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2008年11月

2008年11月29日 (土)

恩徳讃(おんどくさん)

11月28日は親鸞聖人のご命日
京都のご本山では御満座が勤まりました。
  
真宗の法座では、「恩徳讃」 (親鸞聖人「正像末和讃」より)を唱和します。
 如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし
   
   

「恩徳讃」は、よく勘違いされるのです。
「如来大悲の恩徳には、身を粉にしても報ずるべきである。師主知識の恩徳にも、骨を砕くまでも謝すべきである」と、親鸞聖人はおっしゃられています、って。
「べき」を「命令」の助動詞と思い込んでの勘違いなのでしょうが、そのために「恩徳讃」のこころが伝わらなくなってしまいます。
勘違いのせいで、「親鸞聖人は偉そうな言い方をする人だ」「どうして信じてもいない如来に報じなければいけないのか」「身を粉にするほど、骨を砕くほどに恩を感じなければいけないのか」なんて声も聞こえてきます。

   

私は、このようにいただいています。
「身を粉にしても」「骨をくだきても」というのは、苦悩を抱えながらも生きている私たちの姿だと思います。
苦悩を抱える私たちが、親鸞聖人の教えに出遇い、教えに聞いていく人生が、「報ずる」「謝す」ことだと思うのです。
つまり、教えに出遇い、人生を歩んでいる私たちは、すでに如来大悲の恩徳に、身を粉にしながら報じているのです。師主知識の恩徳に、骨をくだきながらも謝しているのです。
 
聖人の「教え」は、苦悩の解決のためのものではありません。この身を生きることができるのは、他の誰でもない、この私。その自覚に生きてほしいという「願い」なのです。
苦悩を抱えながらも生きられるのは、阿弥陀如来の恩徳・教えに生きた先人のおかげ。私に先立って、苦悩の人生を生ききった方々がいる。私も、その一人となり、後の人を導くように生きていきたい。そのように思える日が、いつかきっと、誰にでも訪れるに違いありません。
「恩徳讃」には、そのような希望・確信・感謝が込められています。
  
 
先日、ふと思ったことがあります。
掃除とかお弁当を作ることなど、日課になっていること。それを、「掃除をしなければいけない」「お弁当を作らなければいけない」と思うとつらいものです。でも、「掃除、掃除」「今日も美味しいお弁当作るぞ」って、思えるようになることって、あると思うのです(いや、やはり嫌い・苦手な方もいるでしょうから、誰もがって話ではないですけど、たとえとしてお読みください)。
真宗のおしえに出遇い『「南無阿弥陀仏」と念仏申せと言われるからしている』という人も、おしえを聞き続けることによって、自然と念仏が出てくるようになるときがくると思うのです。
信じられるようになったから念仏申すようになったのではなくて。
掃除やお弁当作りも、好きになったから、楽しくなったからするようになるのではなくて、自然と動くようになることって、あると思うのです(念仏と掃除・弁当作りを同列に語るなと言われそうですが…)。  
思ったことって言うのは、「恩徳讃」の「べし」の響きって、こういうことかなって、ある朝感じたのです

2008年11月27日 (木)

海の中に母がいる 母の中に海がある

今月1日に、掲示板のことばをアップしてから、しばらく更新していなかったので、その文章を何度も読まれた方もいるかと思います。
「人は波に似ている」という自身の気付きを表現しました。個人的世界観にドップリはまった文章だったので、伝わりずらかったかもしれませんね。でも、親鸞聖人のおしえに出遇い、今まで生きてきた私の出来うる限りの表現です。
 
「人は波に似ている」という想いと、もうひとつ、いや、もっと表現したかったことがあります。
前回アップした文章は「悪人正機」についてでした。
このふたつの文章は、呼応しています。
 
「善人でさえも往生できるのだから、悪人が往生できるということは言うまでもないことです」というおしえ…この「悪人正機」のおしえについて語ると、
“悪人”がすくわれるのはおかしい
“悪人”は誰だ、どういう人だ
“悪人”でもすくわれるなら、善い行いをする必要がなくなる
“悪人”でもすくわれるなら、悪事を尽くしたほうがいいではないか
などなど、いろいろなご意見をいただきます。
 
「悪人正機」にかぎらず、「念仏申す衆生をすくう」というおしえも、
それでは簡単すぎる
どんな人間でも念仏したらすくわれるというのはおかしい
自分とあんな奴(自分の嫌いな人)が同じすくいだなんて困る
などなど、いろいろなご意見をいただきます。
 
そのような声は正直な声です。
頑張ったら頑張った分の結果が欲しい。
自分より悪い奴と自分が同じ結果を得られるなんて納得できない。
そのように想うのが普通に出てくる想いです。

でも、哀しいのです。
せっかくおしえをいただくご縁に出遇えたのに、おしえを聞いて、この私自身が人を、生きとし生けるものを差別しているのですから。
おしえをいただいて、「善はこういう人だ、悪はこういう奴だ」「こういうものはすくわれて、こういうものはすくわれない」と、自分のものさしで図ってしまう。ものさしに合わない奴はどんどん排除。
 
すくわれるのは、生きとし生けるものすべて
そこは絶対に動かせないのです。
もし、頑張った結果ですくいの結果が変わるのなら、それは、私たちが苦しんでいる世界となんら変わりありません。
善だとか悪だとか、すくわれるものだとかすくわれないものだとか分け隔てするけれど(自分を良い方に置くけれど)、私自身が善でもあり悪でもある。すくわれないほどのものであるのに、すくわれる。
人間の理知で考えたらすくわれるはずのないものがすくわれる。だからこそ、すくいのはたらきを「不思議」と表現されてきた(ビックリ驚くという意味での「不思議」ではありません。人間の理知を超えているという意味です)。
 
 
「人は波に似ている」
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」   
呼応しているといったのは、生きとし生けるものは、すべて母なる海から生まれ、海に帰るものであるということを感じたから。
海から波として生まれたいのちが、またもとの海にかえっていく。誰もがみな。
そのようないのちが、今、たまたま私として表出している。

2008年11月24日 (月)

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

 善人なおもて往生をとぐ
  いわんや悪人をや
        
          親鸞聖人
 
「善人でさえも往生できるのだから、悪人が往生できるということは言うまでもないことです」
 
人は、自分を「善」と思ってしまいます。
言い合い・喧嘩・戦争は、善と悪との戦いではありません。善と善との戦いです。「私の方が正しい」という主張のぶつかり合いです。お互いに自己の正当性を主張して譲らない。自己の正当性、つまり(自分にとっては)善。自分を善に置いています。その善と善とがぶつかり合い戦うのです。
 
仮に、100%あなたが言っていることが正しいとしましょう。あなたの主張を相手にぶつける。あなたが正しければ正しいほど、その主張をぶつけられた方は逃げ場を失います。そうすると、余計にあなたに反抗するか、自分を傷つけるしか道がなくなってしまいます。あなたがどんなに正しくても、あなたが正しければ正しいほど、相手を傷つけるものです。そのことを知っていて欲しい。
 
言い合い・喧嘩・戦争とは対極の、仲良しということを考えてみても、共通の敵がいるからこそ表向きの仲良しを演じられるということもあります。また、仲良しどうしが集まると、必然的に仲間外れを生み出すという現実もあります。
 
「善」って、善いことのように思ってしまうけれど、「善」の背景には、相手を傷つける闇が潜んでいます。
「悪」って、悪いことのように思ってしまうけれど、「相手を傷つけている私」だということを知っていることを意味します。
 
「悪」とは、ルールを破ったり、人のものを盗んだり、人を傷つけたり、人を殺してしまうことを意味するのではありません。
私はルールを守っている、人のものを盗んだことなんかない、人を傷つけたことなんかない、人を殺すなんてするはずがない。そう思っている人はたくさんいることでしょう。
 
けれど・・・
本当に全てのルールを守っていると言い切れますか? そのルール(約束事や法律など)も、一部の関係性の中で作られたもの。ルールを守るということは、その関係性から外れている人々を苦しめているのかもしれない。
 
あなたがそこにいるという事実は、そこにいられない誰かがいるという事実を含んでいます。たとえ物は盗んでいなくても、その人の居場所を奪っているかもしれない。
 
誰も傷つけていないつもりかもしれないけれど、あなたのことを想って悲しみ(慈悲)の涙を流してくれている人がいるものです。私のためにこころ痛めてくれている人がいる。その事実に気付けない私は、その人の想いを傷つけているのではないでしょうか。
 
「あいつさえいなければ」「あいつが邪魔だ」「あいつが鬱陶しい」と、誰かを否定するようなことを考えたことはありませんか? ということは、その人の存在を認めていないということです。つまり、想いの中で人を殺めているのです。行為としては殺していなくても、想いの中で、知らないうちに人を殺めているものです。
 
これだけ書き連ねると、ちょっとつらいですね。
でも、人が人として生まれ、人として生きていくということは、このような事実があるのです。あなたは、その事実を知らずに「善」として生きますか? それとも、そのような私であるという「悪」の自覚を持って生きますか?
いつまでも「自分は善いことをしている、人に迷惑をかけていない、人を苦しめていない」と思い込み続けながら、これからの人生を歩んでいきますか? それとも、迷惑をかけながら生きている事実を胸に、人生を歩んでいきますか?
 
だからと言って、「善」を捨て、「悪」の自覚を持つ人になりましょうというのではありません。私たちの本質はいつまでも「善」なのですから。「悪」の自覚を持ったと喜んでいるそのことが「善」に陥るのです。私は「悪」の自覚を持った。他の人はまだ「善」だ、と。
 
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
・・・善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない・・・つまり、生きとし生けるものすべてが救われるということ。
このおことばは、救われるためにどうあるべきかを説かれたおことばではなくて、人間の本質に気付いて欲しいという親鸞聖人の、阿弥陀如来(真宗のご本尊)の願いだと思うのです。
 
私が生きているということは、いや、亡くなってからも他人(ひと)に迷惑をかけるもの。それはごまかしきれない事実。でも、その事実に目を向けないで、周りの人々を悲しませるだけ悲しませながら生きますか? その事実の哀しみを抱えながら生きていきますか?
親鸞聖人のメッセージは、亡くなって後の救いを説いているのではなく、今生きている私の在り方を問うています。
 
     
 
真宗教団連合が出しているカレンダーがあります。
月めくりのカレンダーなのですが、毎月法語がついています。10月の法語が、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」でした。
西蓮寺では掲示板にこのカレンダーを貼っているのですが、客観的にカレンダーを眺めていて、説明文のようなものが欲しいなと感じました。で、書いたのが上記の文章です。
文章をプリントアウトして、カレンダーと並べて貼っていました。
 
ある朝、通りすがりの方に声をかけられました。「この文章が気に入ったので、プリントしたものをいただけませんか?」って。
配布するつもりがなかったので、プリントしてませんでした。少しお待ちいただいて、パソコンを立ち上げてプリントして差し上げました。
10分ほどお待たせしてしまったでしょうか。「お待たせしてすみません」と言ったら、
「いえいえ。楽しいことって、待っていても楽しいものですね。お手を煩わせてしまい、申し訳ありません。ありがとうございます」というお返事。
「こちらこそ ありがとうございます」
しばらくお話して、笑顔でお別れしました。
 
「楽しいことって、待っていても楽しいものですね」
素敵なことばをちょうだいいたしました。ありがとうございます。
説明文を書いてよかったです。

2008年11月22日 (土)

明日の神話


 
今日は3つ用事があり、いそいそと渋谷駅を通りかかりました。
たくさんの人が一点を見つめて、携帯で写真を撮っています。
「なんだ?」と思ってみんなが見ている方を見ると、岡本太郎さんの「明日の神話」が設置されていました。
ウッカリ忘れていました。
足を止めて、しばらく鑑賞させていただきました。
あぁ、すばらしいです。なんてパワフルなんでしょう。
個人的には、設置立候補地のひとつだった広島が設置にふさわしいかなと思っていたのですが、目の前で作品を見てしまうと、直に見られて幸せだなぁと感激いたしました(なかなか直に見られない方には申し訳ないことですが)。
今度は、もっとゆっくり拝見させていただきます。
 
http://www.1101.com/asunoshinwa/news.html

2008年11月20日 (木)

親知らず

口内左上の奥に違和感があったので、歯医者さんに診てもらったら、親知らずが出ていて虫歯になっているとのことでした。
本当は今すぐ抜いたほうがいいんだけど、抜きましょうと言うとショックを与えてしまうかなぁ。あまりショックを与えないように情況・方針を伝えないといけないなぁ~という雰囲気で説明してくださる先生に、私から「抜きましょう」と言ってみました。
「えっ、いいですか!!」と、先生の方が驚いていました。
詳しい説明をしなければいけないけれど、あまりストレートに言えないこともあり、婉曲に言わざるをえない場合もある。そうすると、本当に伝えたいことがぼやけてしまう。お医者さんは大変だなぁ、余計なところに気を使っていて…と、思いました。
それが月曜日の話。「明日温泉に行くんですけど、大丈夫ですか?」と尋ねると、「腫れがでるといけないので、温泉から帰られてからにしましょう」というお応え。

で、今日「親知らず」を抜いてきました。
消毒して、麻酔して…、準備をしているのかなと思ったら、ガキガキッって音が。一連の動作の中で、いとも簡単に歯を抜いてくださいました。
起き上がると、私の一部が横たわっていました。
「中が虫歯になっていて、もうボロボロでしたね」と、先生は私の歯を使いながら説明してくださいました。
ありがとうございます。
虫歯のない私にとって、何十年ぶりの歯医者さんでした(歯のクリーニングで歯医者さんに行ったことはあったけど)。
  
で、なんで「親知らず」って言うのかな?って考えていました。調べてみたら、
○「親知らず」が生えてくるのは成人してからなので、その頃に子どもの口の中を観察する親はいないわけで、「親知らず」が生えてきても、そのことを知らないわけです。だから「親知らず」という説。
○「親知らず」が生えてくるのは成人して親元を離れた頃なので、親は子の「親知らず」が生えてきたことを知らないからという説。
○現代ほど平均寿命が長くない昔、親が亡くなるような年頃に「親知らず」が生えてくるので、親はそのことを知りえないからという説。
○「親知らず」の歯に対応する乳歯(永久歯にとって「親」と位置づけられる歯)がないからという説。
が、あるそうです。ことばの由来って、調べると面白いですね。
 
(おまけ) 
今日はボージョレーヌーボーの解禁日だそうですね。
毎年解禁日に持ってきてくださる方がいて、今年もちょうだいいたしました。
残念ながら今日は飲酒を控えてくださいと言われたので、明日いただきます。
ありがとうございます

2008年11月19日 (水)

箱根

最近あまりに忙しかったので、昨日今日と時間を作って箱根に行ってきました。
昨日のブログは、につかりながら想ったことを書きました。露天風呂につかりながら周りの木々を眺めていたら、「無理をしないこと」が肝心だなぁと実感しました。
それから、「時間がない」というけれど、時間は作るものだなぁと思いました。
 
箱根の紅葉はきれいでした。
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芦ノ湖畔にある成川美術館に行って来ました。
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今日は風が強く、冷たかったです。ロープーウェイに乗ろうと思っていたのですが、運休中でした。
休みを作ってホッとできたのはよかったのですが、風の冷たさにあたって風邪をひいたようになってしまいました。休みをとると、たいてい体を壊します。そこまで気を抜かなければいいんですけど…。
帰りにサービスエリアで温かいものを食べたら回復しました。
さぁ、また元の日常だ

2008年11月18日 (火)

竹のように 枝のように

こころ静かな状態って、日常の生活でなかなかなれない。
自分をガッチリ構えているからだろうか。

竹が風を受け、風に身をまかせて しなるように、やわらかなこころで 物事を受けられたら。

人が感じないほどの風にも、枝葉はカサカサと揺れる。
気をつけているようでも、人は他人(ひと)のこころに鈍感なものです。

自分をしっかり持つということは大事なことなのかもしれない。
しかし、あまり余裕がないと、強い風が吹くとポキッと折れてしまう。
あまりに自分を押し出してばかりいると、他人を傷つけてしまう。

竹のようにしなやかに
枝のように繊細に

2008年11月17日 (月)

忘れない

今、真宗寺院では報恩講シーズンです。
親鸞聖人のご法要に際し、僧侶は自坊での報恩講だけでなく、お仲間のお寺へもお参りさせていただきます。
私は自坊の他に、5ヵ寺お勤めさせていただいていますが、昨日、すべて終えました。
 
最近ブログの更新がなくて、心配をおかけしているようで申し訳ありません。
報恩講をお勤めしていて、勤め合いが終わるまで間を置いておこうと思ったのです。
ブログでも何回か触れましたが、お世話になっていたご住職が、今年1月26日にお亡くなりになりました。
今年の1月のことです。ということは、昨年の報恩講シーズンにはいらっしゃたわけです。
 
お互いに勤め合いをしているので、この時期は頻繁に顔を合わせます。
でも、今年はいつもいた人がいない…実際にその感覚を味わうと、無性に淋しいものです。
 
毎年初めにお参りさせていただくのは、そのご住職のお寺です。
ご住職がなくなり、坊守様とお子さんたちが一生懸命お寺をまもっています。
余計なことをしてはいけないと思いつつも、報恩講前日に準備のお手伝いに。でも、立派に荘厳(本堂のお飾り)されていました。副住職がこれでいいんですか?って持ってきた荘厳の本には、書き込みがビッシリ。ちゃんと勉強されています。
ご住職、息子さんはキチンと次の歩みを進めていらっしゃいます。
次の日、副住職にすべてお任せしながら、今シーズン最初の報恩講をお勤めさせていただきました。
 
西蓮寺の報恩講の2日前に、近所のお寺さんで報恩講が勤まります。
ご住職はいつもうちに車を停めていかれたので、報恩講が終わって、一緒に西蓮寺まで戻ってきます。
今年の帰り道、いつも隣を歩いてくれていた体の大きなご住職がいません。静かな、暮れ初めの細道を、ひとり帰ってきました。
はじめから何もなかったのなら、淋しさも感じないだろう。けれど、温もりを知ってしまうと、こんなにも物足りない感じなのですね。かといって、何もないことの方がいいのだろうか。いや、その人に出会えて感じた温もりも淋しさも、その人からの贈り物。すべてを、いただかなければいけないのです。
 
西蓮寺報恩講
外陣正面に座って、キン役を勤めます。内陣を見渡すと、やっぱりいない大きなご住職。体だけじゃなくて、存在感も大きかったんだなぁ。
親鸞聖人のご法要ですが、それは同時に、聖人の教えに出会って歩まれた方々への法要でもあります。いや、その方々がいたから、法要のご縁に出会わせていただいている。
法要は、今生きている私が勤めるものではない。亡くなられた方々のおかげで、今、手を合わせるご縁をいただいている。合わさる手の中に、どれだけの人の想いが籠もっていることでしょう。
いつもと違う気持ちで、お参りさせていただきました。
 
昨日お勤めさせていただいたお寺
ご住職は昨年このお寺でのお勤めの後、検査を受けられ、入院されました。
からだの調子が悪いことは分かっていたけれど、ここを勤めるまではと頑張っておられたのだと思う。
昨年、私は一人で声を出すところで、間違えてしまった。読みながら「しまったぁ」と思っていたら、控え室に戻ってご住職から第一声「かっちゃ~ん!!」
「はい、すみません」 
結局、その法要が、ご住職との最後のお勤めになってしまいました。あぁ、間違ったのを聞いて逝かれるなんて…。
間違った私が先に逝くことだってあるわけで、そう考えると、常に最善を尽くさなければいけないなぁと、教えられたような気がします。
 
ご住職に想いがあるのは、他の住職方も同じ。
「去年の報恩講にはいたんだよなぁ」という声が何度も聞こえてきました。
人は、悔いのないように生きるということは出来ないだろうな。
どんなに濃く、真剣に、仲良く付き合っていても、これだけの付き合いをした中だから、満足だってことはない。
いや、濃く、真剣に、仲良く付き合えば付き合うほど、後悔の念は強くなるのだろう。
もっと話しておけば、もっと一緒に飲んでおけば、もっと喧嘩しておけば、なんて悔やんでもキリがない。
その人と出会えた事実を胸に、一生を生きていきたい。
この時期になると、こういう想いを繰り返すことでしょう。その度に手が合わさり、お念仏が出ます。
そういうときを、与えてくださっているのですね。ありがとうございます。

     

 人は いつ 死ぬと思う・・・?
 心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・・・・違う
 不治の病に犯された時・・・・・・違う
 猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・・・・違う!!!
  ・・・人に忘れられた時さ・・・!!!
           (漫画「ワンピース」より)

2008年11月 1日 (土)

2008年11月のことば

Pict0432
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

          三好達治
 
漢字の「海」の中には「母」があります。
フランス語では母を「Mere(メール)」と綴り、海を「Mer(メール)」と綴ります。母の中に海があるのです。
海は母であり、母は海である。私たちが生まれ、そして帰る場所があるという温かさを感じる詩です。
 
最近、人は波のようだなと感じています。
人は、一人ひとりそれぞれの道を歩んでいます。しかし、だからといって何の繋がりもなく生きているかといえば、そんなことはありません。
波が、海から生じるように、人も、大いなるいのちから生じている。
波は、海から生まれ、海に帰っていく。そして、またいつか波として生まれ、海に帰っていく。その繰り返し。それぞれの波は別物かもしれないけれど、でも、やはり同じ波だ。そこには、悠久の時間の中を漂う、ひとつのいのちを感じます。
 
人の不幸なところは、時間を感じられることかもしれない。
大いなるいのちの中から私として存在し、また大いなるいのちへと帰っていく。そしてまた生まれ、また帰っていく。私として表出するいのちそのものは、常に今。今、存在する波が、過去の波であった頃と比較するだろうか。今、存在する波が、次の波を夢見て存在するだろうか。それなのに私は、過去に惑い、今を見失い、未来を夢見る。
いのちを、時間という概念で切り刻んでいる。
 
人の不幸な面は、個々を分別してしまうことかもしれない。
自分の出生の流れを知るとき、父と母、そのまた父と母とたどっていく。たしかに、血の流れはそうなのかもしれない。けれど、波がそれぞれの形はしていても、ひとつの海であるように、人も、たどる必要のない、ひとつのいのちであるに違いない。
いのちを、狭い関係性の中に押し込めている。
 
海、波が押し寄せてきます。
静かな波・小さい波・大きい波…さまざまな形、大きさ、勢いがあります。
足元をくすぐる海の揺れもあれば、人や街を飲み込む波もあります。
波の形、大きさ、勢いはさまざまだけど、しかし、海から生じ海へと帰る、その運動の中から生じた波だから、どの波もおなじ。足元をくすぐる波が楽しい思い出で、人を飲み込む波が脅威なのではない。
だれもが同じ海という母からいのちをいただいている。いのちが私となり、たくさんのいのちがそれぞれに形を持って表われるけれど、元はひとつ。

念仏申す衆生をすくいたいという阿弥陀如来の願い。
念仏申した者のみをすくうのではない。南無阿弥陀仏と念仏申すご縁をいただいた者がいるということは、誰もが念仏申す衆生。
 
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人でさえも阿弥陀の浄土へ生まれることができます。まして、悪人が生まれることができることは、言うまでもありません)」という親鸞聖人のおしえ。
おしえをいただきながらも、善人と悪人の区別にこだわり、自身を善人とする。誰かが善人で、誰かが悪人なのではない。善人だけがすくわれるのでもないし、悪人だけがすくわれるのでもない。人は、阿弥陀のいのちから生まれ、阿弥陀のいのちへと還っていく。誰もが往生を約束された迷いの衆生。
 
いのちをいただき、親鸞聖人のおしえに出遇えた事実。海のように大きい母なるいのちから表出したわれらという感覚を生きたい。
   
   海の水面を走る波
    波が生まれ
    波が消えていく
 
   波のひとつひとつは
    バラバラだけど
   波はすべて
    ひとつの海から生まれ
    ひとつの海へと帰っていく
 
     
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。
11月の人形は、ミミズクの焼き物です。ボケと突っ込みのようです
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