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2008年10月26日 (日)

今のわたし

人に傷つけられたことは、なかなか忘れ得ないもの。
一生抱えることも。
でも、人を傷つけたことは、自分で気づいていないもの。
一生気づかずに生きている。
 
感情は、想いは、人と人とが縁を結び生じるもの。人と人とに限らない。生きとし生けるものが、出遇っている。
そこには、楽しいこともあれば、つらいこともある。
出会えてよかったと思えることもあれば、出会わなければよかったと思うこともある。
 
「縁に生きる」
自分にとって「よかった」と思えることは「縁がよくて」「良縁で」とうなづけるけれど、
苦しいこと、つらいこと、悲しいことを「縁によって」とはうなづけない。
 
それにしても、自身が発する感情にばかり想いが行ってしまう。
私が楽しいとき、他の誰かは楽しんでいるだろうか。
私が楽しいということは、誰かを苦しめているのかもしれない。
私がつらいとき、一緒に苦しんでくれる人がいる。
私のつらさを見て、笑っている人もいるかもしれに。
「縁を生きている」ということは、自身が発する感情だけの話では済まない。
私が誰かを恨んでも、肝心な相手は恨まれる覚えはないかもしれない。
誰かが私を恨んでも、肝心な私は恨まれる覚えもなく生きているかもしれない。
 
私が抱く恨みを消せるなら、それでいい。
でも、人が私に対して抱いている恨みまでは消せない。
誰かが私を恨んでいる。私は恨まれても仕方のないものだ。
その自覚があるだけ、「生きている」といえるのかもしれない。
私は、人に恨まれるようなことはしたことがありません。
そのセリフに恨みすら感じる。
 
自分で負の感情を無くそうとしたり、いい感情を磨き上げようとしたり、「善い行い」を私はしていますと主張する。
そういうことを書いているつもりは、まったくありません。
私がいることによって、喜んでくれる人がいれば、つらい想いをしている人もいる。喜びには悲しみが内包され、つらさには許しが内包されている。
私がいて喜んでくれる人は、私によって悲しみを味わうこともある。
つらい想いをするのは、その背景に許しがあるから。いっそ許せないのなら、つらさも生じないのに。
「縁に生きる」。おしえの一端にでも触れた者として、生きながらにして生じる想いを書いています。

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