« 怒り、そして冷静に… | トップページ | 自分さえよければいい この悲しさ »

2009年5月 1日 (金)

2009年5月のことば

Pict0758
     念仏者は無碍の一道なり
                親鸞聖人
   
今月のことばは、親鸞聖人のおしえを、弟子の唯円さんが書き残された書物『歎異抄』の第7章に出てくることばです。先ずは全文をご紹介します。
  

念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。
そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんじぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報も 感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々。
『歎異抄』第七章

  
【試訳】
「南無阿弥陀仏」の念仏は、何者にも妨げられることのない、ひとすじの大道です。
それは、どのようなことかといいますと、本願を信じ、念仏申す行者には、天の神・地の神も深い敬意をはらい、悪魔や異教の徒も妨げをすることができません。また、どのような悪業も、その報いに恐れを感じさせることはできません。どのような善い行いも、  念仏の力には及びません。だからこそ、何者にも妨げられることのない、ただひとすじの大道であります。
と、親鸞聖人はお教えくださいました。
   
   
      
「念仏は無碍の一道なり」・・・念仏を称えると、碍り(さわり)となるものが無くなるという意味ではありません。「南無阿弥陀仏」が、碍りを無くしてくれるというのであれば、念仏はただの呪文になってしまいます。念仏は、苦悩解消の呪文でも、問題解決の方程式でもありません。
私が生きる場は、今、現に生きているこの場しかありません。にもかかわらず、過ぎ去った過去を恨み、現在が居場所として落ち着かず、未来に自己中心の理想を夢見ます。
自分の都合や欲望を追求して念仏を称えても、念仏は応えてはくれません。いや、念仏が応えてくれないのではありません。自分自身のこころが、碍りを作り出しているのです。
『歎異抄』第七章は、本願の名号「南無阿弥陀仏」に出遇った聖人が、生活の中で実感したことを述べたことばです。念仏を称えれば碍りがなくなるというご利益を述べたのではありません。今まで、自分自身の迷いによって、碍りでないものを碍りとしてしまっていた事実に気づいた。その自覚のことばです。
 
   一切の功徳にすぐれたる
    南無阿弥陀仏をとなうれば
    三世の重障みなながら
    かならず転じて軽微なり

       (親鸞聖人「現世利益和讃」)

親鸞聖人は、人間の要求に応えるものを功徳とは言われません。南無阿弥陀仏を称える身になると、碍りはそのままではあるけれど、今までとは違うこころで、ものごとを受け入れられるようになりますと言われます。決して、碍りが無くなるとは言われません。碍りは無くならないのです。しかし、「軽微」になると言われています。
碍りと感じるものを抱えながらも、そこに、何か力となるものが得られる。人生の重荷が無くなるのではなく、重荷を背負う力が身につく。そういう身にならせていただくというのが、「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏」なのです。
重荷を背負う力が身につく。つまり、人間である事実を本当にいただくということ。人間である事実とは、苦悩を背負った現実を生きるということ。しかし、そこから逃げたいがために迷信に惑い、いや、惑わされているのは分かっているけれども、それでも怪しいものを頼りとしなければ生きていけない。また、起こりもしない出来事に怯え、それでいて自分が起こしたことによる報いを恐れる。そして、私がした些細な善行を頼りとして生きています。
 
「天神地祇」を、「天の神・地の神」と訳しました。しかし、困ったときの神頼みというように、私を助けてくれるものを、怪しいと分かってはいても信じてしまう。そういう私自身の迷いのこころを表わしています。
「魔界外道」を、「悪魔や異教の徒」と訳しました。しかし、自分さえ良ければいい、世の中が自分の思い通りになればいいと願う、私の欲望のこころを表わしています。
私を惑わす迷信や、私を恐れさせる悪が、私の外にあるのでありません。天神地祇・魔界外道は、私自身が作り出しているのです。「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」とは、そのことに目が覚めるということなのです。
  
親鸞聖人は、臨終の一息まで、念仏を称えられていました。お念仏申して碍りを無くした人生を送られたのではなく、一生を尽くして、自分自身に向き合って生き抜かれたのです。阿弥陀如来とともに。
一人よがりの想いでこころを覆い、独りぼっちになっていたけれど、念仏により碍りが碍りで無くなったとき、阿弥陀如来とともに自立する私が誕生します。
 
     
 
西蓮寺門前の掲示板に人形を飾っています。
5月5日までは、先月から飾っている人形にプラスして、鯉に乗った少年の人形を飾っています。
Rimg0398
  
6日以降は牛の置物です。大久保石材様から頂戴致しました。ありがとうございます。
Rimg0401

« 怒り、そして冷静に… | トップページ | 自分さえよければいい この悲しさ »

コメント

ご無沙汰いたしております。今月もまた、こころに響くことばがございました。「人生の重荷が無くなるのではなく、重荷を背負う力が身につく」。これまで貧乏くじばかり引かされて生きてきた、損してばかりの人生だった、重荷を背負わされてばかりの人生だった、そう思って生きてきました。しかし、そうではなかったのですね。自分で勝手に、そのように思っていたのですね。人生四十歳にして、ようやく、進むべき道の入口にたどり着きました。これまで父を恨み、自分の現状を恨み、許されて生きているにもかかわらず、他人を許すことなど全く考えなかった小生ですが、これからは、「一大事とは今日只今の心なり」という気持ちで、今日一日を人生最後の日と考えて真摯に生きてまいりたい、そして、ようやくたどり着いた医学の道を、少しずつ、しかし確実に一歩一歩大切に歩んでまいりたいと存じます。

☆がくさんへ
自分で文章を書きながら、迷っていたのが、「人生の重荷が無くなるのではなく、重荷を背負う力が身につく」の部分。
私自身の気持ちとしては、まったく嘘はありません。本当にそう思っています。でも、文章を読んだ方が頷けないところかもしれないなって、勝手に思ってました。それは、私が考えるべきところではありませんでした。
がくさんのコメントを読ませていただき、「あぁ、ちゃんと受け止めてくださる方がいるんだ」と思いました。
私も、以前体を患ってから、“只今このときが人生の最期”のつもりで生きています(言ってることと行動が伴わないことがあるのはご愛嬌ということで…)。
がくさん、お互いに頑張りましょう

追記です。「人は皆、昨日を悔やみ、明日を夢見て、今日を忘れる」ということばを聴いたことがあります。「いつかきっと」という、夢を追いかけて明日に希望をつなげるという、いつまでも若い気持ちでいることを大切にしたいのとともに、今日の只今このときに全力を尽くして精一杯生きていきたい。他人のものさしではなく自分のものさしで「良い人生だった」と思えるように、これからも精進してまいりたいと思います。

☆がくさんへ
「自分のものさし」だけでは、危ういものです。
自分ではまっすぐのものさしのつもりでも、実はクネクネ曲がっているものです。
如来のものさしに出会って、自分のものさしの曲がりを知る。そのための精進も、人生において大事かなと。老婆心でした。

かつさんのおっしゃるとおりでした。
小生の言いたかったのは、これまで父の言いなりに生きてきたこと、他人の評価に揺れ惑いながら生きてきたことを踏まえて、これからは、そうではなくて、自分の思いや考えをきちんと持って生きていきたい、流されて生きていくのではなく、自分の足で一歩ずつ確かな歩みを重ねていきたい。そういうことでした。先は長いですが、一歩ずつ確実に行きます。

 私はずっと私のままに生きてきて、今の私がある。私は幼い頃から内気で妄想の多い、社会に適応しにくい自分の心とずっと向き合って生きてきた。
社会が他人がそうさせてきたのかもしれない。今まで、散々自分の性格を攻められてきたが、そのおかげで、物事の道理が分かるようになった。

 心が成長したのかは分からない。今もほとんど昔と変わらないから。でも、もし私が活発でとても明るく社会に適応しやすい性格だったら、きっと優しい人間にはなれなかったし、仏道にも、心の問題にも、真実にも、触れることは無かっただろう。

 人から非難されてきたから、その痛みが分かる。虐められてきたから、その痛みが分かる。人から注意されても、なかなか性格を変えられないから、何度も罪と過ちを犯し、改心もしない人の本当の気持ちが分かる。

 結果は悪くなかったと思う。みんなありのままの自分で生きていけばいいと思う。仮に煩悩だらけになったり、多くの人を傷つけるようになっても、悪者扱いされて、自分の心を必然的に見れるようになる。それで、真実に出会い。全ての存在を幸福にできるような道が見えてきます。

 成長スピードは人それぞれ違うから、自分を責める必要もないでしょう。別に怠け者でもいいのですよ。より良い進むべき道の方向さえみていれば、たまには後退しても、一時的に駄目人間になってしまっても消えるということはないのだから、また自分のペースで道を進めばいい。

 世界は誰も咎めない、全てを受け入れてくれる。どんな人間も、如何なる生命も、世界の一員なのだから。

 私の目標は“真実を照らす者”になること。その目標に向かって歩んでゆきたい。

☆真照さんへ
ご自身のことを語ってくださり、ありがとうございます。
 
私は、
私の本質は“真実に照らされる者”であること。その本質のおかげで歩んでゆける。
ということを感じております(決して反論しているわけではなくて)。

 名前の必要性は
①個人個人を見分けるためにある。
②親が子に、恩師が弟子にこのような人になって欲しいをいう願いを込めるためにある。
③今のその人の特徴を表すためにある(渾名とか)
 でも、本来自分の名前ぐらい自分で付けた方がいいのです。なぜなら、今の自分自身を見つめるのも、将来の目標に向かって努力するのも自分自身によるものだからです。(自分で付けた分、他人から付けてもらった名前より、責任が大きくなる。)

 まあ、だから私は戸籍名とは別の自分の名前を自分で付けている。

 そして、名前の由来は“誰もが真実に照らされているということを、客観的事実に基づいて気付いた者”である今の状態から、“真実を照らす者”になることを表しています。
 如何なる生命も世界の一員であり、その中の一人の人としては、真実に照らされる者と真実を照らす者の双方の性質を含んでいます。

 まあ、差別戒名(法名)が気に入らなかったからというのが、最初のきっかけですけどね。(どう考えても仏道っぽい名前だし、名前の定義まで考えてるから分かりやすいでしょう。)

☆真照さんへ
名の意味・効用について考えたことがあります。
弥陀の名号は、私たちが生きるためにある。
いや、名号があるから、生きていられる。
  
呼ぶ者と呼ばれる者
呼ぶ者だけでも成り立たないし、
呼ばれる者だけでも成り立たない。
呼ばれる存在がなければ、呼ぶということもない。
呼んでくれる存在がなければ、呼ばれることもない。
呼ぶ人がいて、呼ばれるものが成り立ち、呼ばれるべきものがあって、呼ぶことが出来る。
どっちかだけでは成り立たない。
 
名は、生きていることの証。
はたらきが厳然と照らしている証。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 怒り、そして冷静に… | トップページ | 自分さえよければいい この悲しさ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ