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2009年4月 1日 (水)

2009年4月のことば

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 過去のすべてを許します
 現在のすべてを許します
 未来のすべてを許します

 
仏教では、衆生のすくいの教えが説かれています。たとえば、
  設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國
  乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆
  誹謗正法

              (『佛説無量寿経』第18願)

  一切衆生悉有仏性 唯除一闡提
              (『涅槃経』)
 
詳しく説明しませんが、『佛説無量寿経』では、念仏申すすべての衆生のすくいを説き、『涅槃経』では、一切の衆生には仏になる性質があると説かれます。注目したいのは、共に「唯除」とある点です。すべての衆生のすくいを説きながら、「唯除(ただのぞく)」とあるのです。では除かれるのは誰かと言うと、「五逆誹謗正法(五逆の罪を犯したり、仏法をそしる者)」であり、「一闡提(断善根、仏になる性質を持たない者)」と説かれます。
    
「すべての衆生をすくうと説きながら、なぜ除かれるものがいるのか」という疑問が起こります。しかし、自分を除かれる方に置いて、そのような疑問を持つ方は少ないのではないでしょうか。人は、自分を良い方に置いてしまうものです。
「五逆」の内容は、次のようなものです。
 ①父を殺す
 ②母を殺す
 ③阿羅漢(さとりを得た聖者)を殺す
 ④仏身から血を出す
 ⑤和合僧(仏法を信じ仏道を行ずる人々の集団)を破る
五逆の内容を聞けば、多くの方が思うことでしょう。私は父母を殺してはいないし、さとりを得た聖者も殺していない。仏の身から血を出そうにも、肝心の仏がいないではないですか。教えに集う人々の仲間を破壊するなんて、していません、と。
たしかにそうかもしれませんが、ことばの表面だけ受け取らず、もっといろいろなことに想いを馳せて欲しいのです。
現実には父母を殺していなくても、どれだけの苦労をかけていることでしょう。私が生まれるために、どれだけの負担を、母の体にかけたことでしょう。私の成長のために、どれだけの想いを注いでくださったことでしょう。行為として「殺害」はしていなくても、自分のいのちを見つめるときに、父母のいのちも感得できないならば、それは存在を認めていないということ。五逆の罪を犯したことと変わらないのではないでしょうか。
親鸞聖人のお手紙です。
善知識をおろかにおもい、師をそしる ものをば、謗法のものともうすなり。  親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。
        (『親鸞聖人御消息集』)
私を教えに導いてくださった師をそしる者を「謗法」の者といい、親をそしる者を「五逆」の者という。
「私は五逆の罪は犯していない」と思っても、私が生きている事実をみつめたとき、そこには忘れてはならない真実があります。
 
親鸞聖人のおことばです。
さるべき業縁のもよおせば、いかなる ふるまいもすべし
(もしそうせざるをえない状況におかれたならば、人は、どのようなふるまいでもするであろう)
        (『歎異抄』第13章)
「そのとおりですね」と頷かれる方もいれば、「いいえ、人は、良い方向を選べるはずです」と言われる方もいます。
私自身、「人を殺さなければならない縁がもよおせば、私も人を殺すことがある」と受け取ってきました。しかし、その考え方の根っこには、「自分はそんなことしない」という思いがあることに気がつきました。
「もしそうせざるをえない状況におかれたならば、」とは、他人事・大袈裟な話・想像の話・宗教上の教訓ではないのです。聖人のおことばは、今、現に「どのようなふるまいでもする」いのちを生きている私のこととして受け取るべきなのです。
そのような者が、なぜすくわれるのか。なぜ許されるのか。私の眼では分かりえないことです。
許す、信じる、愛するとは言っても、許しきる、信じきる、愛しきることができません。
ここまでは許すけど、これ以上は許せないというのは、初めから許してはいないのです。ここまでは信じるけど、これ以上は信じないというのは、初めから信じてはいないのです。
私のこころは、線引きが付きまとうのです。そのようなこころでは、許すということも成り立ちません。成り立つような人間になりましょうと言っているのではありません。成り立たない己を見つめて欲しいのです。

今月の掲示板のことばを読んで、寺報に、どんなに耳障りのいいことが書いてあるかと思った方もいることでしょう。それなのに、自分には五逆の罪があるなんて…。
でも、ことばをもっと噛み締めてください。過去に、現在に、未来に許される存在というものを考えたとき、そこには、許されるはずのない存在というものが浮かび上がってくるはずです。過去に、現在に、未来に許されるということは、常に許されないことをしているということ。
いつまでも許されないということでは  ありません。瞬間、瞬間、常に許されているいのちを生きているのです。しかし、常に、いつまでも許されるはずのない生き方をしている私がいるのです。
そのような私であることの自覚。それが、仏が説く、衆生のすくいの要なのだと思います。「唯除」とは、否定しているのではなく、衆生肯定なのです。
  
   
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。
4月は、鯉のぼりの絵皿と、鯉の陶器です。5月5日まで飾りますね。
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コメント

 阿羅漢は仏のことですよ。いつの間にか菩薩より下であると大乗佛教では解釈されているようですけど・・・。
 まあ何にしても、私たちはこの世のことしか認識できないから、春秋を識らずの通りこの世のこともほとんど理解していません。あの世を調べる(スピリチュアル)にも、この世を調べる(仏道の真理さがし)にも、幻夢という無明の素となった化け物が必ず邪魔をしてきます。
 無明がそこにあるのではなく、心が幻(真実でないもの・偽もの)を見たり、今ここにいる自分とは関係のない夢物語を見ている(心が閉じていて、眠っている状態)から真実から遠ざかってしまい、無明というものができてしまった。

 要するに、人はこの地球の物質世界の一部分しか知らない。だから、この世界の価値観が絶対的なものであると勘違いしてしまいます。ゆえに、この世界で生きるために形成された自我や感情に縛られて生きていて抜け出せなくなっている。というわけです。
 この世界は存在自体小さな私たちにとっては矛盾だらけです。幻夢という現象があるかぎり、これこそが正しいということを調べようがない。
幻夢がなければ、虚物は一切見えることがないということになるます。だから、全世界を全て真実のままに把握できるはずなのに、幻夢はどうにかできるものないからどうしようもありません。

 全てを否定せずありのままに受け入れる方法の現段階の私の解釈はこうです。

 一瞬一瞬は違っていて同じものが無いから、全ては大変貴重な体験になり、世の中が悪と思っている出来事も含めて大切であること。それは、本当に必要ない物事は初めから生じることは無いし、そもそも存在するもの全て合わさって世界が世界であるわけだから、否定する部分は何もない。煩悩だらけの人がそのままであり続けても、世界そのものが否定することはない。どんな存在も世界の一部分であり、世界の設計者だからだ。
 
 ただ人も動物も植物も皆幸福になりたいという共通点はある。大概の不幸は自我から来ている。自分自身の人生経験を我がものとして、他人の人生と比較しているのです。自他の状況の良し悪しを見ては一喜一憂して、この世の何かを否定して生きています。何か許されないものが必ず生じてくるのです。
 だから、全てを受け入れて、最終的には自我をどうでもよいものにすれば、たとえ世の悪人でも聖者になれるでしょう。しかも、どんな人もどんな生き方をしても良い世界で、わざわざ善人と呼ばれる人の生き方に合わせたのだから、自然に善人だった人より2倍偉い人になるのです。

自分のことは許してもらいたいと思うばかりなのに、他の人のこととなると許すことがなかなかできない。受け入れるということは、本当に難しいです。今年に入ってから、「父は、どうしてあの大学に私を入れたのだろう、どうして警察官になることを勧めたのだろう」と、じっくり考えています。父の考えや私に対して進路を押し付けたことは未だに納得していませんが、恨み言を言うばかりではなく、その辺りのことから人生を振り返ることにしようと思います。

「大学受験に向けて、とりわけ、国立最難関の志望校合格に向けて必死になって勉強を重ねてきたのに、志望校を受験させてもらえず、父親の偏狭な考えで、自分の学力よりも相当に程度の低い大学に入学させられたのは、どうしても納得いかない」これは、高校卒業後、今日まで22年間思い続けてきていることです。就職に始まり、何から何まで、人生がうまくいかなかったことの原因は全てここにある、とずっと思ってきました。その思いや考えは今でも全く変わりません。正直に申しますと、自分が努力しなかったことで志望校に行けなかったならともかく、幼少の頃から積み重ねてきた努力を台無しにされ、ひいては人生そのものを台無しにされてしまったことについては、どうしても許すわけにはいきません。小生はよくこの話の例え話に、「一生懸命頑張って働いて一戸建てのマイホームを建てたのに、放火されて全焼してしまったとします。放火した犯人が『火災保険が下りるから建て直せばいいじゃないか』『賠償金払うから建て直せばいいだろ』と言ったとします。納得できますか?」という話を出します。建て直せばいいという次元の問題ではないのです。家を建てるまでに必死に働いてお金を貯めたこと、もっというと、家を建てるために必死に努力して働いたことについて、どのようにして償ってくれるのかということが問題なのです。償えるわけないのです。父は償うことが永久に不可能なことを承知の上で、小生に対して取り返しのつかないことをしたわけです。小生の大学受験までに成した努力は全て水泡に帰したのです。これに怒りを感じずして、何に怒りを感じるのでしょう。これだけのことをされて、それでも父を許せというのであれば、小生の努力は一体何だったのか。キリストさんのことばに「迫害する者のために祈れ」とありますが、小生は聖人君子ではありませんから、とてもそんなことはできません。許せません。この問題は未だに解決しておりませんし、小生も未だに気持ちの整理が着きません。ですから、許すということばを簡単には使えません。許すということは、それだけ難しいことだと考えます。

☆がくさんへ
コメントありがとうございます。
「父は、どうしてあの大学に私を入れたのだろう、どうして警察官になることを勧めたのだろう」と、じっくり考えています。
…その想いを大事にしてください。
許す許さないで揺れているご様子。この際、「許す」ということはお考えにならない方がいいかと思います。
でも、それならば気持ちが落ち着くかといえば、それでも落ち着けないのが人間。関係が近ければ近いほど、感情は複雑なのです。
以前ブログで、「憎しみをなくしてはいけない」と書きました。それは、憎しみ続けることを勧めたのではなく、憎しむこころと憎しみ切れない気持ちの間でこころが揺れ動いてこそ、他者に対する思いやりのこころがハッキリとしてくるだろうと思ったからです。
「許すことをやめたらどうですか」ということを言うのは、「許さなくてもいいですよ」なんて言っているのではなくて、許さないことにも許すことにも徹底できない自己のこころを知って欲しかったから。
許すということは、人間には難しいのではなく、出来ないのです(と思っています)。許すとは、衆生の仕事ではなく、阿弥陀如来のお仕事。
自己のこころを知ることにより、如来と出会えるのだと思っています。

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