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2008年12月

2008年12月29日 (月)

掌の陽ざし

12月26日に「感動を探して生きる」という文章を書きました。
四季の移り変わり、こころの変化に感動を覚えるというコメントやメールをいただきました。ありがとうございます。
私も、四季の移り変わりは綺麗だなぁと感じます。「感動を探して生きる」を書いているときも、そのように変化するいのちに感動を見出すという意識で文章を書いていました。

文章を書いて後、こんなことを感じました。
探さなくても感動はいつも私の周りにあるんじゃないか。
移り変わるものだけでなく、毎日の同じような繰り返しの中にも感動はあるんじゃないか。
って。
 
朝起きて、
いや、朝起きたこと自体感動かも。夜寝て、起きることがなければ、「朝起きて」という行動もないわけですから。
朝起きて、ふと手を見る。そこに感動はありませんか?
「おはよう」と交わす挨拶。
食卓に並ぶ朝ごはん。
寒さを防いでくれる服に身を包み、部屋を暖かくしてくれる暖房にホッとする。
 
生活環境は人さまざまですから、いろいろな日常があるわけですが、毎日毎日の同じことの繰り返しの中に、感動はあるんだと思う。
毎日毎日の同じことの繰り返し…それが退屈ですか? 同じことが続いていくことって、実は変わることよりも貴重なことなのかもしれない。
同じことといいつつ、実は同じことの繰り返しのようでいて、ちょっとずつ変化している。面白いなぁ。
 
 掌にうける
  早春の
   陽ざしほどの生甲斐でも
 ひとは生きられる
      
         伊藤桂一(詩人)

2008年12月27日 (土)

つながりを紡ぐ

12月12日(金)
社会福祉法人「日本点字図書館」をサポートする「コミュニティ21」主催のチャリティコンサートが開催されました。
出演はブルースシンガーのRio(リオ)さん。
会場は、文京区本郷にある求道会館。
当日、私は受付係としてお手伝いさせていただきました。
  
残念ながら、受付は会場の外だったので、コンサートの様子は一切見られません(聞けません)でした。
12月とはいえ、幸いそんなに寒くもなく、会場の外で、かすかに聞こえるRioさんの歌声に耳を傾けていました。
耳の底に残っているのは、「つながってる~ つながってる~♪」というフレーズ。
あぁ、Rioさんは人と人とのつながりを大切にしている人なんだぁって、星空を眺め、ホットコーヒーを飲みながら感じていました。
コンサートはやっぱライヴでしょ。肌でメッセージを感じられなかったのが残念です。
 
さて打ち上げ懇親会。
懇親会の司会者が、懇親会場にいる何人かを当てて一言感想のコーナー。
「俺はずっと会場の外にいて、コンサートの状況が分からないから、当てないでね」と、司会に言っておいたのに、「次は、寒い中ずっと受付をしてくれてた かっちゃん!!」
(「げ、当てやがった」) 
 
会場の外にいたのでライヴの場にいなかったことをことわったうえで、「“つながり”は、教えられてメッセージにすることはできないと思います。“つながり”を詩にされているということは、自分の内側からの叫び声だと感じました」と、感想を述べました。
そうしたらRioさんがマイクを取って、お話してくださいました。
  
 
「つながり」が大切だって言う人はたくさんいます。でもね、私は、「つながりを紡いでいくこと」が大切だと思っています。
私は、初めて会う人には、その人の凄いところ、素晴らしいところを感じ取ろうと思って、お話します。そうすると、自分にはないものを他人(ひと)は持っているもので、いろいろなことを感じることが出来ます。そうやって新たに感じたことがあったら、他の人にそれを伝えていけるし、自分も教えてもらえる。つながりが広がっていきます。
私は、そうやって つながりを紡いでいくことを大事にしています。

  
  
「つながり」っていうだけでは、そこに動きはない。 
「つながりを紡いでいく」という意思があって初めて、「つながり」が生まれてくる。 
「いのちは大切」というフレーズにしても、そう訴える人はたくさんいるけれど、それが反映されないのは、訴えに意思・動きがないからなのかもしれない。自分なりに、「いのちを○○していきます」というメッセージを込めて初めて、「いのちの大切さ」について考えることにつながるのだと思います。 
   
「つながりを紡いでいく」 
感動したことばです。ブログに書こうと思いつつ、こんなに日が経ってしまいました。自分の中に意思・動きがなかったですね。 
コミュニティ21幹事の本多住職は、2日後にはメッセージを発していました。感じるものがあったんだなぁっていうのが、強く伝わってきます。ぜひお読みください

2008年12月26日 (金)

感動を探して生きる

12月2日(火)
教区HP「くらしにじぃーん」の取材で、あるご住職にお会いしてきました。教区HPに載せる前に、このブログで詳しく書くわけにはいきませんが、印象に残ったことを少々…。
 
昨日、当寺仏教青年会「白骨の会」について書きました。私は、縁あって仏教青年会を立ち上げることが出来ましたが、「なにかしら会を作りたいけれど、なかなかできなくて」と言う方もいます。
お寺としてなにかやりたいけど…というところで立ち止まっている僧侶について、「感動を探す努力を怠っているような気がします」と仰っていました。何でもいいのです。本でも映画でもテレビでも、自分が感動できるものがあれば、それって誰かと共有したくなるもの。日々感動を探しながら生きていれば、それを誰かに話したい、それを誰かと共有したい、誰かの話を聞きたい、と思うものです。そうすれば、自然と場は作られていくもの。「会を作りたい、作らなければ」と気負う必要もないのです。気負うと、疲れちゃうし、続かないですものね。
 
感動というと、なにかたいそうなものに心動かされることのように思ってしまいます。つまり、そんなにしょっちゅう感動することもないぞ、と。
でも、感動を探して生きているのと、なにも考えずに暮らしているのとでは、たとえ同じものを見ても(聞いても)、反応が違うと思うのです。なにかしらの驚きがあるか、なにも感じないか。
「つまらない」と言って生きていると、本当につまらない人生になってしまいそうです。
感動を探して生きる。その生き方自体、感動的です。
 
取材でお話させていただいて、とても楽貴重な時間を過ごさせていただきました。興奮の波に乗って、帰宅後、2時間の取材を文章に起こしてしまいました。
まだどのような形でHP上にアップするかは決まっていませんが、どうぞお楽しみに。

2008年12月25日 (木)

チルチルミチル

どうも、ご無沙汰しています。忙しくはしていましたが、元気にしております。ご心配をおかけしました。
ブログに書きたいことはたくさんあったのですが、目の前の仕事に押し流され、落ち着いてパソコンの前に座る時間もなかったので、更新も滞ってしまいました。
今更ではありますが、今月の出来事を書いていきたいと思います。

   

12月6日(土) 白骨の会(西蓮寺仏教青年会)
「救いとは何か」について、みんなでお話しました。べつにテーマ設定したわけではないのですが、そういう話になりました。
「救い」について話していて、「浄土」も話題になりました。
たまたま12月号の寺報で「浄土とは、今生きているこの世界」ということを書いていたので、そのことも話題に上ったのですが、参加者のひとりが一言。

「救いとはなにか」って考えなくてもいい状況が、救われている状態なのかもね。「浄土」も、「浄土とはなにか」って考えなくてもいい状況が「浄土」なんだと思う。 
 
そうですね。つい頭でゴチャゴチャ考えてしまうけれど、そういうことを考える必要がないことが、なによりも救われていることなのかもしれませんね。
 
親鸞聖人は晩年、「浄土」と言わなくなった、「自然(じねん)」と表現されるようになった。とも教えていただきました。
「自然(じねん)」とは、「自ずから然(しか)らしむ」、つまり「私の思いを超えて、そのようになっている」ということ。なにがそのようになっているのか。阿弥陀如来の救いの中に、既にいるということです。「救われたい」「救われるために修行しよう」という行者の想いを超えて、すでに阿弥陀の救いが私に届いていたんだなぁという、親鸞聖人感動のことばだと思います。
「浄土」とは言わずに「自然」と表現されるようになった。求めるものではなく、すでにあるものだったという自覚のことばなんだなぁ。
 
「自然(じねん)」ということばが出てきて、そこに絡めてカール・ゴッチ(プロレスラー)のことばも教えていただきました。
「自然(しぜん)界の動物は、体を鍛えない」
そのことばを聞いて、個人的にはかなり感動しました。
人間は体を鍛えようと励むけれど、自然界の動物はわざわざ体を鍛えません。鍛えようと決意するまでもなく、自然(しぜん)界で生きていくための体に自然(じねん)に成長しているのですから。人間だって、本来鍛えようとまではする必要のない肉体が具わっているのだと思う。それなのに、「鍛えたい」「強くなるために鍛えよう」と励むのです。すでに肉体をいただいている事実を忘れて。
 
思うのです。既にいただきものをしているのに、そのことに気づかずに、見当違いなさがしものをしているんじゃないかなぁって。
今月の白骨は、そういうことを教えていただきました。 

今年最後の「白骨の会」 話が落ち着いたところで忘年会を開きました。時の経つのも忘れて、楽しい時間でした。
 
《白骨の会 2008》
 1月 お寺でフリートーク
 2月 舞台鑑賞会(寺の都合で休会)
 3月 お寺でフリートーク
 4月 9条ピースウォーク参加
    (お仲間のお寺の仏青「髑髏会」と合同で。白骨と髑髏って
 5月 教区同朋大会
 6月 お寺でフリートーク
 7月 アールブリュット展鑑賞
 8月 お寺でフリートーク
 9月 お寺でフリートーク
10月 お寺でフリートーク
11月 スリランカ展鑑賞
12月 お寺でフリートーク&忘年会
 
毎月お寺でフリートークよりも、いろいろなところに出かけて、そうして感じたことを語り合えたらいいなって思っています。
今年白骨の会にご参加くださったみなさん。ありがとうございます。
来年も、いろいろなところに出かけて、お寺でいろいろなことをお話しましょう。
白骨の会に興味をもたれました方、ご参加お待ちしています。
来年もよろしくお願いいたします。
ちなみに、新年1月の会は、まだ開催日未定です。

2008年12月 8日 (月)

そういう考え方もあるんだなぁって気持ちでお読みください

西蓮寺寺報(ペーパーメディア)「ことば こころのはな」11月号に、喪中ハガキについて思うところを書きました。
非難を受けること承知で書いたのですが、思いのほか「私もそう思っていたんです」「もやもやが晴れました」「同じことを考えていました」という反響をたくさんいただきました。
「喪中につき新年のご挨拶をしつれいいたします」ハガキを出されている方もいらっしゃいますが、あぁそういう考え方もあるんだなぁって気持ちで、11月号に掲載した文章をお読みください。
 
     
   
早いもので11月ですね。今年もあと2ヵ月です。年賀状の発売予約の広告を見たとき、あぁもうそんな季節かと感じました。
年賀状は友人の近況を知ることができ、何年も会ってない人とも、年賀状では会うことができるので楽しみにしています。元旦に届くように年賀状を出してくれる友人には申し訳ないのですが、私はここ数年、元日に年賀状を書いています。大晦日に一年を振り返って思ったことや、年明けに感じた想いを書き綴っています。
さて、年賀状といえば、年内に身内が亡くなられると喪中ハガキを出します。「喪中につき、年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」と。
個人的には、この喪中ハガキにとても疑問を持っています。どうして喪中だと年末年始の挨拶を遠慮するのでしょう。おめでたくないから? しかし、「明けましておめでとうございます」という挨拶は、年が明けて、新たな歩みを踏み出す自身への掛け声だと思いますし、今年もよろしくお願いしますという想いを込めたことばです。挨拶を遠慮する必要はないのではないでしょうか。
 
喪中だから、おめでたいことは避けてということなのでしょうが、喪中とは、そもそもどういうことなのでしょう。
「喪中」とは、近親者の逝去に伴い、喪に服して慎ましく生活する期間です。その「期間」は、親の場合は一年など、自分と関係の近い人が亡くなるほど長くなります。
「喪中」に似たことばで「忌中」ということばがあります。祝いごとを慎む期間ですが、「忌中」の背景には、人の死を穢れとしてみてきた歴史があります。身内から死者を出した家には穢れがつく。その穢れが無くなるまで家に籠っていなければならなかったのです。
(「喪中」と「忌中」の違いはもっとあるのでしょうが、今回はこの程度の説明とさせていただきます)
さて、「喪中」「忌中」は、慎ましい生活を送る期間ということで、いろいろな制約に縛られます。新年の挨拶を遠慮する。喪中・忌中に結婚式・披露宴は開かない、参加しない。地域の祭りに参加しない。食事の制限をする、等々。
実際に喪に服す、家に籠る生活を送っている方はいらっしゃらないと思います。家に籠っていては、生活が成り立たないのですから。もっと長かった期間が、人間の都合によって短縮化されてきた歴史があります。つまり、「喪中」「忌中」の生活といっても、生者の都合なのです。
亡き人を偲んで、慎ましく過ごしておられる方はいらっしゃると思いますが、一般常識だからという理由で「喪中」「忌中」の制約に縛られている方は、少し気持ちを楽にして欲しいと思います。
僧侶仲間で、祖父母や両親を亡くされても年賀状をくださる方がいます。年賀状に、亡くなられた方との思い出を綴ってくださるのです。
亡き人のおかげで私がいる。亡き人は、いのちの尊厳を、自身の身をもって教えてくれた。亡き人と、本当に私は向き合っていたのだろうか、等々。
大切な人との別れを通して湧き出てくる感情を正直に書いてくださり、亡き人だけでなく、その人自身の生きる姿を感じさせていただきました。
死は、別れを意味します。しかし、死から何かを感じ、学び、こころに刻み込むことがあったならば、死は、新たな出会いを意味します。
大切な人との別れを縁にして、何かを感じ、学び、こころに刻み込んだことはありませんか? もしそういうことがあったならば、その想いを誰かに伝えてみてはいかがでしょうか(年賀状に限りませんが)。
習慣・一般常識だからという理由で喪中ハガキを出すのは、もったいない気がするのです。年賀状は、新年の挨拶や近況報告であると共に、自分のこころの動きを表現する場だと思うのです。
喪中ハガキを出すにしても、ちょっと振り返って欲しいのです。亡き人との縁を。別れを経て湧いてきた感情を。
たしかに、これだけ喪中ハガキが浸透してしまうと、喪中なのに年賀状を出したことに対する非難も想像できるわけですが…。
西蓮寺では、家族の誰かが亡くなっても、年賀状は出そうねと話しています。寺の誰かが亡くなっても、次の年には年賀状が届きますので、驚かないでくださいね。         西蓮寺副住職

2008年12月 2日 (火)

2008年12月のことば

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  えらばず きらわず みすてず
              竹中智秀
 
竹中智秀先生(1932~2006)は、阿弥陀如来の本願を「えらばず きらわず みすてず」ということばで教えてくださいました。衆生を、えらぶことなく、きらうことなく、みすてることなく救うという誓いです。
 
経典には、様々な形で浄土が描かれています。浄土のお話を聞いたときに、感動した話があります。
「浄土」とは、今、私たちが住んでいる世界だという話です。今、私たちが住んでいるこの世界が、この世界のままで浄土となるのです。
たとえば、自分が欲するものが足りないと愚痴を言うけれど、「ある」だけでも有り難いことです。数少ない食料・衣類を、足りない足りないと愚痴り続けるのか、足りなくても人に譲れるのか。
今の世界となにも変わらないけれど、「足りない」と愚痴るのか、「どうぞ」と譲り合えるのか。それだけのことで、今の世界が、地獄にもなるし、浄土にも成り得るのです。
「浄土」とは、死んでから往く世界でも、どこか遠くにある理想郷でも、お経の中だけの物語でもありません。「今」なのです。
そのおしえを聞いたとき、「えらび きらい みすてる」自分の姿を感じました。阿弥陀如来の浄土に生まれることが約束されているのに、自ら抜け出そうとしているようなものです。
 
阿弥陀如来は、生きとし生けるものすべてを救いたいと願い、「南無阿弥陀仏と念仏申す衆生を救おう」と誓いを立てられます。
さて、生きとし生けるものを救いたいと願いながら念仏申す衆生を救うとは、矛盾しているようにも、対象を限定しているようにも受け取られます。念仏申した衆生は浄土へ生まれることが約束され、念仏申さぬ衆生は救われないのか、と。
念仏申す衆生が生まれる「浄土」が「今」であるならば、私はすでに阿弥陀如来の浄土に生まれていると言えるのではないでしょうか。そう、すでに阿弥陀如来のすくいが、私の身に成就しているのです。
人として生まれ育ってきた私。いつのまにか、人として生まれたことが当たり前のことになってしまっています。なんの感慨も感動も感謝もないことでしょう。
阿弥陀如来の浄土であるこの地に、人としていのちをいただいた。私が今ここにいるということは、阿弥陀如来の願を受け、その願いが成就したからなのです。
「南無阿弥陀仏」と称える者のみを救おうと願われたのではない。すでに南無阿弥陀仏と称えていたから、生きとし生けるもの すべてが いのちをいただいている。
前世でお念仏称えていたからなどと言っているのではありません。すでに誰もが、阿弥陀如来のすくいの中を生きているということです。
阿弥陀如来が「念仏申す衆生を救おう」と誓われた。矛盾でも限定でもない。生きとし生けるものすべてが、念仏申す衆生であったということです。
 
竹中先生は、阿弥陀如来の本願、「えらばず きらわず みすてず」に触れた者は、「はじめに尊敬あり」の生活をしていくんだということを教えられました。この現実世界の中で、目の前にいる人、隣にいる人を尊敬することから生活ははじまるんですよ、と。
その教えをいただくと、自分の生き方が、人を選び、人を嫌い、人を見捨てていることを痛切に感じます。
そのような生き方しかできない私に竹中先生は「だからこそ」と言われます。厳しい現実の生活の中で、尊敬する気持ちなど芽生えない。仕方がないと諦めてしまうのではなく、「だからこそ」もう一歩踏み込んでほしい、と願われます。
「えらばず きらわず みすてず」、「はじめに尊敬あり」という生活に、浄土が開かれてきます。
「えらばず きらわず みすてず」の阿弥陀如来の慈悲に包まれ生きている私が、その温もりを知らないはずはありません。
  
  
竹中智秀先生は、京都にあります大谷専修学院の院長を長年務めてこられました。
ご紹介しましたとおり、弥陀の本願を「えらばず きらわず みすてず」という簡潔なことばで、しかし力強くお教えくださいました。私は学院には行ってないので、残念ながら先生のおしえを直にいただくご縁がありませんでした。
今回、ことばを掲示するに当たり、何人かの学院卒業生に話を聞いたところ、「竹中先生が教えてくださったことばだよ」と、口をそろえたように、楽しそうに話してくれました。先生に直接お会いしたこともない私ですが、お人柄が伝わってきました。
 
   
 
西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
12月の人形は、木馬に乗ったサンタさんです(お寺なのになんで?なんて言わないでくださいね)。千歳烏山駅近くにある木のオモチャのお店「MUKU」で購入しました。かわいい木のオモチャがたくさんあります。お店の前を通るたびに、木のぬくもりを感じます。
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(事件は突然に)
12月1日、掲示板のことばを貼り替え、人形を置き換えました。
今日は暖かかったですね。暖かい日が射す昼過ぎ、掲示板をのぞいてビックリです。
上の写真で、サンタさんの両脇に置いてあるツリー(ロウソクでできています)が、トロトロにとけていたのです。
急いで人形を取り出し、掲示板の台をふきふき、人形についたロウをふきふき(というより削り取りました)。
昨年の12月にも同じロウツリーを飾っていたのですが、一ヶ月何事もありませんでした。それなのに、昨日半日でとけてしまうなんて…。
きれいになったところで、サンタさんだけを置いたら、なんとも淋しかったので、昨年の12月に飾ったネコとトリの人形を一緒に飾りました。とても賑やかになりました
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