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2008年10月13日 (月)

そしていや応なく死が訪れるわけで…

いや応なく人って老いていくわけで、
それで病になるわけで、
そしていや応なく死が訪れるわけで…

 (緒形拳さん 遺作ドラマ「風のガーデン」記者会見にて)
 
「苦から逃れるのではない。苦を苦のままに受け入れて生きていくのです」
親鸞聖人のおしえを受けた私は、そのようにお話し、表現しています。
諸行無常という いのちの事実を知り、受け入れ、そのうえで生きていく。
そのことが難しいことは分かっています。
苦難の只中にいる人にとって、そのことばがかえって苦しみを生むこともあるかもしれない。
 
でも、苦難(に限らず、我が身におこること)から逃れられないのも事実。
いい方向に向かうこともあるでしょう。その努力が無駄だとか、いけないと言っているのではない。
そのために、もっともっと もがくべきだと思っています。
 
あきらめや運命論ではなく、私が生きる道は一本だと思うのです。
その道を、歩んでいくしかない。他に道があるわけではない。ないはずの道を探して、自ら苦しんでいる。
「苦から逃れるのではない。苦を苦のままに受け入れて生きていく」
このことは受け入れがたいことかもしれない。
しかし、親鸞聖人のおしえを受けて、苦を苦のままに受け入れ、私の人生として生きてきた方がいることも事実。忘れてはいけない伝統がある。そうでなければ、親鸞聖人のおしえ、阿弥陀のおしえが今の私に届いているはずがない。
苦から逃れたところに安心を見つけるのではなく、苦と共に生きるところに安心がある。いや、安心(阿弥陀)があるからこそ、苦と共に生きていける。南無阿弥陀仏と手を合わせ、生き抜かれた人々がいる。その人々のおかげで、私が歩む道がある。
 
いや応なく老い、病になり、死が訪れる。
ことばにすればこれだけの事実に、迷っている。
でも、これほどの事実の只中を生きているからこそ、生きていける。
迷いの衆生という器は、阿弥陀の慈悲を受け入れるための器。
 
緒形拳さんのことばを受けて、あらためてそのようなことを教えていただきました。
(ドラマ「風のガーデン」を見ましたが、拳さん、痩せていました。身の事実を受け入れたうえで、自分が成すべきことをされていたんだなぁと感じました)
 
そのようなことを噛み締めていたら、一通の聞法会案内が届きました。前回の講師のおことばが書いてありました。

我々は救いというと、自分で思い描いている。
南無阿弥陀仏の救いはそういうものではない。人生に縦糸が決まることである。
それも自分だけのということではなく、人類の歴史を貫き、どのような人々にとっても一道を開いてくる伝統。
南無阿弥陀仏の伝統とは、「素晴らしい」と言って仰ぎ見るようなものではない。
人生を見失い、生きていることにつまづいている者が受ける伝統。
そのことによって、図らずも自分の人生が一筋の道になっていく。
私の道ではなくて、南無阿弥陀仏の道になっていく。

読んだ瞬間、手が合わさりました。南無阿弥陀仏。
 
       
 
追記
ブログを読んで、「私が大切にいただいていることばに似ています」と、教えてくださった方がいます。
ことばが生きています。感じ入りました。ありがとうございます。
私は選手たちに言う。
「しんどいことはしんどいんだ。しんどいことをなにも明るく楽しそうにごまかさなくていい。しんどい現実をしっかり受け止めて、それに向かって闘うことや。それが挑戦するということや」
水野彌一(京都大学アメリカンフットボール部監督)『一つのことに一流になれ』より

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コメント

>>>苦を苦のまま受け入れる
>>>私が生きる道は一本
>>>救いは自分の人生が一筋の道になること

 もし、悩み苦しみ、自殺寸前まで追いやられている人が、助けを求めて相談してきたとしたら、上記の理論でその人の心を癒して、自殺を食い止めることができますか?
 私の経験上これでは何の解決にもならないと思うのだが・・・・・

  ここからはあくまでも私の見解です。

 人生何があるから分からないから、どんなに理不尽な苦しみを受けても、心は動じずに冷静な判断がとれないと、“苦を苦のまま受け入れる”事にはなっていない。(苦を受け入れてるということは、今の現状に納得するということ。それはつまり、心に余裕ができて、いつでも心の底から微笑むことができる状態。ならば苦も苦で無くなるだろう。)
 どんな人にもその生涯には、一本の道があり、その道を歩いていくしかない。ということは、人生をありのままに受け入れることに相当する。
 そこには迷いもなくなっている。 

 こんなこと簡単にできるものではない。全ての人々ができることではない。まして自殺しかけている人には到底納得のいくことではないのだ。

 結局、それもできないから、南無阿弥陀仏を唱えるという方が、すっきり収まる気がします。

☆真照さんへ
理論で癒し、自殺を食い止めることはできません。
「苦を苦のまま受け入れる」
「私が生きる道は一本」
「救いは自分の人生が一筋の道になること」
…「このようにありましょう」「こういうものですよ」と言っているように受け取られてしまうのかな。
人を導くために語っているのではない。自分の歩みを通して語っているだけ。人を癒そうとして癒せるものではありません。導こうとして導けるものではありません。
スッキリおさめるためにお念仏称えるのでもありません。
いや応なく死が訪れる身でありながら、その身であるからこそ、生き切りたいのです。

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