「天神地祇」を、「天の神・地の神」と訳しました。しかし、困ったときの神頼みというように、私を助けてくれるものを、怪しいと分かってはいても信じてしまう。そういう私自身の迷いのこころを表わしています。
「魔界外道」を、「悪魔や異教の徒」と訳しました。しかし、自分さえ良ければいい、世の中が自分の思い通りになればいいと願う、私の欲望のこころを表わしています。
私を惑わす迷信や、私を恐れさせる悪が、私の外にあるのでありません。天神地祇・魔界外道は、私自身が作り出しているのです。「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」とは、そのことに目が覚めるということなのです。
  
親鸞聖人は、臨終の一息まで、念仏を称えられていました。お念仏申して碍りを無くした人生を送られたのではなく、一生を尽くして、自分自身に向き合って生き抜かれたのです。阿弥陀如来とともに。
一人よがりの想いでこころを覆い、独りぼっちになっていたけれど、念仏により碍りが碍りで無くなったとき、阿弥陀如来とともに自立する私が誕生します。
 
     
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
5月5日までは、先月から飾っている人形にプラスして、鯉に乗った少年の人形を飾っています。
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6日以降は牛の置物です。大久保石材様から頂戴致しました。ありがとうございます。
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