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2008年12月25日 (木)

チルチルミチル

どうも、ご無沙汰しています。忙しくはしていましたが、元気にしております。ご心配をおかけしました。
ブログに書きたいことはたくさんあったのですが、目の前の仕事に押し流され、落ち着いてパソコンの前に座る時間もなかったので、更新も滞ってしまいました。
今更ではありますが、今月の出来事を書いていきたいと思います。

   

12月6日(土) 白骨の会(西蓮寺仏教青年会)
「救いとは何か」について、みんなでお話しました。べつにテーマ設定したわけではないのですが、そういう話になりました。
「救い」について話していて、「浄土」も話題になりました。
たまたま12月号の寺報で「浄土とは、今生きているこの世界」ということを書いていたので、そのことも話題に上ったのですが、参加者のひとりが一言。

「救いとはなにか」って考えなくてもいい状況が、救われている状態なのかもね。「浄土」も、「浄土とはなにか」って考えなくてもいい状況が「浄土」なんだと思う。 
 
そうですね。つい頭でゴチャゴチャ考えてしまうけれど、そういうことを考える必要がないことが、なによりも救われていることなのかもしれませんね。
 
親鸞聖人は晩年、「浄土」と言わなくなった、「自然(じねん)」と表現されるようになった。とも教えていただきました。
「自然(じねん)」とは、「自ずから然(しか)らしむ」、つまり「私の思いを超えて、そのようになっている」ということ。なにがそのようになっているのか。阿弥陀如来の救いの中に、既にいるということです。「救われたい」「救われるために修行しよう」という行者の想いを超えて、すでに阿弥陀の救いが私に届いていたんだなぁという、親鸞聖人感動のことばだと思います。
「浄土」とは言わずに「自然」と表現されるようになった。求めるものではなく、すでにあるものだったという自覚のことばなんだなぁ。
 
「自然(じねん)」ということばが出てきて、そこに絡めてカール・ゴッチ(プロレスラー)のことばも教えていただきました。
「自然(しぜん)界の動物は、体を鍛えない」
そのことばを聞いて、個人的にはかなり感動しました。
人間は体を鍛えようと励むけれど、自然界の動物はわざわざ体を鍛えません。鍛えようと決意するまでもなく、自然(しぜん)界で生きていくための体に自然(じねん)に成長しているのですから。人間だって、本来鍛えようとまではする必要のない肉体が具わっているのだと思う。それなのに、「鍛えたい」「強くなるために鍛えよう」と励むのです。すでに肉体をいただいている事実を忘れて。
 
思うのです。既にいただきものをしているのに、そのことに気づかずに、見当違いなさがしものをしているんじゃないかなぁって。
今月の白骨は、そういうことを教えていただきました。 

今年最後の「白骨の会」 話が落ち着いたところで忘年会を開きました。時の経つのも忘れて、楽しい時間でした。
 
《白骨の会 2008》
 1月 お寺でフリートーク
 2月 舞台鑑賞会(寺の都合で休会)
 3月 お寺でフリートーク
 4月 9条ピースウォーク参加
    (お仲間のお寺の仏青「髑髏会」と合同で。白骨と髑髏って
 5月 教区同朋大会
 6月 お寺でフリートーク
 7月 アールブリュット展鑑賞
 8月 お寺でフリートーク
 9月 お寺でフリートーク
10月 お寺でフリートーク
11月 スリランカ展鑑賞
12月 お寺でフリートーク&忘年会
 
毎月お寺でフリートークよりも、いろいろなところに出かけて、そうして感じたことを語り合えたらいいなって思っています。
今年白骨の会にご参加くださったみなさん。ありがとうございます。
来年も、いろいろなところに出かけて、お寺でいろいろなことをお話しましょう。
白骨の会に興味をもたれました方、ご参加お待ちしています。
来年もよろしくお願いいたします。
ちなみに、新年1月の会は、まだ開催日未定です。

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コメント

今日のNHKニュースで、埼玉県の中学校の全盲の先生がおっしゃっていらした「眼が見えなくなってしまってできなくなった多くのことを嘆くよりも、耳が聞こえる・自分の足で歩ける・両手が使えるという、自分にまだまだできることについて、ありがたみを感じながらこれからも子供たちと歩んでいきたい」というコメントに、とても感動しました。神さま仏さまからの頂きものに気付いていない自分の愚かさに、改めて気付かされた思いでした。まだまだ気付いていないことがたくさんありますが、来年も一つずつでいいですから、小さいことでもできることから一つ一つやっていきたいと思います。

秋田からお帰りのようですね。暫くは寂しい独身生活が続きますね。私も子供の数だけ、同じ体験をしました。

今は安田先生の教えを聞いて、身体・境遇・宿業・趣ということを知らされつつあります。身体(勝義根)は肉体(扶塵根)とは無関係ではないものの、少し異なるようで、より内面化されたはたらきのようです。

☆がくさんへ
秋田から帰ってきました。メール・コメント・おまんじゅう、ありがとうございます。
今日は一日、机上にたまった事務仕事をしてました。なので、テレビは一切見ていませんでした。でも、がくさんのコメントで、素敵なお話をおしえていただきました。今日、ブログを更新してなかったら、聞けなかった話です。だからといって、素敵なお話を聞きたいなという計らいがあったわけではない。すべては自然。がくさんを通して、先生のお話を聞けるようになていたのですね。ありがとうございます。
来年も白骨にお越しくださいね。待ってます。

☆やすさんへ
はい、秋田から戻ってまいりました。
一人静かに、安田先生の本、読ませていただきます。

私は夜中 冥土に行くような夢を
子供の頃からたまにみます。
薄暗い中で地平線がぼやけていき私が
玉になって流れてすいこまれる夢ですが、
夢を見ることが私の悩みなんですよ。
自然のままに流されてそれを受け入れて
死ぬ瞬間に 感謝できるそんな
自然の中で感謝していきたいものです。

☆大さんへ
私も、幼いときから、体調が思わしくないときに見続けている夢があります。
うまく表現できないのですが、ブラックホールのようなものに吸い込まれていく夢です。大さんが見る夢と似てるかもしれませんね。
 
自然故え、感謝(お念仏)できるのかもしれないなぁ。
と、思いました。

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