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2009年2月

2009年2月25日 (水)

ちょっとしたことですが…

先日、あるお母さんと娘さんが訪ねて来られました。
応接間へお通ししました。
お茶を入れて応接間へ入ると、娘さんしかいませんでした。
 
(娘さん)
「すみません、母は化粧室をお借りしています」
(私) 
「あっ、はい、どうぞ」
   
  
ちょっとしたことですが、
「トイレ借りてます」より「化粧室をお借りしています」の方が聞こえもいいし、丁寧な響きだなぁと感じました。
 
「トイレ」と言うと、「借りてます」と続くけれど、
「化粧室」というと、「お借りしています」と続きますね。
「化粧室借りてます」とは言わないですね。
不思議です。

2009年2月24日 (火)

人の振り見て

あるデパートのレストランで、ひとりで食事をしていたときのことです(そんな話ばっかりですね)。
隣のテーブルでは、女性が二人、向かい合って食事をしていました。
聞く気はないのですが、一方の女性が、大きな声でひっきりなしにお話されているので、嫌でも耳に入ってきます。内容は、彼女の会社の後輩の愚痴です。
 
「○○さんは、生意気、口の利き方を知らない、仕事が出来ない」等々、欠点のオンパレードです。よっぽど腹にたまってんだろうなぁって思いながら、耳にしてました。
 
彼女の語気が強まりました。○○さんの行儀がなっていないことが我慢ならないそうです。
「私ね、礼儀にはうるさいんですよ」
 
それまでは聞き流してましたが、「礼儀にはうるさいんですよ」のひと言に目が点になりました
私は思いました。
「礼儀にうるさいなら、食事中は帽子をとろうよ」
 
さすがに言えませんでしたけど。
人のことをとやかく言う前に、自分自身がどうなのかをキチンと見なければいけないなと教えられました。 

2009年2月23日 (月)

関東ではマック 関西ではマクド

マクドナルドで注文をしているとき、隣のお客さんが怒っていました。
「早くしてよ! 急いでるんだから!!」
 
急いでいるのは、あなたの都合です。
店員さんに言い放つことではありません。
 
頼んだものがなかなか出てこなくて、「遅い!」って怒るのなら、筋は通っていると思いますが。
でも、「遅い」と言っても、怒るほど遅いことも、そんなにはないでしょう。
 
ある定食屋さんで、席に着いたら、隣のお客さんに店員さんが謝っていました。
「遅くなって申し訳ございません」って。
そうしたら、そのお客さんは、
「いいの、いいの、忙しいんだね。慌てなくていいからね
って、笑顔で応えていました。あぁ、格好いいなぁって思いました。
 
どんなに忙しくても、時間の使い方しだいで、余裕(やさしさ)は生まれるものですね。
かくありたいものです。

2009年2月22日 (日)

スマイル スマイル

電車に乗って
窓に映った顔が ふと目に入った 
恐い顔だった
誰かと思った
余裕(あそび)がないのかな

2009年2月21日 (土)

出会いと、本当の出会い

けんかって、出会ったからこそできるんだ

2009年2月20日 (金)

それでいいの?

人をだますということは、自分をだますということ。

2009年2月18日 (水)

ボンノウ ボンボ ボンボ ボンノウ♪

今日は西蓮寺聞法会でした。
今日のメインテーマは「煩悩」について
「煩悩」を念頭において、親鸞聖人のおことばに当たると、実にたくさん「煩悩」というおことばを使われていることに気づきます。
 
日々お勤めする「正信偈」には3ヵ所出てきますし、『歎異抄』第9章を見ただけでも5ヵ所もあります。
そして、その「煩悩」を、捨てるべきもの、消すべきものをして捉えるのではなく、ありのままの私としていただかれています。
 
愛欲の広海に沈み、名利の太山に迷っている私、親鸞。
そんな私にでさえも、いや、そんな私だからこそ、阿弥陀如来のすくいのおこころは私に届いている。
 
聖人の信仰告白です。
決して、煩悩を捨てなさい、消しなさいと、押し付けられるのではない。
このような私ですという自覚に、つねに立たれていた方 親鸞聖人。
かといって、煩悩讃嘆でも、煩悩肯定でもない。煩悩持つ身であるからこそ、阿弥陀如来の慈悲のおこころに出遇えたという事実を喜ばれています。
そのお姿が、亡き後750年近く経っても、見えています。
 
煩悩を無くそう、消そうというのは、その時点で煩悩。
煩悩があるままでいいんだって、そこに留まってしまうのも煩悩。
どうしても逃れられないのです。
逃れるべきものとしての煩悩理解ではない。煩悩あるからこそ、生きるとは、いのちとは、すくいとはということを考える。煩悩あるからこそ、生きる力がわいてくる。手が合わさる。
 
聖人は言われます。
「おしえに触れて、喜べない、信じられないというのは、煩悩があるがゆえです。おしえに出会えたことを、喜べる、早く阿弥陀仏国に生まれたいと思うなんて、煩悩がないからじゃないですか?」
漫然とお聖教を読むよりも、ことばをクローズアップして読むと、感じ方も変わりますね。
 
今日はいいお天気でしたね。法話の後の、お茶会も楽しかったです。
本日聞法会にお集まりの方、ありがとうございます。
いつもブログをお読みいただいている方、ありがとうございます(更新が滞るときがありますが、元気にしております。一部ご心配いただき、申し訳ありません。想いが文章になるときと、そうでないときがあるので、どうぞご勘弁を)

2009年2月17日 (火)

おたがいさま

「結婚披露宴の招待と、ご葬儀の案内は、いただいたら必ず出なければいけないよ。万難を排してでも。あなたに来て欲しいという願いが込められているんだから」
 
大学を出て、寺に戻ってしばらくした頃に、あるご老僧から言われたことばです。
披露宴の案内は、招待する人が、この人には来て欲しいと願っている。その想いには応えなければいけない。
ご葬儀の案内は、ご遺族が“招待”するわけではないけれど、亡き人との関係があったからこそ、ぜひお別れに来て、見届けて欲しいという願いが込められている。
どちらも、なにか用事があったとしても、万難を排して優先しなければいけない。長く生きてきて、そうしなければいけない、そうするべきだという想いがご老僧にあったのでしょう。きっと、後悔したこともあったんだろうなぁと、感じました。
 
そのことばは、日中の会合で言われたのですが、その晩は、ご老僧と私の共通の知人のお通夜がありました。
「先生も今晩のお通夜に行かれるんですね?」と私が尋ねると、
「いや、今日明日の通夜葬儀にはお参りできないんだよ」との返事。
「ダメじゃん!!」 私の3倍以上も生きている先輩に、すかさずダメ出しをしてしまいました。
「だから、今日ここに来る前にお参りしてきたんだよ」とのことでした。
 
今のやり取りは笑い話として、そのことばをいただいてから、披露宴・プライベートでのご葬儀には、必ず駆けつけるようにこころがけています(偶然披露宴が2組重なってしまい、その一組に行けなかったことがあります。今でも申し訳なく思っています。ごめんねH君)。
 
   
 
前振りが長くなりました。
先日、あるご葬儀にお参りさせていただきました。自分も都合をつけましたが、そこで出会った方の中に、自分が立ち上げに関わったプロジェクトを最後まで見届けることなく駆けつけた人がいました。
「いいの?」と、問う私に、
「おたがいさまだよ」という返事
 
「おたがいさま」…あぁそうだなぁ、ご葬儀って、「おたがいさま」なんだなぁって噛み締めました。
披露宴は、案内が届いてから1、2ヵ月の猶予があります。でも、ご葬儀は突然のこと。
よそさまのことでもあるし、自分とこのことでもある。いつお世話し、いつお世話になるか分からない。
最近のご葬儀の縮小化の傾向の一因は、その持ちつ持たれつが嫌なところにもあるのかもしれない。けれど、ご葬儀というのは、亡くなった人のための儀式ではなく、人が亡くなることを通して、人と人とのつながりを再確認するための場でもあるのかもしれない。そういうことを痛感しました。
 
   
 
ご葬儀の場で、「おたがいさまだよ」ということばを聞いて、あぁそうだなぁと、そのことばを噛み締めたのは、数日前に「おたがいさま」ということばを耳にしていたからでもあります。
 
2009年1月13日(火)放送のNHK「プロフェッショナル」
その回は、福井県名田庄村(現:おおい町名田庄地区)の診療所にただ一人の医師として勤務する 中村伸一さんでした。
この村で医師を続けて17年になりますが、赴任当初は、すぐに大都市の大きな病院に戻ることを考えていました。
 
村に赴任して3年目、そろそろ引き時かと考えていたある晩、緊急の連絡があり、村のあるお宅に駆けつけると、そこの奥さんが肩が痛いと訴えていました。
昼間車を長時間運転して、帰ってからお酒を飲んだと聞いて、疲労だろうと判断しました。
ところが、その奥さんの痛みは増し、総合病院に搬送しました。痛みの原因はくも膜下出血でした。
肩の痛みということで、くも膜下出血を見抜けなかったのです。
奥さんを入院させ、中村先生は奥さんのご家族が運転する車で、村に帰ってきました。車中、先生は、奥さんのいのちと、医師としての自分の終わりを覚悟していました。
そこで思いもしない一言がご家族からありました。
「先生も疲れているのに、夜中に呼び出してすまなかったね。こういうことは誰にでもあることだ。おたがいさまだ」
 
責められても仕方がない自分に対し、「誰にでもある。おたがいさまだ」の一言。
幸い、その奥さんは回復されたそうです。
中村先生は、その村と“結婚”することを決心され、以来、村人のために診療を続けておられます。
 
「おたがいさま」って、温かいことばだけど、こういう状況でなかなか言えないなぁと、放送を見て感じました。
頭には焼き付きはしたけれど、実感がないことばとして、「おたがいさま」ということばが頭の片隅に残っていました。
そこで、さきほどのご葬儀の席での「おたがいさまだよ」というセリフ。
あぁ、おたがいさまって、こういうことなんだって、脳にとどまっていたものが体中にいきわたるように、味わいました。 
 
人間関係とは、おたがいさまの関係なのですね。

2009年2月16日 (月)

黄砂に~吹かれて~♪

毎朝外掃除をしていて、水拭きをするところがあります。
毎日毎日水拭きをしているのに、いつも雑巾は真っ黒です。排気ガスや大気中の汚れなのでしょうね。朝の掃除を終えただけで、おろしたての雑巾は役目を終えます。
 
今朝、いつも通り水拭きをして、雑巾を見てビックリ。いつも真っ黒になる雑巾が、今朝は真っ黄色でした。
聞くところによると、昨日は黄砂がすごかったそうな。黄砂の黄色だったのですね。大気の汚れはいつも通りなのでしょうから、その黒さをも褪せさせてしまう黄砂の量。はるばる中国から飛んできたのでしょうね。
先日の浅間山の噴火の際も、その火山灰は千葉県まで届いていたとのこと。
気流に乗ると、かなり遠くまで行けるのですね。かなりの速度で飛んでいくのですね。「風評被害」とは、よく名づけたものです。
 
はるばるご苦労さまという想いと共に、この時期の憂鬱さも増幅されました。
掃除をするときにマスクをするのを忘れていて、クシュン クシュンくしゃみをしながら掃除をしてました。もはやこの時期の宿命です。
花粉症の季節。鼻が詰まりながらの読経は、寿命を縮めるつらさです(何度か意識が遠のいたことがあります)
この時期、鼻腔を広げるシールを貼りながら読経することがあります。
そのシールを知っている人からは、「副住職、花粉症ですね」と言われるのですが、そのシールを知らない人からは、「副住職、どうしたんですか! 怪我されたんですか?」と驚かれてしまいます。
驚かせてしまってすみません。鼻腔を広げるためのシールです。
 
話題が黄砂から花粉症になってしまいましたね。
でも、今朝雑巾を見たときは、花粉かと思ってゾッとしました。こんなに真っ黄色になるくらい花粉が飛んでたら、花粉症にもなるわなと、変な納得をしていました。

2009年2月15日 (日)

じっと手を見る

早いもので、2月も折り返しですね。
今年の2月は日曜始まりで、ちょうど4週間で終わるので(4行で納まるので)、カレンダーがスッキリ感じますね。
  
さて、一週間ほど前、床屋に行きました。
いつも私の髪をカットしてくれるお兄さんがいます。
今となっては私の髪も淋しくなってしまいましたが、若かりし日の、クセの強い私の髪(前髪は天然パーマ・後ろ髪は下から上に向かって生えるクセ毛・おまけに頭の形が格好よくないので形を整えるのも大変なのです)を、上手にカットしてくれる、腕のいいお兄さんです。
 
会計のときに、ふとお兄さんの手が目に入りました。(カットしてくれる人がレジ打ちをします)。
カサカサでひび割れて、技術を身につけるまでにつけたであろう傷跡が残っています。
あぁ、こんなになってまで私の髪を切ってくださっていたのですね。
頼りにしているのに、今まで気づきもしなかった。
申し訳ない気持ちや、感謝の気持ちが入り混じった想いがしました。
 
100年に一度の不況などと表現される、現在の不況。
多くの人々の首が切られています。
 
でも、この不況の中、繁盛しているお仕事もあります。
洋服を縫い直してくれるお仕事が繁盛していると聞きました。
破れたり、サイズが合わなくなった衣類を直してもらうのです。今までだったら、「着れなくなった」と言ってすぐに捨てていた衣類も、今は直せる限り直して着ようとされるのでしょう。
 
1000円カットの床屋さんも繁盛していると聞きました。
繁盛していると聞いて、「腕はどうなの?」と尋ねてしまいました。
「腕が悪かったら誰も来なくなってしまうから、腕も確からしいよ」との返事。
「安い=腕もそれなり」という偏見が私にありました。1000円カットの床屋さんで働いていらっしゃる方には、申し訳ありませんでした。
 
今のような状況になり、自分の手でコツコツ地道に作業をすることの大切さが感じられるようになった気がします。
 
アメリカ発の金融の混乱が引き金と言われている現在の不況。
金融によるお金の動きは、現実に現金が動いているわけではなくて、取引によって計算上お金が動く。お金の価値も上下動する。
大きな富を得るために、投資や預貯金によってお金を増やすわけだけど、そこに、自分でお金を作っている(稼いでいる)という実感はあるのだろうか。
 
会社や組織やグループが大きくなり、より多くの富を得るためには、投資などをすることになるのだろう。
自分の手で作ったものを売ったり、自分の技術に対する対価をもらうだけでは、大きな利益は生み出せない。
でも、企業の多くが、本業を忘れたところでの金儲けに走り、それに失敗して本業に悪影響を及ぼしてしまった。

人間の手で作った物の温もりを忘れてはいけない。
人間が長い時間をかけて身につけた技は、お金に変えられない。
 
企業の上に立つ人には立つ人の言い分があるかもしれないが、人の首を切る前に、その人たちの手を見て欲しかった。
その手が会社を支えていることに気づけたはずなのに。

経済学に明るくないので、表現が稚拙で申し訳ありません。「素人考えだな」と笑われるかもしれません。「浪花節だけじゃダメなんだよ」と言われるかもしれません。
でも、他人(ひと)の手作業によって私たちの生活は本来成り立っているんだということを、今のような時代だからこそ、こころに刻んでおきたいと思ったのです。 
 
カサカサになって、ひび割れた手
誰かを助けようと思ってそうなったのではないだろう。
自分や家族が生きていくためという想いだけかもしれない。
いや、基本は誰だってそうだろう。
でもそこに、知らず知らずのうちに、みんなのためになっているという事実がある。
そのような手を、じっと見つめる。

2009年2月 1日 (日)

2009年2月のことば

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  おしえを聞いて、
   そのように成ろうとするけれど、
  そのように成っていることを、
   おしえに聞くのです。

  
   
  陽は、東から昇り西へ沈む。
  水は、高い所から低い方へ流れる。
 
「そんなことは分かっている」と言われてしまうかもしれない。それをどうにかしようと考える人間もいないだろう。
しかし、どうしようもないことだと分かっていても、なんとかしたいと思うこともある。
 
  時はうつろう。過ぎた時は戻らない。
  いのちは、刻一刻と老いてゆく。
 
身に起こる事実を受け入れられない。やり直したいと反省する。あんなことしなければよかったと悔やむ。
身に起こる出来事は、「そんなことは分かっている」で押さえられない。
戻らぬ時を、あのときに戻れればと無理な願いに埋没し、避けられない衰えを、昔の思い出と比べて悲観する。
分かっている、分かっているんだけど…というところで、人間は苦悩する。
そこで、自分の納得できる道を探す。「納得」というのは、考えてもみれば人それぞれの、こころの納め方。問題が解決するわけではないけれど、納得することによって気持ちを落ち着かせ、どうしようもない事実をなんとかしようとする。
おしえを聞いて「分かった」というのは、納得できたということなのだろう。おしえを聞いて「分からない」というのは、納得できないということなのだろう。
おしえに、なんとかする道を求めて聞くのかもしれない。しかし、そのような要求に対しては、仏教はなにも応えられない。天体の動きは変えられない。自然の流れにも逆らえない。過ぎた時は戻せない。いのちの営みに反することも出来ないのだから。
 
  時はうつろう。過ぎた時は戻らない。
  いのちは、刻一刻と老いてゆく。
万人に平等に与えられている事実。我が身に何事もなければ、「そうですね」と返せるだろう。しかし、つらい現実を生きる人にとって、その平等に与えられている事実は、あまりにも酷い。
過去の行いをなかったことにはできない。過去の行いに対して後悔や反省があったとしても、その事実から出発するしかない。
なぜあのようなことになってしまったのか。巻き込まれた惨事でさえ、後戻りはできない。やはり、起こった事実からの出発。
 
お釈迦さまが説かれたのは、誰もが「縁」を生きているということ。縁があって、今、私はここに生きている。
「縁」を口にするとき、嬉しい出来事は「いいご縁で」と言えるけれど、不都合な出来事に関して「これもご縁で」とは言えない。しかし、この身を生きているということは、すべてがご縁。嬉しい出来事も、不都合な出来事でさえ。
 
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13条)
親鸞聖人のことばです。縁があればなにをしでかすか分からない私。縁によっては、人を殺すこともあります。人を殺さずに済んでいるのは、私のこころがきれいだからではありません。人を殺す縁にないだけのことです。
こういうことを書いて、「人は、より良い方を選び、人を殺さずに生きられます」と言われたことがあります。そのようにできるのならば、なぜ殺人は、なぜ戦争はなくならないのでしょう。 
殺人と言うと、いのちあるものを、実際に殺してしまうことだけを考えがちですが、そればかりが殺人ではないと思います。いじめる、無視する、憎む、恨む、鬱陶しいと思う、これらも、人の存在を否定するという意味では殺人と変わりありません。身を裂くことだけが殺人ではないのです。
聖人が伝えようとされたのは、「私だって人を殺すかもしれない」という警告ではなく、人間の、成っている姿だと思います。人が、今、現に犯している罪を顕かにされているのです。
「人は、より良い方を選び、人を殺さずに生きられます」という声は素直で、誰もがそう思えれば、それもまた素敵なことかもしれません。しかし、そのように成ろうとしているところに、人間が不在な気がします。そこに私がいないのです。今、現に犯している罪が顕かになっていないのです。
 
「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」(『歎異抄』第6条)
これも聖人のことばです。私が誰かと出会う縁があったならば一緒になり、別れる縁があれば、離れ離れになることもある。
「私」を中心に聞けば、それだけのことかもしれません。しかし、人は誰もが縁を生きているのです。私がAさんと出会う縁があったならば、そのとき同時に、Aさんと別れている人がいるかもしれません。縁は、私の人生一本だけの糸ではないのです。何本もの縁を生きるいのちの糸が、数限りなく交錯しているのです。
今は出会いと別れのたとえでしたが、良い出来事と悪い出来事にも置き換えられます。私の身に良いことが起これば、同時につらい思いをしている誰かがいるのです。良いことだと信じて行ったことが、他の人には悪い出来事となって響くことだってあるのです。
 
縁を生きるとは、そういう悲しみを含むのです。とても納得できるものではないのです。納得して生きてしまってはいけないのです。おしえを聞いて、そのように成ろうとするところに、悲しみは芽生えません。成っていることに耳を傾けるとき、そこに悲しみの涙がこぼれます。
 
  涙は、悲しいから流れるのではなく、
  成っている事実に出遇えたからこぼれる。
 
     
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。2月は雛人形です。
昨年は3月に飾ったのですが、考えてもみれば、お雛祭りは3月3日。2月から飾っておきましょうね。
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