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2009年1月14日 (水)

迷い 惑い 深みにはまる

12日に、「人に迷惑をかける」ことについて書きました。
でも以前、「迷惑とは、人に対してかけるものではなく、自分自身で迷い、惑うことです」とも書きました。
矛盾したこと書いてるかな?と、考えていました。
  
「迷惑」の本来の意味としては、「人生において、道に迷い、進む方向が見えなくなって惑うこと」。
しかし今では、「迷惑」は「人にかけること、人からかけられること」になっています。
 
「かける」ということがキーワードかなと思いました。
 
「迷惑」とは、本来「する」こと。
「迷惑する(人生において、道に迷い、進む方向が見えなくなって惑う)」
生きていれば、誰もが、自分自身の問題として「迷惑する」はずです。
 
今は、「迷惑をかける」「迷惑をかけられる」というように、「かける」という動詞がもれなく付いてきます。
それはつまり、「迷惑をかけられた」「迷惑をかけたくない」と、他者が対象になってきます。
 
他者が対象になってくるということは、関係の中を生きているから出てくる感覚なのかもしれない。
けれど、「迷惑をかけられた」と憤る。
「迷惑をかけたくない」と言うのは、他者を案じている反面、関係を生きることの本来の姿(迷惑をかけ合いながら生きている)を見失っているようにも感じる。
つまり、「かける」という動詞がつく「迷惑」は、自分の都合が反映されているような気がする。「迷惑はごめんだ」という都合が。
関係の中を生きているからこそ生まれた「迷惑をかける」という感覚。しかしそれは、関係性の否定という面を含んでいるのではないだろうか。
自分自身の人生に「迷惑する」という、人生の糧となるところがスッカリ抜け落ちているような気がする。
 
「する」が「かける」になっただけで、その意味合いはまったく違うものになるのですね。

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コメント

これまでの人生で、「人に迷惑をかけるな」「人の世話になるな」「一人で生きていけるように、自分の身の回りのことは全部できるようになれ」と、掃除や洗濯、アイロン掛けから炊事、ひいては裁縫まで躾けられて生きてきました。そして、怒られることを恐れて、できるだけ自分の希望や欲求を押し殺して、表面上は言うことを聴いて生きてきました。その反動で、小学1年生から3年生にかけて、頭の毛が全部白くなったり、ひどい頭痛に悩まされるなどの症状が続きました。さらに、そうすることによって、自分のしたいことや食べたいもの、欲しい物など、自分がどのようにしたいのか全く分からなくなってしまいました。今でもそれは続いており、自分がどのようにしたらよいのかわからなくなることがよくあります。「自分の意思をはっきり言うことは悪いことだ、親の言うことを素直に聴くんだ。親の言うとおりにするんだ」という教育を受けてくると、人に迷惑をかけないように、お世話にならないようにということばかりに気を付けるようになり、そうすればするほど、他の人に迷惑をかけられると憤りを感じるようになります。そして、ひいては、どなたとも関わりを持ちたくない、持たないようにしようというふうになります。私がそうなのです。迷惑をかけてかけられて、そうすることが続いていって、他の人の長所も短所も見えてくるのに、関わりを持ちたくないと考えるようになるのです。引きこもりの経験のある私は、数ヶ月どなたとも話をせず、終日布団をかぶっていた時期がありました。
自分の意思をどのように表したらよいのかわからなくなると、人との関わりを持ちたくなくなるのです。未だに私には、この問題に答を見出すことはできておりません。

昨日は「聞法会」兼「白骨の会」、その後の新年会に参加させていただき、ありがとうございました。C先生の法話は、かねがねお噂を聞いていたとおり、落語よりも面白く、迫力があり、また鋭いお話でした。機会がありましたら、また聞かせていただきたいと感じています。

新年会は楽しく過ごさせていただきました。準備・後片付けが大変だったでしょう。ありがとうございました。

☆がくさんへ
先日は聞法会におでかけいただきまして、ありがとうございます。
 
個人的に「迷惑」について考えることがあったので、ブログに書きましたが、がくさんにはつらいことを思い起こさせてしまったようですね。申し訳ありません。でも、ご自身のここまでの歩みを綴ってくださり、ありがとうございます。
 
「私は人に迷惑をかけないように生きています」と豪語する人がいたので、「迷惑」について考えました。ちなみに、その方は、周りから迷惑がられています。
うん、迷惑って、かけていないつもりでも、かけているんだよなぁ。存在自体が迷惑な生き物なのだから、人間って。
そんなことを考えていました。
 
人が、自分の人生の歩みの中で抱えた問題。
それをどうすることも、答を見つけることも、アドバイスすることも、他人にはできません。
つまり、何も言えない私だなぁということで、コメントの返しが滞ってしまいました。すみません。
ちなみに、私は、問いを抱えながらも生きられるのは、阿弥陀如来というバックボーンがあるからだと思っています。それを押し付けようと言うのではありません。ただひとこと。
 
阿弥陀のバックボーン…信じる人にだけあるのではありません。誰にだってあるのです。だから、ふんばってでも生きていけるのです♪

☆やすさんへ
「聞法会」兼「白骨の会」にご参加いただきまして、ありがとうございます。
C先生、迫力がありますね。「法話は対話です」のお話が、私のこころに残りました。
私は、法話で対話をしてないなぁと思いました。毎月お付き合いくださり、ありがとうございます。
C先生、ご都合がよろしければ(お忙しいのです)、またお越しいただきたく、計画中です。お楽しみに。

「新年会は楽しく過ごさせていただきました。準備・後片付けが大変だったでしょう。ありがとうございました」
そのように言っていただけるだけで、嬉しいです。あの日は、朝からバタバタで、実は大変だったのです。もし私が話すのだったらと考えると、ゾッとします。
お心遣いいただき、ありがとうございます。

このところブログが更新されず、経典講座でもお会い出来ずに残念でしたが、ひょっとして秋田へいらっしゃっているのですか?

☆やすさんへ
こんばんは お久しぶりです
ご心配をおかけして、申し訳ありません。
まだ東京におります。
 
経典講座の日は、副住職の会合と重なり、泣く泣く講座をお休みいたしました。とても出たかったんですけどね。
ちなみに24日は、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」の講師としてお招きを受け、ご挨拶に行ってまいりました。いよいよ講座が本格的に始まります。とても楽しみです。
 
今、ある講座のテープお越しをしていて、ブログ更新から遠ざかってしまいました(ひとつ何か始めると、他のことに手がつかない不器用さんなのです)。 
これから、2月号の寺報作りに取り掛かります。

なんてことをしている間に、いつ秋田から連絡が来るか、首を長くしてまっているところです。

そうでしたか! 秋田はまだでしたか。東京でご多忙のようで大変ですね。しかし、いつ跳んで行ってもおかしくない、秒読み段階に入っているのでしょうね。どういう訳か、私も待っています。

☆やすさんへ
ありがとうございます。
待つこととは、なかなかドキドキものですね。
阿弥陀如来は、かくも長きにわたり、衆生を待たれているのですね。

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