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2009年4月 8日 (水)

七歩目

4月8日は、お釈迦さまの誕生日です。
お釈迦さまは今からおよそ2500年前、北インド・カピラ城のスッドーダナ王を父、王妃マーヤーを母として生まれました。
 
マーヤーはある夜、白い象が天より降りて右脇より体内に入る夢を見ました。仙人に尋ねると、インドでは象は神聖な生き物とされているため、まさに吉夢で、世継ぎ誕生の兆しと告げられました。
(「花まつり」に白い象が登場するのは、このお話に由来します)
 
マーヤーはまもなく懐妊しました。
マーヤーは、出産のための里帰りの途中、ルンビニ園という花園に立ち寄られ、休憩されました。マーヤーが、美しい無憂樹(アショーカ樹)の花に右手を伸ばされたとき、右脇からお釈迦さまは生まれました。
  
お釈迦さまは誕生してすぐに7歩あゆまれ、右手は天を、左手は地を指して言われました。
「天上天下唯我独尊」
天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し・・・「私は、他の誰とも代わることのできないいのちをいただいて生きています」

その時、天竜が天から下って甘い露を潅(そそ)いだと言われています。
(「花まつり」のことを「灌仏会(かんぶつえ)」と言うのは、この説話に由来します)
   
生まれた子どもは、ゴータマ・シッダールタ(「すべての目的を達成する者」の意)と名づけられました。
   
生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティーによって育てられました
  
   
 
今日は西蓮寺聞法会でした。
たまたま4月8日が定例日にあたったので、お釈迦さまのお誕生に絡めてお話をさせていただきました。
上記の内容が、お釈迦さまのお誕生に関するエピソードです。
 
生まれてすぐにお釈迦さまが七歩 歩かれたことを中心に話をしました。
 
七歩 歩いたとは、六道(迷いの世界)を越えたことを意味する比喩です。 
 
六道とは(思いっきり簡単に書きますね)、
 地獄道…罪を償う世界
 餓鬼道…貪欲の世界
 畜生道…愚痴の世界
 修羅道…瞋恚の世界
 人間道…迷いの世界
 天人道…孤独の世界
 
という苦しみの世界を表わします。
六道を越えるというと、これら苦しみの世界を乗り越える、これら苦しみが無くなった世界を生きることを意味するようにも受け取られます。
しかし、果たしてそれでいいのでしょうか。
 
六道とは、苦しみの六つの世界があるというより、私たちの生きている世界には、これら六つの側面が入り混じっていると考えたいものです。しかも、これらの苦しみは、自分以外の誰かが作り出しているものではなく、私自身も、その構成者。
第七歩目、六道を越えるとは、私自身も苦しみを作り出す構成者であるという自覚のことではないかと思います。
  
そのようなお話をさせていただきました。
そういう想いが、今月のことばにも反映されています。あらためてお読みいただけましたら幸いです。

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コメント

作日は聞法会に参加させていただき、ありがとうございました。六道輪回。六趣ともいいますが、趣とは環境世界のことではなく、身であるという教えを聞いたことがあります。地獄に生まれるとは地獄という環境の中に入ることではなく、地獄の身を持って生まれるということ。餓鬼・畜生もそれらの身を持って生まれること。それも数十年の生涯はどれか一つの趣に生まれているということではなく、一念々々にどれかの趣に刹那生滅していることが六道輪回だと思います。自分は事実としてそうであると実感させられています。六道とは自分の外部の環境のことではなく、自分の身であると。そうすると、これらの苦しみは自分の身が生じている以外の何物でもないことになります。

それでは六道を超えるとは?  長くなるのでまたの機会に致します。

☆やすさんへ
昨日は聞法会にご参加いただき、ありがとうございます。
 
六道とは、外にある世界ではなく、内にあるものですね。
では六道を超えるとは? 永遠のテーマかもしれません。

 この世で生じた一切の現象は一時的で何一つ自分のものにならず、また存在というのも単なる流れで本来個体というのがない。ということに自覚して、他者と比べたり、私という存在主張や感情に基づくのではなく、理性に基づいて生きること、あるいは、この世で生まれた一切の現象に囚われないようにすることが、迷いの次元を抜け出せる方法だと私は思います。

 今、世界を認識しているのは、自分自身の心なのだから、当然心が清らかになれば、幸福になるのは目に見えています。自分の身の回りの状況が悪くなったり、何かを失ったときに、悲しんだり、怒ったり、悩んだりしたり、反対に周囲の状況が良くなったり、何かを得たときは喜んだり、楽しんだり、嬉しくなったりするといった決まった反応をするのはやめて、どんなときも起こった事実だけをみて、その変化を堪能し、平然としていられるようになれば、その人は何が起こっても不幸になることはない。

 やり方はあらかじめ決まっています、今を見る事です。1秒の間に悩んだり、苦しんだりするのは不可能だからです。ほとんどの迷いは過去のことや未来のことを思って生まれるからです。ただこの詳しいことは、私の智慧では限界がある。
 とにかく私たちは、幻夢という現象があって、この世以外の世界を明確に知ることができないのだから、瞬間を観察して、無常無我を知って、私という化け物から開放されることでしか、心の束縛を解くことができないのです。他界をしってこの世の次元から開放される可能性があっても、何か大きな存在から力を貸してもらって、悟る可能性があっても、確実ではなく、頼りにならないのです。

 今というこの瞬間ごとに気をつけて、道徳を守り、智慧を働かせるというのが、お釈迦様が悟りを開く際に行った実践方法です。
 

☆真照さんへ
 
仏教用語を使わずにお話をとか、現代語に訳して、という要望があったりします。あるいは、そういうことを意識してお話したり、文章を書いたりする方もいます。
でも、現代語に言い換えた仏教語は、その時点で本来の意味を失うのではないかと思っています。
が、清沢満之先生の「絶対他力の大道」を初めて読んだとき、現代の言葉で表現しても、こんなに力強い言葉が表現できるんだと、感動したものです。
 
「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是れなり。
只だ夫れ絶対無限に乗託す。故に死生の事、亦た憂うるに足らず。死生尚を且つ憂うるに足らず、如何に況や之より而下なる事に於いてをや。追放可なり。獄牢甘んずべし。誹謗擯斥許多の陵辱豈に意に介すべきもの
あらんや。我等は寧ろ、只管絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな」

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