« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

2009年4月24日 (金)

怒り、そして冷静に…

SMAPの草なぎさんが公然わいせつ容疑で逮捕され、鳩山邦夫総務相が「怒りを覚える」と発言しました。
地上デジタル放送普及促進のメーンキャラクターから降板させることに言及し、突き放す発言も。
立場上怒る気持ちも分かるけれど、突き放してしまうのではなく、だからこそ守る姿勢を見せて欲しかった。
「地デジ普及促進のキャラクターからは降りてもらう。だが、彼のこれからを、見守り続ける」って。
総務相をされる前は法相をされていたのだから。
 
草なぎさん逮捕の報が流れた23日、鳩山総務相の発言を聞き、そんなことを思っていました。
鳩山総務相は、「怒りを覚える」発言の際、草なぎさんを「最低の人間」発言もしました。
 
で、24日、「最低の人間」発言に対する批判を受け、釈明しました。
その釈明の中で、「人間は人間を評価できるものではありません」と言われています。
 
そのことばを聞いたとき、驚きと悲しみを感じました。
その通り、「人間は人間を評価できるものではありません」。私もそのように感じます。
それ故私は、「人間は人間を裁くことができるものではありません」とも思っています。
 
法治国家で生活する以上、人が人を裁くことは避けられないし、そのことによって安心した生活が送れるのでしょう。でも、一応の決まりごとの中で人が人を裁くわけで、本質として、人は人を評価できるものでも、裁くことができるものでもないと思っています。
 
ひとつの出来事に対し、人の数だけ想いがあります。そのひとつひとつを、良いの悪いの評価できるものではありません。
しかし、法相を務められたような方が、自身の発言の釈明で、「人間は人間を評価できるものではありません」と言われたことに対し、その想いを持ちながら法相の務めを果たされていましたか? と、問いたいです。
 
信頼していた人間の裏切りに怒りを覚えるのは当然かもしれないけれど、批判を受けた発言の釈明で、実は、より人を裏切ってしまってることに気づかれたでしょうか(そんなことを思うのは私だけなのかもしれないけれど)。
 
それと…
鳩山総務相の発言に驚きと悲しみを感じたので、書かずにおれない気持ちにまりました。
でも、たしかに、信じていれば信じているほど、裏切られたときの落胆や怒りは大きいものです。
そんなときに、落胆や怒りにまかせて、今まで信じていた人間に愛想を尽かすのであれば、それは、最初から信じていたとは言えないのです。
「今までファンだったけど…(失望した)」というのは、ファンとは言えないでしょう。「今まではファンだったから、これからも応援します」というのが、本当のファンのような気がします。
信頼を得るのは時間がかかりますが、やっとのことで手にした信頼を失うのは、あっという間ですね。恐いです。

2009年4月23日 (木)

永代経法要 おみがきの会

4月22日(水) 西蓮寺永代経法要にむけて、おみがきの会を開催いたしました。4人の門徒さんが集まってくださいました。
会を始めた当初は、本堂の仏具のおみがきと、本堂のイスをふいてもらうだけでした。が、お集まりくださる方々も慣れてきて、そのおみがきはすぐに終わってしまうので、今では本堂の窓・柱・講師の机・欄干等々、いろいろなところを水拭きしてくださいます。
昨日は快晴だったので、窓を開け放して、新緑薫る中、気持ちよくおみがきができました。
三ヶ月に満たない娘も、おみがきの会に参加させました(座布団の上で寝ているだけですが)。赤ん坊がいると、雰囲気が変わりますね。門徒さんが掃除のあいまに顔を覗き込みます。とても嬉しそうでした。
4月29日の永代経に向けて、おかげさまで本堂がきれいになりました。ありがとうございます。
 
おみがきが終わったら、きれいになった本堂でみんなでお勤めして、それからお昼ご飯。
おみがきの会をやっていない頃は、寺の者だけでおみがき・掃除をし、一日かかっても終わりませんでした。でも今では、11時から始めて、12時半には終わってしまいます。とても助かります。
いろいろとお話しながら、楽しく、美味しくお昼ご飯。
29日の永代経当日が楽しみです。
 
永代経法要、今年のお話は、高山崇さん(京都のご本山東本願寺勤務)。
私の学生時代の後輩ですが、そのご縁でお話を頼んだのではありません。高山さんには、昨年、研修会で本山に行ったときにお世話になりました。
御修復中の御影堂を案内してもらい、要所で説明をしてもらいました。前回明治期の御修復時、大工さんの多くは真宗門徒であり、修復作業に行く前と帰ってから、毎日宿で「正信偈」をお勤めし、教えに触れ、座談をされていたとのこと。本山の両堂に託された真宗門徒の想いを、聞かせていただきました。話を聞いて、とても感動しました。
2011年に宗祖親鸞聖人の750回忌が勤まります。その宣伝はしていても、御遠忌に託された想いや意味をお伝えしてこなかったような気がします。今年の永代経法要は、高山さんにご出講いただき、真宗門徒が大切に受け継いできた教えや想いをお話いただきたく思い、講師を依頼しました。
 
簡単にではありますが、娘の披露もさせていただきます。
永代経法要にお申し込みくださいました皆様。お待ちしています。お楽しみに。

2009年4月21日 (火)

親鸞聖人に人生を学ぶ講座

東京教区教化事業で、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」という講座が始まります。
その講師として、茨城県笠間ブロックの講師を担当させていただきます。
 
4月21日(火) 友部町にあります唯信寺さまにお邪魔して、第一回「宗祖としての親鸞聖人に遇う」という題でお話をさせていただきました。
 
親鸞聖人が住まわれた地で、親鸞聖人のお弟子さんの唯信房の開かれたお寺でお話をする。
話をするまで、ドキドキワクワクしていました。
夕方からは雨の予報だったにもかかわらず、70名を超えるご門徒の方々にお集まりいただきました。
ことばが尽くせないところもあったと思います。それでも、話終えた後に感想をお聞かせいただき、嬉しかったです。
今月から7ヵ月連続での講座。来月は笠間の光照寺さまにお邪魔させていただきます。
 
スタッフとしてお世話になります唯信寺と光照寺の副住職とは、長い付き合い。しかし、最近はなかなか会えずにいました。でも、この講座をご縁に、毎月顔を合わせることになります。
「なかなか会えずにいたのに、縁があったら毎月会うんだもん。不思議だね」なんて話していました。
 
今日お集まりいただいたご門徒さんとも、もしかしたら、この生涯で会うことがなかった方々かもしれない。でも、お会いするご縁をいただきました。これからもよろしくお願いいたします。
 
話している私自身が、親鸞聖人に人生を学んでいきたいと思います。

2009年4月 9日 (木)

アレン・ネルソンさんをご存知ですか?

アレン・ネルソンさんは、元アメリカ海兵隊員で、ベトナム戦争を経験されました。戦地に赴き、生きるか死ぬかの現実を生き、帰還しました。
戦地ですから、ひと時も気を抜けません。食事のときも、用を足すときでさえも。殺るか殺られるかの世界です。そんな緊張感の中に身を置いていましたから、帰還してから、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみます。
ある日、高校時代の友人と再会します。友人は小学校の先生をしていました。ネルソンさんがベトナム戦争から帰還したことを知っていたので、戦争体験を生徒に語って欲しいと頼みます。しかしネルソンさんは断ります。戦争のことは忘れたかったのです。
それでも友人は頼み続け、ついにネルソンさんは引き受けます。戦争一般の恐ろしさを語る程度のつもりでいました。

生徒たちの前で話し終え、質問の時間に一人の女の子が尋ねました。
「ネルソンさんは、人を殺したんですか?」
ネルソンさんは驚き、顔を伏せてしまいました。それでも、子どもに嘘をついてはいけないと、顔を上げて答えました。
「はい、私は人を殺しました」
子どもたちが驚き逃げ出す姿を想像していたネルソンさんに、質問した女の子は近づき、ハグしました。他の子どもたちも、ネルソンさんに駆け寄り抱きしめたのです。
この時の感動がネルソンさんを動かします。「戦争の真実を語りたい」と。

ネルソンさんは、必死でPTSDを治し、戦争体験を語る語り部として活動を始められます。大人は頭で考えようとするけれど、子どもたちは、体全体で戦争を掴もうとしてきます。ネルソンさんは、主に子どもたちに対して戦争体験を語ってきました。

アレン・ネルソンさんが、2009年3月25日(日本時間26日)、多発性骨髄腫で亡くなりました(61歳)。
ネルソンさんのことは、昨年、推進員養成講座でお世話になった佐野明弘先生からお聞きするまで知りませんでした。
隠したい事実・消し去りたい事実から逃れずに、真実を語ることを選んだネルソンさん。人を殺す罪を犯したけれど、その罪は、いったい誰が起こしたというのでしょう。誰が悪いというのでしょう。罪の意識を消そうとしたり、安易な運命論(私が悪いのではない。たまたまそういう運命だったんだと考えること)で気持ちを落ち着かせてはいけないのです。
佐野先生は、ネルソンさんと親交がありました。先生の法話からは、自身が持つ罪を見つめよという想いが伝わってきます。その想いは、ネルソンさんとの出遇いがあったからこそ湧いてきたのではないでしょうか。
「許されている」とはどういうことなのか。「許されて」それで終わりなのか。一人ひとりが、もっと考えて欲しいと思います。
ネルソンさん、実際にお会いできませんでしたが、あなたの想いを受け継いだ方から、人として生きるということを学んで生きたいと思います。
合掌
 
注)今日の文章は、寺報(2009年4月号)の裏面に記載した文章です。

2009年4月 8日 (水)

七歩目

4月8日は、お釈迦さまの誕生日です。
お釈迦さまは今からおよそ2500年前、北インド・カピラ城のスッドーダナ王を父、王妃マーヤーを母として生まれました。
 
マーヤーはある夜、白い象が天より降りて右脇より体内に入る夢を見ました。仙人に尋ねると、インドでは象は神聖な生き物とされているため、まさに吉夢で、世継ぎ誕生の兆しと告げられました。
(「花まつり」に白い象が登場するのは、このお話に由来します)
 
マーヤーはまもなく懐妊しました。
マーヤーは、出産のための里帰りの途中、ルンビニ園という花園に立ち寄られ、休憩されました。マーヤーが、美しい無憂樹(アショーカ樹)の花に右手を伸ばされたとき、右脇からお釈迦さまは生まれました。
  
お釈迦さまは誕生してすぐに7歩あゆまれ、右手は天を、左手は地を指して言われました。
「天上天下唯我独尊」
天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し・・・「私は、他の誰とも代わることのできないいのちをいただいて生きています」

その時、天竜が天から下って甘い露を潅(そそ)いだと言われています。
(「花まつり」のことを「灌仏会(かんぶつえ)」と言うのは、この説話に由来します)
   
生まれた子どもは、ゴータマ・シッダールタ(「すべての目的を達成する者」の意)と名づけられました。
   
生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティーによって育てられました
  
   
 
今日は西蓮寺聞法会でした。
たまたま4月8日が定例日にあたったので、お釈迦さまのお誕生に絡めてお話をさせていただきました。
上記の内容が、お釈迦さまのお誕生に関するエピソードです。
 
生まれてすぐにお釈迦さまが七歩 歩かれたことを中心に話をしました。
 
七歩 歩いたとは、六道(迷いの世界)を越えたことを意味する比喩です。 
 
六道とは(思いっきり簡単に書きますね)、
 地獄道…罪を償う世界
 餓鬼道…貪欲の世界
 畜生道…愚痴の世界
 修羅道…瞋恚の世界
 人間道…迷いの世界
 天人道…孤独の世界
 
という苦しみの世界を表わします。
六道を越えるというと、これら苦しみの世界を乗り越える、これら苦しみが無くなった世界を生きることを意味するようにも受け取られます。
しかし、果たしてそれでいいのでしょうか。
 
六道とは、苦しみの六つの世界があるというより、私たちの生きている世界には、これら六つの側面が入り混じっていると考えたいものです。しかも、これらの苦しみは、自分以外の誰かが作り出しているものではなく、私自身も、その構成者。
第七歩目、六道を越えるとは、私自身も苦しみを作り出す構成者であるという自覚のことではないかと思います。
  
そのようなお話をさせていただきました。
そういう想いが、今月のことばにも反映されています。あらためてお読みいただけましたら幸いです。

2009年4月 7日 (火)

見えないところで頑張っています

今日、東京は快晴でした。暑いくらいでしたね。
午後、烏山寺町の散歩に出かけました。この時期、寺町の散歩をしていると、たくさんの桜にお目にかかれます。
贅沢なことです(残念ながら、西蓮寺には桜はありません)。
 

玄照寺さまの 枝垂れ桜です。
今年の「烏山寺町 花まつり」は、玄照寺さまが、稚児行列のスタートでした。
枝垂れ桜の前で、お稚児さんの格好をして、きれいな写真がたくさん撮れたようです。思い出になればいいなぁ。
 

次に、存明寺さまの桜を拝見させていただきました。立派な桜です。桜の時期は、ライトアップもしています。夜の桜も美しいです。
 

同じ存明寺さまの境内に、新緑のまぶしいモミジがありました。
薄いピンク色の桜と対比して、新緑の緑の美しい輝きが印象的でした。
周りに目をやると、いろいろな木々が芽吹き、花が咲いています。
そういえば、うちのツツジも咲き始めています。これから花となっていのち咲かそうとする姿に、感動すらおぼえます。
存明寺さまの池にはオタマジャクシも泳いでいました。
 
暖かくなって、いのちが活発に動き始めました。
でも、花が咲いていなくても、葉がついていなくても、植物は、活発に活動しています。これから花咲かせる、葉を輝かせるときのために、一生懸命生きています。
  
桜見物の散歩に出かけ、新緑の眩しさに心奪われ、思いがけず、そんなことを感じさせていただきました。
楽しいお散歩でした。

2009年4月 6日 (月)

法話は事故

ある講座への出講が決まり、お世話になる住職に、「こんな感じで話してほしいとか、レジュメを用意して欲しいとか、なにか要望はありますか?」とお尋ねしました。そうしたら住職は言われました。
 
「ご講師に要望なんて、失礼な話です。私はね、法話は事故だと思っているんですよ。話してみて、そこで初めて話し手と聞き手に、想いが起こるわけです。
話を聞いた門徒さんにとって、良かったと思えることもあれば、聞くんじゃなかったということもあるかもしれない。
話し手にとっても、良い話だって言ってもらえるときもあれば、批判を浴びることもあります。
話す前に準備をすることは必要なことです。でも、どんなに準備しても、思うとおりに話できることって、ありません。話してみて、そこで何かが起こるんです。そういう意味で、私はお話をすることは事故だと思っています。あなたも、自分の想いを語ってください。要望とすれば、それだけです」
 
事故…自分の想いを離れたところで起こる出来事です。
現実の事故は起こらない方がいいですが、法話という事故は、自分ひとりの想いの中では思いつきもしなかったことがパッと生み出される。新しいなにかが見えるというアクシデント。
それを目的に話すわけではないけれど、話すことを通して、私も、聞いてくださる方々も、こころの中に小さな花が咲けばいいなと感じました。
どうぞ よろしくお願い致します。

2009年4月 5日 (日)

さくら ぼたん

暑さ寒さを繰り返し、強い風も吹く、今年の春。
桜も、暑さから早めに咲き始め、寒さ戻りしばらくつぼみのままで、また暖かかくなり、一気に咲きました。
お彼岸にいただいた桜の枝も、咲き始めました。玄関に飾っています。
 

 

 
お彼岸に、牡丹の鉢植えもいただきました。
牡丹も、2、3日前から咲き始めました。玄関は牡丹の匂いで満ちています。
この牡丹、植え替えてあげたら、来年のまた咲いてくれるかな。
境内にある牡丹は、まだ咲いていません。不思議と、毎年西蓮寺永代経法要に合わせて(4月29日)咲いてくれていたのですが、ここ数年、咲くのが早まっています。気候の変化なのでしょうか。


2009年4月 3日 (金)

烏山仏教会 花まつり2009

4月3日、烏山寺町の花まつりが開催されました。
天気に恵まれて、19名のお稚児さんの参加があり、賑やかで楽しい花まつりになりました。
   
Dscf1105
 
Dscf1108
 
 
住職と坊守はお役目があるため、会場に出かけていきます。
妹と姪っ子は、花まつりの会場に遊びに行きました。姪っ子が手に風船とポテトチップスを持って、ニコニコして帰ってきました。楽しかったんだなぁ。
私は、お留守番。花まつりの事務仕事をしていますが、ここ数年、花まつりの現場を見ていません

2009年4月 2日 (木)

変身

4月2日、シラヤマカツヒサがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で38歳のおっさんに成っているのを発見した。
「これはいったいどうしたことだ」と私は思った。夢ではない。
  

カフカの『変身』風に書き出してみました。いつの間にか38歳を迎えました。
いつの間にか、というのも無責任ですね。それなりに、時を、経験を、修羅場を重ねてきたのですから。
19歳から20歳になるときは、“成人”ということで、「もっとシッカリしなくては」とか、「これからどのように生きていくべきか」などということを考えたりもしたのですが、それ以後、誕生日を迎えても、とくになにも考えてないですね。
今年も、とくになにも考えることなく、いつもの日常を過ごそうとしていました…
 
昨日から、長崎に住む妹が、娘(2歳)を連れて遊びに来てくれています。昨晩は、緊張して私が声をかけても、お母さんに抱きついていたのですが、今日は少し慣れたのか、手をつないで話しかけてくれます。2歳児って、こんなに話せたっけ?っていうぐらい、いろいろなことを話しています。会話が楽しいです。
また、私のそばには2ヵ月になる娘がいてくれます。泣いたり、笑ったり、グズッたり、寝たり、ほほ笑んだり、アーウーしゃべったり、いろいろな顔を見せてくれます。
 
なんでしょう…なんだかホッとします。
うまく表現できませんが、小さな人たちから、元気をもらっています。
こんなに小さな体から、大きな力をもらえることって、確かにあるなぁって感じています。
新たな感動をプレゼントしてもらいました。ありがとう
 
 
♪みほとけは♪
  みほとけは
  まなこをとじて み名よべば
  さやかにいます わがまえに
  さやかにいます わがまえに
 
娘は美穂(みほ)、姪は沙也花(さやか)と言います。
♪みほとけは♪の歌の中に、ふたりの名前が入っていることに、今日気づきました。
南無阿弥陀仏

2009年4月 1日 (水)

2009年4月のことば

Rimg0271
 過去のすべてを許します
 現在のすべてを許します
 未来のすべてを許します

 
仏教では、衆生のすくいの教えが説かれています。たとえば、
  設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國
  乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆
  誹謗正法

              (『佛説無量寿経』第18願)

  一切衆生悉有仏性 唯除一闡提
              (『涅槃経』)
 
詳しく説明しませんが、『佛説無量寿経』では、念仏申すすべての衆生のすくいを説き、『涅槃経』では、一切の衆生には仏になる性質があると説かれます。注目したいのは、共に「唯除」とある点です。すべての衆生のすくいを説きながら、「唯除(ただのぞく)」とあるのです。では除かれるのは誰かと言うと、「五逆誹謗正法(五逆の罪を犯したり、仏法をそしる者)」であり、「一闡提(断善根、仏になる性質を持たない者)」と説かれます。
    
「すべての衆生をすくうと説きながら、なぜ除かれるものがいるのか」という疑問が起こります。しかし、自分を除かれる方に置いて、そのような疑問を持つ方は少ないのではないでしょうか。人は、自分を良い方に置いてしまうものです。
「五逆」の内容は、次のようなものです。
 ①父を殺す
 ②母を殺す
 ③阿羅漢(さとりを得た聖者)を殺す
 ④仏身から血を出す
 ⑤和合僧(仏法を信じ仏道を行ずる人々の集団)を破る
五逆の内容を聞けば、多くの方が思うことでしょう。私は父母を殺してはいないし、さとりを得た聖者も殺していない。仏の身から血を出そうにも、肝心の仏がいないではないですか。教えに集う人々の仲間を破壊するなんて、していません、と。
たしかにそうかもしれませんが、ことばの表面だけ受け取らず、もっといろいろなことに想いを馳せて欲しいのです。
現実には父母を殺していなくても、どれだけの苦労をかけていることでしょう。私が生まれるために、どれだけの負担を、母の体にかけたことでしょう。私の成長のために、どれだけの想いを注いでくださったことでしょう。行為として「殺害」はしていなくても、自分のいのちを見つめるときに、父母のいのちも感得できないならば、それは存在を認めていないということ。五逆の罪を犯したことと変わらないのではないでしょうか。
親鸞聖人のお手紙です。
善知識をおろかにおもい、師をそしる ものをば、謗法のものともうすなり。  親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。
        (『親鸞聖人御消息集』)
私を教えに導いてくださった師をそしる者を「謗法」の者といい、親をそしる者を「五逆」の者という。
「私は五逆の罪は犯していない」と思っても、私が生きている事実をみつめたとき、そこには忘れてはならない真実があります。
 
親鸞聖人のおことばです。
さるべき業縁のもよおせば、いかなる ふるまいもすべし
(もしそうせざるをえない状況におかれたならば、人は、どのようなふるまいでもするであろう)
        (『歎異抄』第13章)
「そのとおりですね」と頷かれる方もいれば、「いいえ、人は、良い方向を選べるはずです」と言われる方もいます。
私自身、「人を殺さなければならない縁がもよおせば、私も人を殺すことがある」と受け取ってきました。しかし、その考え方の根っこには、「自分はそんなことしない」という思いがあることに気がつきました。
「もしそうせざるをえない状況におかれたならば、」とは、他人事・大袈裟な話・想像の話・宗教上の教訓ではないのです。聖人のおことばは、今、現に「どのようなふるまいでもする」いのちを生きている私のこととして受け取るべきなのです。
そのような者が、なぜすくわれるのか。なぜ許されるのか。私の眼では分かりえないことです。
許す、信じる、愛するとは言っても、許しきる、信じきる、愛しきることができません。
ここまでは許すけど、これ以上は許せないというのは、初めから許してはいないのです。ここまでは信じるけど、これ以上は信じないというのは、初めから信じてはいないのです。
私のこころは、線引きが付きまとうのです。そのようなこころでは、許すということも成り立ちません。成り立つような人間になりましょうと言っているのではありません。成り立たない己を見つめて欲しいのです。

今月の掲示板のことばを読んで、寺報に、どんなに耳障りのいいことが書いてあるかと思った方もいることでしょう。それなのに、自分には五逆の罪があるなんて…。
でも、ことばをもっと噛み締めてください。過去に、現在に、未来に許される存在というものを考えたとき、そこには、許されるはずのない存在というものが浮かび上がってくるはずです。過去に、現在に、未来に許されるということは、常に許されないことをしているということ。
いつまでも許されないということでは  ありません。瞬間、瞬間、常に許されているいのちを生きているのです。しかし、常に、いつまでも許されるはずのない生き方をしている私がいるのです。
そのような私であることの自覚。それが、仏が説く、衆生のすくいの要なのだと思います。「唯除」とは、否定しているのではなく、衆生肯定なのです。
  
   
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。
4月は、鯉のぼりの絵皿と、鯉の陶器です。5月5日まで飾りますね。
Rimg0270

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ