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2009年1月 8日 (木)

本年もよろしくお願い致します

お正月にお参りに見えた方がぼやいてました。
 
毎月お正月に挨拶に見える知人が、「『喪中は年始の挨拶回りを控えなければいけない』と本に書いてあったから、今年はお邪魔しません」と、連絡があったというのです。

「お寺さん、そうなんですか?」と尋ねられました。
 
結論から言うと、そんなことはないと思うのですけれど。
その本は、どなたが書いて、誰が出版されたのでしょうね。
 
喪中の過ごし方に、正解不正解があるわけではないと思うのです。
喪中の方が、心底亡き人を偲び、家にこもり、慎ましい生活をし、派手なことを避けているのであれば、他者は何も言えないと思うのです。
しかし、「喪中は年始の挨拶回りを控えなければいけない」と本に書いてあったからと言って、そのことだけ守っても意味はないことだと思います。
「その友人は、うちに来ることだけ遠慮して、忘年会・新年会はキチンと出席しているんですよ」
これでは説得力はありませんし、亡き人に対する、その人の想いさえ疑わしいものです。自分の都合のいいように利用しているだけだと思われてしまいますよ。
 
西蓮寺では、「喪中だからといって、普段と生活を変える必要はありませんよ」とお応えしています。
 
考えてみてください。
新年の挨拶を一度遠慮するということは、丸2年間ご無沙汰することになるのです。
ご葬儀の喪主挨拶のときに、「これからは遺された家族一同に対し、故人と変わらぬご厚情を賜りますよう、お願い申し上げます」と言われますよね(最近の簡素な葬儀事情では、そういうことを言う場も無くなりつつありますが)。
自分で「亡き人に対するものと変わらぬ厚情をお願いします」と言っておいて、自分は挨拶を遠慮する。矛盾していると思うのは、私だけでしょうか。
今まで以上に、「今年もよろしくお願いします」と表現するべきだと思います。
いまどき、一度疎遠になった関係を元に戻すということは並大抵のことではありません。交流を断つなんて、亡くなられた方も望んでないと思います。
  
近しい人、親しい人、これからも助力を求めたい人には、たとえ喪中であれ、キチンと挨拶をしましょう(年始に限らず)。

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コメント

人が亡くなるということを、その人の全てが終わったようにとらえるのではなく、その人の人生がどなたかに受け継がれていく、あるいは、どなたかの生き方が見直されるきっかけになると考えると、喪に服すということは、亡くなった人を偲ぶとともに、その人がそれまでに築き上げてきたことを受け継いでいこう、あるいは見直してみようというきっかけ、そしてその期間として考えてもよいのではと思います。眼に見えなくなってしまった故人から学ぶことは、自分を省みることにもつながるかもしれません。

☆がくさんへ
「人が亡くなるということを、その人の全てが終わったようにとらえる」ということは、自分自身の、生きているというかけがえのなさを、自ら打ち消しているようなものですね。

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