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2009年1月 1日 (木)

2009年1月のことば

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 汝(なんじ)、起(た)ちて
   更に衣服(えぶく)を整うべし

           『仏説無量寿経』下巻
 
汝、起ちて更に衣服を整うべし
『仏説無量寿経』というお経に出てくることばです。
説法中のお釈迦様が、弟子の阿難に投げかけたことばです。
「阿難よ、あなたは立ち上がり、人生を今一度見つめなおしなさい」
座って聞いていた阿難さんを立ち上がらせようとしたわけではありません。
志があって、お釈迦さまの弟子となり、話を聞き始めたはずだったのに、いつの頃からか、その志は薄れ、お釈迦さまのお話のすべてを分かったこととして聞いていた阿難に注意を促しているのです。
 
人は、自分の人生経験を通して、それぞれに答を持ってしまっています。自分なりの答を。「起つ」とは、自分なりに持ってしまった答を捨て、まっさらな気持ちで人生を歩めという促しのことばだと思うのです。
経験を経て身につけたものは貴重であり、財産です。しかし、身につけたものを答にしてしまい、他者を傷つけ、争いを生むこともあります。自身の歩みを止めてしまうことだってあります。
答とまでは言わなくても、自分の中で満足してしまっては、そこに安住してしまいます。安住するだけなら、その人の問題ですからかまいませんが、安住する者は、安住できないでいる者を見下げます。
人は、いつのまにか人生に座り込んで生きています。
今の世の中、仏教に答を求め、仏教講座やセミナーは大盛況です。どのような経緯、どのような場で教えに出会おうとも、教えは大切なものです。しかし、聞いただけで満足し、自身を振り返ることがなければ、仏の教えを自分の答に置き換えただけのことです。教えにあぐらをかいているようなものです。
問いは、日々の生活から生まれます。そのほとんどは悩み苦しみから生まれることでしょう。誰もが悩み苦しみからの解放、答を求めます。しかし、問いが生まれるのが人生ならば、答がないのも人生なのだと思います。答のない問いを、一生抱きしめ続ける。それが、人が生きるということ、人生ということなのではないでしょうか。
「答のない問いを、一生抱きしめ続ける」それが生きるということならば、自分の答にすがるということは、寝転びながら生きているようなものです。
 
その年の世相を表わす「今年の漢字」に、2008年は「変」が選ばれました。
アメリカ次期大統領オバマ氏が訴える変革・日米関係の変化・世界経済の変動・食や経済の変化に伴う生活の変化・地球温暖化による天変地異・明るい未来への変化という希望。「変」一文字に、たくさんの想いが込められています。
それにしても、「今年の漢字」は、世の中への風刺の色合いが濃くなっているような気がします。世の中への風刺…そこに、自分を見つめる眼はありません。他を見るのではなく、私を見つめませんか。「変」は、私自身を表わしている漢字なんだと。
「変」というと、変化すること、移り変わることを連想しがちですが、「変わらない」という含みもあります。「いつまでも変わらない私」という含みが。
世相に対し、「世の中がおかしい」「もっと良い世の中になってほしい」と言うのは簡単です。しかし、そのセリフの背後には、「私」がいません。他に責任を押し付け、他を非難し、他を切り捨てる言葉を吐く者ばかりの世の中に、なにを期待するというのでしょう。他への変化は求めるけれど、「私」の変化には無頓着。自分自身の変化に努めず、自分のことは棚に上げて、他を変えようとしてはいませんか。
 
お釈迦さまが阿難さんに「起て」と言ったのは、人生に座り込み、変わることを放棄した姿を、阿難さんに見たからです。
教えは「私」を映し出す鏡です。阿難さんは「私」のことなのです。お釈迦さまは、はるか昔に、この「私」の姿をお見通しだったのです。 
 
「衣服を整える」とは、身だしなみを整えるという意味だけではありません。「衣服」とは、私が生活している社会・環境・習慣も意味します。身に付けているものだけでなく、身に受けているものをも意味するのです。つまり、縁を生きているということです。縁を生きている事実を見つめ直しなさいというおことばです。
 
「汝、起ちて更に衣服を整うべし」という呼びかけは、大きな変化を起こしなさいということではなく、自身のあり方に目を向け、縁によって私がいるという事実に目覚めよという促しです。
 
昨年11月21日宮城 顗先生(真宗大谷派本福寺前住職・九州大谷短期大学名誉教授)が還浄されました。
2005年5月20日、宗祖親鸞聖人750回御遠忌真宗本廟お待ち受け大会での先生の記念講演の講題が、「汝、起ちて更に衣服を整うべし」でした。
先生は、親鸞聖人を偉人として褒め称え、その教えを追いかけるのではなく、聖人の教えの道を自らの人生の問いとともに生きることが願われているのだと、教えてくださいました。
静かな語り口の中にも、強い意思を込めて話される先生でした。メッセージを胸に、起ち、歩み出したいと思います。
  
     
 
西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
1月は、牛の親子の絵皿とお屠蘇セットと門松です。
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2009年がみなさんにとって、素敵な年でありますように

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コメント

周りがどうあろうとも、自分の信念をしっかり持って、歩みは遅くとも、信じた道を自分の足で一歩一歩踏みしめて進んでまいりたいと思います。そして、小さいことを疎かにせず、足元をしっかりと固めて参りたいと思います。今年も宜しくお願いいたします。

☆がくさんへ
4月から新たな歩みの始まりですね。
お疲れになったときには、聞法会や白骨の会、あるいはお茶を飲みにお寺にいらしてください。
本年もよろしくお願いいたします。

年齢と共に、いつのまにか
身に纏うものを気づかされる
お話、ありがとうございます。

☆tanukiさんへ
「裸の付き合い」と言いますが、スッポンポンになることではなくて、長年の間に身に纏ってきたものを全て脱いで、お付き合いすることなのでしょうね。
そこには、差別も偏見も身分の軽重もありません。同じいのちです。

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