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2008年12月 8日 (月)

そういう考え方もあるんだなぁって気持ちでお読みください

西蓮寺寺報(ペーパーメディア)「ことば こころのはな」11月号に、喪中ハガキについて思うところを書きました。
非難を受けること承知で書いたのですが、思いのほか「私もそう思っていたんです」「もやもやが晴れました」「同じことを考えていました」という反響をたくさんいただきました。
「喪中につき新年のご挨拶をしつれいいたします」ハガキを出されている方もいらっしゃいますが、あぁそういう考え方もあるんだなぁって気持ちで、11月号に掲載した文章をお読みください。
 
     
   
早いもので11月ですね。今年もあと2ヵ月です。年賀状の発売予約の広告を見たとき、あぁもうそんな季節かと感じました。
年賀状は友人の近況を知ることができ、何年も会ってない人とも、年賀状では会うことができるので楽しみにしています。元旦に届くように年賀状を出してくれる友人には申し訳ないのですが、私はここ数年、元日に年賀状を書いています。大晦日に一年を振り返って思ったことや、年明けに感じた想いを書き綴っています。
さて、年賀状といえば、年内に身内が亡くなられると喪中ハガキを出します。「喪中につき、年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」と。
個人的には、この喪中ハガキにとても疑問を持っています。どうして喪中だと年末年始の挨拶を遠慮するのでしょう。おめでたくないから? しかし、「明けましておめでとうございます」という挨拶は、年が明けて、新たな歩みを踏み出す自身への掛け声だと思いますし、今年もよろしくお願いしますという想いを込めたことばです。挨拶を遠慮する必要はないのではないでしょうか。
 
喪中だから、おめでたいことは避けてということなのでしょうが、喪中とは、そもそもどういうことなのでしょう。
「喪中」とは、近親者の逝去に伴い、喪に服して慎ましく生活する期間です。その「期間」は、親の場合は一年など、自分と関係の近い人が亡くなるほど長くなります。
「喪中」に似たことばで「忌中」ということばがあります。祝いごとを慎む期間ですが、「忌中」の背景には、人の死を穢れとしてみてきた歴史があります。身内から死者を出した家には穢れがつく。その穢れが無くなるまで家に籠っていなければならなかったのです。
(「喪中」と「忌中」の違いはもっとあるのでしょうが、今回はこの程度の説明とさせていただきます)
さて、「喪中」「忌中」は、慎ましい生活を送る期間ということで、いろいろな制約に縛られます。新年の挨拶を遠慮する。喪中・忌中に結婚式・披露宴は開かない、参加しない。地域の祭りに参加しない。食事の制限をする、等々。
実際に喪に服す、家に籠る生活を送っている方はいらっしゃらないと思います。家に籠っていては、生活が成り立たないのですから。もっと長かった期間が、人間の都合によって短縮化されてきた歴史があります。つまり、「喪中」「忌中」の生活といっても、生者の都合なのです。
亡き人を偲んで、慎ましく過ごしておられる方はいらっしゃると思いますが、一般常識だからという理由で「喪中」「忌中」の制約に縛られている方は、少し気持ちを楽にして欲しいと思います。
僧侶仲間で、祖父母や両親を亡くされても年賀状をくださる方がいます。年賀状に、亡くなられた方との思い出を綴ってくださるのです。
亡き人のおかげで私がいる。亡き人は、いのちの尊厳を、自身の身をもって教えてくれた。亡き人と、本当に私は向き合っていたのだろうか、等々。
大切な人との別れを通して湧き出てくる感情を正直に書いてくださり、亡き人だけでなく、その人自身の生きる姿を感じさせていただきました。
死は、別れを意味します。しかし、死から何かを感じ、学び、こころに刻み込むことがあったならば、死は、新たな出会いを意味します。
大切な人との別れを縁にして、何かを感じ、学び、こころに刻み込んだことはありませんか? もしそういうことがあったならば、その想いを誰かに伝えてみてはいかがでしょうか(年賀状に限りませんが)。
習慣・一般常識だからという理由で喪中ハガキを出すのは、もったいない気がするのです。年賀状は、新年の挨拶や近況報告であると共に、自分のこころの動きを表現する場だと思うのです。
喪中ハガキを出すにしても、ちょっと振り返って欲しいのです。亡き人との縁を。別れを経て湧いてきた感情を。
たしかに、これだけ喪中ハガキが浸透してしまうと、喪中なのに年賀状を出したことに対する非難も想像できるわけですが…。
西蓮寺では、家族の誰かが亡くなっても、年賀状は出そうねと話しています。寺の誰かが亡くなっても、次の年には年賀状が届きますので、驚かないでくださいね。         西蓮寺副住職

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コメント

 その人がたとえ亡くなってしまったとしても、その人のことを一人でも覚えていてくれる人がいるなら、その亡くなってしまった人はとても幸せな生き方をしてきたのではないかと思います。死は決して終わりを意味するだけではなく、生きている誰かへの「生の引継ぎ」でもあると思います。

☆がくさんへ
いのちのバトンを受け継いで、わたしがいる。
わたしのバトンを受け継ぐ誰かがいる(血縁ということに限らず)。
そういうことを、考える時間・きっかけをいただいているんだと思います。

かつさんへ

 本日は聞法会とcake&tea忘年会に参加させていただき、ありがとうございました。N先生の「人生に意味は無い」とのお言葉。安田先生のお言葉を引用されているのでピンときました。「存在」の事実へ帰ればそれで充分であり、意味とか価値という人間の思いの産物は必要無くなるということではないでしょうか? かつさんの書かれたとおり、自分で見つけた意味はあまり意味が無いということでしょう。


がくさんへ

 がくさんの正体が分かりました。がくさんの女神様は、優しそうな方ですね。また、かつさん達とBBへ行きましょう。

☆やすさんへ
「存在の事実へ帰る」…機の深信ですよね
今日の聞法会は、自分で話しながら、自己を知る・自己に出遇うことのありがたさを感じさせていただきました。
 
cake&tea忘年会、楽しかったですね。
がくさん夫婦にもお越しいただけて、法話の後、みんなでお茶を飲める時間が、とても贅沢ですね。
今年の聞法会は今日までですが、来年もよろしくお願いいたします。

本日は「五組同朋会」にてご苦労様でした。かつさんが司会を為さるとは知らず、始めに「本日は気楽に過ごせますね。」などと失礼なことを申し上げてしまいました。済みません! かつさんは毎回ご苦労されるのですね。

本日のI先生のお話を聞かせていただいて、従来「歎異抄」について懐いていた疑念が晴れたような気がしました。「よきひとのおおせをこおむりて・・・」という教えが、「就人立信」を説くのか? と疑問を感じていたのですが、これは「道有りと信ず」だけではなく「得道の人有りと信ず」が聖人において成就されたこと、それ故にこの時に「雑行を捨てて本願に帰す」と明言されているのだな、と感じました。

☆やすさんへ
同朋会が大切な時間となられたご様子。とても嬉しいです。その嬉しさを思えば、苦労なんて感じません。

「「得道の人有りと信ず」が聖人において成就されたこと、それ故にこの時に「雑行を捨てて本願に帰す」と明言されているのだな、と感じました」
まつさんの座談会での発言、I先生も喜んでおられました。「私の話を聞いて、自分のいただきを話してくださった」と。
まつさんのいただきに、私も目からウロコです。
生涯聞法の醍醐味です。
 
12月は、ずっと予定が詰まっていて、寺には寝に帰るような生活を送っていました。ブログも滞り、コメントのお返しも遅くなって申し訳ありません。
やっと予定も落ち着いて、事務整理をしています。そして今日から、秋田へ行ってきます。

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