死は公(おおやけ)
1月26日
お世話になっていた住職が亡くなられて一年。
早いものだなぁと思いつつ、この一年でいろいろなことが確実に動いている。
懐かしんでばかりいるわけではないけれど、住職とのことを振り返る。
縁のあった誰もが。
縁のあったものどうし、会えば住職との思い出話。
死んで人間終わりなら、亡き人を振り返り、その人のことを語ることはないはず。
亡き人のことを思い、話が出る。
人が亡くなり、遺されたものは、人が亡くなるという事実の上に成り立つ人生を歩み出す。
つらいけれど、そこに人の成長がある。
住職の葬儀には、1,000人ほどの方が弔問に来られたと、葬儀社さんから聞きました。
弔問にみえた方、それぞれの中で住職を想い、住職が亡くなったという事実を受けて、この一年を生きてきた。
弔問にみえた方に限らない。もっとたくさんの方が、住職との縁があったのだから。
人の死は、それだけ多くの人々に、なにかを与えている。
人の死は、多くの人のためにあるのだなと、この一年、強く感じた。
弔問者の数の多少を言っているのではない。
しかし、家の人間が亡くなったことを、隣近所や親戚にさえも知らせない最近の風潮に危惧を抱く。
人の死を遠ざけた人生、人の死に接する機会のない人生において、いのちのかけがえのなさ、人を慕う(おもう)気持ちが果たして生まれるのだろうか。
葬儀の形は、時代や状況によって変わるものだと思う。
規模が小さくなる事情も分かる。家族だけで、亡き人との別れの時間を持ちたい気持ちだって、痛いほど分かる。
でも、自分が思っている以上に、亡き人は、その人の人生において、広くて深い人生を生きてきた。それは、悲しいけれど、人の死を通して気づかされる。
でも、亡き人が作ってきた広くて深い人生は、亡き人だけのものではなく、遺されたものにも引き継がれていくもの。
死は、亡くなった人の身だけに起こるものではない。
死は、家族だけで受け入れようと頑張るものでもない。
死は、多くの人の人生に響いていくもの。響きは響きを生み、さらに広がっていく。さらに深まっていく。
死は公のもの。
住職の死を縁として、「死は公」という事実を教えていただきました。




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