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2009年2月 1日 (日)

2009年2月のことば

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  おしえを聞いて、
   そのように成ろうとするけれど、
  そのように成っていることを、
   おしえに聞くのです。

  
   
  陽は、東から昇り西へ沈む。
  水は、高い所から低い方へ流れる。
 
「そんなことは分かっている」と言われてしまうかもしれない。それをどうにかしようと考える人間もいないだろう。
しかし、どうしようもないことだと分かっていても、なんとかしたいと思うこともある。
 
  時はうつろう。過ぎた時は戻らない。
  いのちは、刻一刻と老いてゆく。
 
身に起こる事実を受け入れられない。やり直したいと反省する。あんなことしなければよかったと悔やむ。
身に起こる出来事は、「そんなことは分かっている」で押さえられない。
戻らぬ時を、あのときに戻れればと無理な願いに埋没し、避けられない衰えを、昔の思い出と比べて悲観する。
分かっている、分かっているんだけど…というところで、人間は苦悩する。
そこで、自分の納得できる道を探す。「納得」というのは、考えてもみれば人それぞれの、こころの納め方。問題が解決するわけではないけれど、納得することによって気持ちを落ち着かせ、どうしようもない事実をなんとかしようとする。
おしえを聞いて「分かった」というのは、納得できたということなのだろう。おしえを聞いて「分からない」というのは、納得できないということなのだろう。
おしえに、なんとかする道を求めて聞くのかもしれない。しかし、そのような要求に対しては、仏教はなにも応えられない。天体の動きは変えられない。自然の流れにも逆らえない。過ぎた時は戻せない。いのちの営みに反することも出来ないのだから。
 
  時はうつろう。過ぎた時は戻らない。
  いのちは、刻一刻と老いてゆく。
万人に平等に与えられている事実。我が身に何事もなければ、「そうですね」と返せるだろう。しかし、つらい現実を生きる人にとって、その平等に与えられている事実は、あまりにも酷い。
過去の行いをなかったことにはできない。過去の行いに対して後悔や反省があったとしても、その事実から出発するしかない。
なぜあのようなことになってしまったのか。巻き込まれた惨事でさえ、後戻りはできない。やはり、起こった事実からの出発。
 
お釈迦さまが説かれたのは、誰もが「縁」を生きているということ。縁があって、今、私はここに生きている。
「縁」を口にするとき、嬉しい出来事は「いいご縁で」と言えるけれど、不都合な出来事に関して「これもご縁で」とは言えない。しかし、この身を生きているということは、すべてがご縁。嬉しい出来事も、不都合な出来事でさえ。
 
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13条)
親鸞聖人のことばです。縁があればなにをしでかすか分からない私。縁によっては、人を殺すこともあります。人を殺さずに済んでいるのは、私のこころがきれいだからではありません。人を殺す縁にないだけのことです。
こういうことを書いて、「人は、より良い方を選び、人を殺さずに生きられます」と言われたことがあります。そのようにできるのならば、なぜ殺人は、なぜ戦争はなくならないのでしょう。 
殺人と言うと、いのちあるものを、実際に殺してしまうことだけを考えがちですが、そればかりが殺人ではないと思います。いじめる、無視する、憎む、恨む、鬱陶しいと思う、これらも、人の存在を否定するという意味では殺人と変わりありません。身を裂くことだけが殺人ではないのです。
聖人が伝えようとされたのは、「私だって人を殺すかもしれない」という警告ではなく、人間の、成っている姿だと思います。人が、今、現に犯している罪を顕かにされているのです。
「人は、より良い方を選び、人を殺さずに生きられます」という声は素直で、誰もがそう思えれば、それもまた素敵なことかもしれません。しかし、そのように成ろうとしているところに、人間が不在な気がします。そこに私がいないのです。今、現に犯している罪が顕かになっていないのです。
 
「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」(『歎異抄』第6条)
これも聖人のことばです。私が誰かと出会う縁があったならば一緒になり、別れる縁があれば、離れ離れになることもある。
「私」を中心に聞けば、それだけのことかもしれません。しかし、人は誰もが縁を生きているのです。私がAさんと出会う縁があったならば、そのとき同時に、Aさんと別れている人がいるかもしれません。縁は、私の人生一本だけの糸ではないのです。何本もの縁を生きるいのちの糸が、数限りなく交錯しているのです。
今は出会いと別れのたとえでしたが、良い出来事と悪い出来事にも置き換えられます。私の身に良いことが起これば、同時につらい思いをしている誰かがいるのです。良いことだと信じて行ったことが、他の人には悪い出来事となって響くことだってあるのです。
 
縁を生きるとは、そういう悲しみを含むのです。とても納得できるものではないのです。納得して生きてしまってはいけないのです。おしえを聞いて、そのように成ろうとするところに、悲しみは芽生えません。成っていることに耳を傾けるとき、そこに悲しみの涙がこぼれます。
 
  涙は、悲しいから流れるのではなく、
  成っている事実に出遇えたからこぼれる。
 
     
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。2月は雛人形です。
昨年は3月に飾ったのですが、考えてもみれば、お雛祭りは3月3日。2月から飾っておきましょうね。
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コメント

お肉料理をいただくとき、赤身ばかり選り分けていただくよりも、脂身も含めていただいたほうが、かえって美味しくいただけることがあります。ご縁にも同じようなことが言えるのかもしれませんね。また、昨年の秋葉原でのできごとの折にも思ったことですが、同じような境遇に育った私は、もしかしたら自分がそのようなことをしていたかもしれないと、強く思ったのです。幸いにも、自分はそのようなことをしないでここまで来ることができた。でもそれは形に現れないだけのことであり、心の中にはいつも、これまで自分が受けてきた仕打ちや扱いへの恨み、憎しみがあったわけです。そして、それは未だに消えておりません。はっきりと強く残っております。だから、それだけで仏様から見れば罪深い人間ということになります。そのような罪深い人間であるという事実を受け入れて、それでもこれからも生きていく。悲しいことかもしれないけれど、私にはそれしかできないのです。どうしようもない自分がここにいるという事実、しかし、一方で仏様の教えに出会ったという事実。とても不思議な思いがします。もしかしたら、自分がどうしようもない人間であるということをわかっているから、こうして仏様の教えに出会うことができ、お寺様とのご縁もいただくことができたのかもしれません。これまで、自分の置かれた境遇を恨み、自分を否定してばかりまいりましたが、これから、自分を取り巻くさまざまな方や出来事とのご縁について、そのご縁自体は良くも悪くもない、自分がどのように受け取るか、そして、全てのご縁を益に、という気持ちでとらえていきたいと思います。

☆がくさんへ
自己の気付き、お話くださいまして、ありがとうございます。
「人生に無駄なことはなにもない」というのは、がくさんのように思えるようになったからこそ、言えることなのだと思えます。
境遇に変化はないけれど、心境の変化で、人生という景色が一変する。なにも変わらないけど、すべてが変わる。そういうことがあるんです。
ありがとうございます。

 佛教の教えで、物事を正しく見たければ、物事の表だけでなく、裏も見るようにすれば良いというのがありますが、裏を見ると生きていくために結構残酷なことをしていて、しかもその真実からは誰も、逃れられないことが、分かります。

 例えば、今日、屠殺場の動画を見たのですが、まともに目を開けて見れるものではなかった。牛を吊るして生きたまま解体しているのですから。瞬間的に殺すわけではありません。解体されている間、牛は意識を失うまで、断末魔をあげています。
 その肉を私たちは食べている。これが真実です。でも、普段私たちはスーパーでパック詰めされた、解体した後の肉しか見ていない。命を食べていることは、何気なく分かるけど、その裏の過程を見ていないから、真実が見えなくなっているわけです。

 A・スマナサーラさん著の『お釈迦さまが教えたこと』シリーズを読んで大体のことを理解したつもりでいたのですが、自分自身で気付いた知恵ではありませんから、私はまだまだ無知であることがよく分かった。

 私は物事を知っているようで知らない。一部分だけを見ている愚か者だ。それもありのままの人の姿なのかもしれないが、そんなことを理解するためにも、真実を正しくみる必要があるのだから、少なくとも、今のままではいられないだろう。

本日は五組同朋会での司会のお役目、ご苦労様でした。本日の内容は、2回に分けてじっくり聞いても然るべき聖人の御生涯の時期でしたが、A先生は要点を突いて、しかも落ち着いた語りでよく話されたと感じました。私と同じ座談の場に御住職様がいらっしゃって、五組の将来は安心だと仰っていましたが、確かに勝さんを始め今までに法話を聞かせていただいた五組の副住職様方のお話は、素晴らしいものばかりですね。私もよい組にご縁があった「遠き宿縁を喜べ。」です。

☆真照さんへ
屠殺場の動画があるのですか。
森達也さんの『いのちの食べかた』をお読みになるといいかもしれません。

☆やすさんへ
本日はご家族でお寺参りにお越しいただきまして、ありがとうございます。また、お祝いを頂戴し、ありがとうございます。
 
A先生、本当落ち着いてますよね。
昨日に至るまでに、かなりプレッシャーをかけておいたのですが
 
御遠忌に向けて、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」が始まります。その前に、五組同朋会で、4人で話そうよと、頭を下げて皆にお願いしました(頭を下げた脅迫とも言いますが)。
やすさんにお褒めいただくのもお恥ずかしいですが、みんな知識としてではなく、自分が出会った親鸞聖人について正直に語っていると感じます。
 
話し手こそが、一番の聞法者だと思います。
大切なご縁をちょうだいしています。
南無阿弥陀仏

ちなみに、五組副住職の会を「アジャセの会」と言います。
さて、「安心」と表現していいのかどうかは、これからのお楽しみですね

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