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2009年2月18日 (水)

ボンノウ ボンボ ボンボ ボンノウ♪

今日は西蓮寺聞法会でした。
今日のメインテーマは「煩悩」について
「煩悩」を念頭において、親鸞聖人のおことばに当たると、実にたくさん「煩悩」というおことばを使われていることに気づきます。
 
日々お勤めする「正信偈」には3ヵ所出てきますし、『歎異抄』第9章を見ただけでも5ヵ所もあります。
そして、その「煩悩」を、捨てるべきもの、消すべきものをして捉えるのではなく、ありのままの私としていただかれています。
 
愛欲の広海に沈み、名利の太山に迷っている私、親鸞。
そんな私にでさえも、いや、そんな私だからこそ、阿弥陀如来のすくいのおこころは私に届いている。
 
聖人の信仰告白です。
決して、煩悩を捨てなさい、消しなさいと、押し付けられるのではない。
このような私ですという自覚に、つねに立たれていた方 親鸞聖人。
かといって、煩悩讃嘆でも、煩悩肯定でもない。煩悩持つ身であるからこそ、阿弥陀如来の慈悲のおこころに出遇えたという事実を喜ばれています。
そのお姿が、亡き後750年近く経っても、見えています。
 
煩悩を無くそう、消そうというのは、その時点で煩悩。
煩悩があるままでいいんだって、そこに留まってしまうのも煩悩。
どうしても逃れられないのです。
逃れるべきものとしての煩悩理解ではない。煩悩あるからこそ、生きるとは、いのちとは、すくいとはということを考える。煩悩あるからこそ、生きる力がわいてくる。手が合わさる。
 
聖人は言われます。
「おしえに触れて、喜べない、信じられないというのは、煩悩があるがゆえです。おしえに出会えたことを、喜べる、早く阿弥陀仏国に生まれたいと思うなんて、煩悩がないからじゃないですか?」
漫然とお聖教を読むよりも、ことばをクローズアップして読むと、感じ方も変わりますね。
 
今日はいいお天気でしたね。法話の後の、お茶会も楽しかったです。
本日聞法会にお集まりの方、ありがとうございます。
いつもブログをお読みいただいている方、ありがとうございます(更新が滞るときがありますが、元気にしております。一部ご心配いただき、申し訳ありません。想いが文章になるときと、そうでないときがあるので、どうぞご勘弁を)

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コメント

昨日はありがとうございました。お目にかかりお話を伺うことができて良かったです。美味しいものを食べたい、自分の思うようなことをしたい、道で美しいきれいな女性とすれ違うと、つい振り返ってしまう(家内には内緒です)という、まさに煩悩だらけの、よこしまな気持ちの多い自分がいる。しかしそれは自分ではどうにもしようがない。そういう自分がいることに気付く。今年に入ってから特に思うのですが、どうも、自分で何とかしようとか、自分の力で何とかできるというのは思い上がりではないか。何か眼に見えない大きな御存在がいらっしゃって、そういう眼に見えない大きな方の手のひらの上で右往左往しているだけではないか、自分でできることなど何もないのではないかと思うのです。現に、呼吸に必要な酸素を作り出すこと、毎日いただいている食事の材料を作り出すこと、もっと言うと、自分の心臓を動かすことさえ自分の意思ではできないわけです。そういうことに思いをいたすとき、これはもう、生かしていただいてありがたいと、唯々感謝するしかない。そして、朝、眼が覚めて起きたとき、また今日一日人生を生かしていただけると、ありがたいことだと思って、その今日一日の中で、わずかながらでも、自分が為すべきことに最善を尽くして精一杯取り組むしかない。いつもながら、昨日も、いろいろなことに気付かされたと、改めてありがたいことだと思っております。自分を省みる貴重な機会として、まさに「法」を「聞く」会として、これからもお話を伺いに参ります。

☆がくさんへ
「何か眼に見えない大きな御存在がいらっしゃって」
そのはたらきの中を生かされている私たち。でも、私たちは、自我を生きていかなければならない。
他力の中を、自力で生きるのだと思います。
自力を捨て、他力に生きるのではない。
他力がよくて、自力がダメなのでもない。
私が尽くせるのは、どこまでも自力。でも、他力に包まれている。だから、生きている。
煩悩を捨てるとか、煩悩はダメとか考えるものではない。煩悩は、あるもの。だから、法を聞くことを欲するのです。
聞法会・白骨の会、ご都合よろしいとき、これからもご参加ください。

 一瞬一瞬が大変貴重な体験、人生において全く同じ事をすることはできない。それも瞬間ごとに異なっている。全く同じ人間なんていないように、一人の行いもまた、全てかけがえのないものなのだ。悪の部分も含めて、全て大切なこと。
 人間は(自分(達)の身を守るために)悪の部分を否定しがちだけど、本当に世界にとって必要のない物事があるわけではない。必要なければ初めから生じない。煩悩もまた必要だから生じた。煩悩から生じる様々な出来事もまた、正しく見れば、ここでしかできない貴重な体験。調べていないから分からないだけです。

 だから私は世の中がどうなろうと別にかまわないし、全てを受け入れるつもりでもある。ただ、煩悩に基づく経験は放っておいてもできるし、この世界の差別的な価値観ではなく、全て受け入れて、一切を否定しないようにしたいもんでね。そのためにはどうしても心を綺麗にしていかないとならなくなるわけですよね。

 それとどんな存在も法には触れている。なぜなら、何らかの法則によってどんな世界も成り立ち、法則によって存在(命)は形成されているからである。

 それとこれは感覚で知ることで、言葉では言い表せないので、ヒントだけを出しておきます。
 煩悩の成り立ちは、この世界の物質の一部分しか知らないこと+弱肉強食の摂理+物事の流転法則(無常法則)から構成されている。この3点を観察すれば分かると思います。

☆真照さんへ
この世は、いや、衆生は、矛盾をはらんだ生き物ですね。

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