恩徳讃(おんどくさん)
11月28日は親鸞聖人のご命日
京都のご本山では御満座が勤まりました。
真宗の法座では、「恩徳讃」 (親鸞聖人「正像末和讃」より)を唱和します。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
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「恩徳讃」は、よく勘違いされるのです。
「如来大悲の恩徳には、身を粉にしても報ずるべきである。師主知識の恩徳にも、骨を砕くまでも謝すべきである」と、親鸞聖人はおっしゃられています、って。
「べき」を「命令」の助動詞と思い込んでの勘違いなのでしょうが、そのために「恩徳讃」のこころが伝わらなくなってしまいます。
勘違いのせいで、「親鸞聖人は偉そうな言い方をする人だ」「どうして信じてもいない如来に報じなければいけないのか」「身を粉にするほど、骨を砕くほどに恩を感じなければいけないのか」なんて声も聞こえてきます。
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私は、このようにいただいています。
「身を粉にしても」「骨をくだきても」というのは、苦悩を抱えながらも生きている私たちの姿だと思います。
苦悩を抱える私たちが、親鸞聖人の教えに出遇い、教えに聞いていく人生が、「報ずる」「謝す」ことだと思うのです。
つまり、教えに出遇い、人生を歩んでいる私たちは、すでに如来大悲の恩徳に、身を粉にしながら報じているのです。師主知識の恩徳に、骨をくだきながらも謝しているのです。
聖人の「教え」は、苦悩の解決のためのものではありません。この身を生きることができるのは、他の誰でもない、この私。その自覚に生きてほしいという「願い」なのです。
苦悩を抱えながらも生きられるのは、阿弥陀如来の恩徳・教えに生きた先人のおかげ。私に先立って、苦悩の人生を生ききった方々がいる。私も、その一人となり、後の人を導くように生きていきたい。そのように思える日が、いつかきっと、誰にでも訪れるに違いありません。
「恩徳讃」には、そのような希望・確信・感謝が込められています。
先日、ふと思ったことがあります。
掃除とかお弁当を作ることなど、日課になっていること。それを、「掃除をしなければいけない」「お弁当を作らなければいけない」と思うとつらいものです。でも、「掃除、掃除
」「今日も美味しいお弁当作るぞ
」って、思えるようになることって、あると思うのです(いや、やはり嫌い・苦手な方もいるでしょうから、誰もがって話ではないですけど、たとえとしてお読みください)。
真宗のおしえに出遇い『「南無阿弥陀仏」と念仏申せと言われるからしている』という人も、おしえを聞き続けることによって、自然と念仏が出てくるようになるときがくると思うのです。
信じられるようになったから念仏申すようになったのではなくて。
掃除やお弁当作りも、好きになったから、楽しくなったからするようになるのではなくて、自然と動くようになることって、あると思うのです(念仏と掃除・弁当作りを同列に語るなと言われそうですが…)。
思ったことって言うのは、「恩徳讃」の「べし」の響きって、こういうことかなって、ある朝感じたのです![]()









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