« 落ち葉だって、いらないものではない | トップページ | 今のわたし »

2008年10月17日 (金)

憎いんだけど…ありがとう

憎い 憎い 憎い 
どんなに憎い相手でも、100%憎みきることは出来るのだろうか。
相手の優しかった頃、ちょっとした仕草、年老いた姿、
私の迷い、年とともに薄れる想い、
100%憎みきることが出来たら、どんなに楽だろう。
それが出来ないから、悩む、苦しむ
でも、そういう想いを抱えながら、私が私となる。
 
法然上人出家のご縁のお話です。
法然上人は、幼い頃に父親を敵討ちでいのちを狙われ、殺されます。
法然の父は、幼い息子に言います。「私の仇をとろうとするな。私の仇をとれば、次はお前が狙われる。うらみの連鎖はとどまらなくなってしまう」と。
幼い法然上人は比叡山にのぼり、仏道を歩みます。
 
法然上人出家のご縁…
法然上人に憎しみはないのか?
法然上人は相手を許したのか?
父の遺したことばに納得していたのか?

いろいろな疑問が生じるけれど、私は思うのです。
法然上人は憎しみを抱え続けたことでしょう。
相手を許せなかったことでしょう。
父のことばに納得もできなかったことでしょう。
でも、父のことばを胸に、常に葛藤されていた姿が思われます。
法然上人は、葛藤を抱えながら仏道を、人生を歩まれたことでしょう。
そして、憎しみを捨てきれない自分に対する怒りも持ち続けたことでしょう。
しかし、抱えきれないほどの憎しみや怒りに満ち溢れている自分を知ったとき、自分の真の姿を知ったに違いありません。

100%憎みきれれば楽なのです。
でも、憎みきれない。
かといって、許しきることもできない。
苦しいのは、憎い相手がいるからではなく、そのような私のこころが苦しめている。
だけど、「そのような私のこころ」を捨てられたとして、100%憎みきれて楽になれたとして・・・果たして、そんな人間でありたいだろうか。苦しみをなくして、楽になる…それはつまり、どういうことなのだろう。
 
「苦しみを引き受けて」と表現するのは語弊がありますね。
「苦しみが私となっている」のかな。
苦しみを引き受けたり、逃げたりするのは、私の思いですること(実際に出来る出来ないとかの話ではなくて)。
苦しみが私となっているのは、私の事実。真実の姿。
 
今、浅原才市さんの大切なおことばを噛み締めています。
ご恩思えば みなご恩 この才市も ご恩でできました
私は、このおことばの「ご恩」を「ご縁」といただいています。
恩も縁も、いただくものになっている。それは、私が先にあってのこと。
でも、恩や縁があって、それによって私が私となっている。
「ご恩をいただいています」ではなく、「ご恩でできました」。
「ご恩」で、ご縁でできた私。
 
「恩」や「縁」を口にするとき、良い出来事に関しては「恩がある」とか「良いご縁で」と言うけれど、悪い出来事に関しては「恩」や「縁」とは表現しない。
でも、自分にとって都合の良い出来事も悪い出来事も、「恩」であり、「縁」である。
 
憎しみという縁によって、
憎しみきれない自分を知る。
この私も、憎しみのご縁でできました
 
秋の気配を感じる夕暮れ時、そんなことを考えていました。

« 落ち葉だって、いらないものではない | トップページ | 今のわたし »

コメント

 憎しみによって真実を知ることは私にも確かにあった。

 私もほんの少し前まで、憎しみや恨みで一杯だった。友人を守るために怒りを正当化し、友人を傷つけていた相手に対して100%に近い憎しみを抱いていた。
 ものすごい殺意!その怒りの炎は自分自身を覆いつくし、私は復讐鬼になっていた。腕力で弱いものを脅す暴力的な人を凶悪人類と呼んでいて、もし自分がそんな人に暴力を受けたのならば、どんな手段を使ってでも、その相手を同じだけ傷つけることが、私の揺ぎ無い意思と正義であった。

 友人を救うことはできた。自殺も止めることができた。私の揺ぎ無い意志があったからこそできたことなのかもしれない。

 だが、憎しみはその相手よりも何よりも、自分自身を傷つけてしまう。憎しみから生じた怒りは、鬼となり心を焼き尽くしてしまうのだ。友人の一件以前にも、憎しみを正当化していたため、私はずっとリアルな地獄を彷徨っていたのだ。
 友人の一件が終わっても尚、怒りの炎は治まることを知らなかった。私は薄々気付いていたのだ。「私は散々周りの人間の心が汚いと、周囲の環境が汚いとずっと思っていたけど、結局一番心が汚かったのは自分自身だったんだ。憎しみや怒りこそが最大の悪であり、憎い相手が汚いとか訴える前に、そう考える自分の心が汚いのだから、それを何とかしなければならないんだと。」

 100%憎しみきれたとしても、楽になれるのは、期待すべきではない。場合によっては殺人にまで発展するかもしれない。そうなると、もはや後悔と虚しさしか残らない。私は何とか理性を保つことができたけど、今後運が悪ければ、それすら適わずに、罪を犯すかもしれない。だから、憎悪を抱かない心を育てないといけないと思うようになった。

 そんな私に怒らないことの素晴らしさを教え、憎しみのループから救ってくれたのは、なんと私の好きな萌え系アニメのキャラクターだった。
 本当にアニメが好きで良かったと思ったのは、この時ほどない。その詳細は秘密事項だけどね。

 私は、憎しみを脱した。もう繰り返したはない。たとえ自分にとって最も大切な人が目の前で殺されても、私は犯人を恨んではいけない。怒ってはいけない。それが自分自身を苦しめるし、殺された人は親しかった人がそんな風に苦しむのを望まないからだ。

 苦しみが私となっているのが真実の姿。

 確かにそうだ。憎しみによる苦しみの縁が無ければ今の私もいない。憎しみは生きている証でもある。だが、憎しみを正当化するのもまた間違い。むしろ憎しみを乗り越え、克服することによって、憎しみの有難みが生まれるのであろう。

昨晩は「白骨の会」に参加させていただき、ありがとうございました。これだけ長時間、私が真宗について話したいだけ話すという機会も、そう多いことではありませんでした。ただしKYになっていたのではないか? との懸念も起こり、次回からは少々自重することも必要だなアと反省しております。ハイ。

☆真照さんへ
憎しみには、悲しみや喜びが内包している。
喜びにだって、悲しみや憎しみが内包している。
私は、憎しみを捨てたくない。すべての感情を捨てることになるのだから。
  
私がいるということは、誰かに憎しみを生じさせていることもあるかもしれない。
私が意識していても、いなくても。
 
人は、一人で生きているのではないのだから。

☆やすさんへ
白骨の会にお出かけいただき、ありがとうございます。たくさんお喋りできましたね。
KYなんかじゃないですよ。たくさんお話聞かせていただけて、楽しかったです。私の勉強不足で、会話についていけないところがあることはご容赦ください。また、まったく喋らなくなるのは、元々の性格なので、ご理解ください(今日も夕食中、坊守に「あなたの考えをちゃんと聞かせてよ」と注意されました)
 
K…ここ(白骨)では
Y…許されていますから、安心してお話ください

##かつさんへ##
これは無理をしているな。

全ての感情を捨てる?そうなったらそうなったで別にいいではないか。実際にやってみないと分からないではないか。

やっぱりかつさんは真宗の念仏者ですよ。この掲示板に書いていることが、真宗の教えとは違うとしても、かつさんの視点は念仏者の視点であることは間違いなさそうだ。私の視点は、上座佛教+αの視点だからかなり意見が衝突してしまう。

だから、次の説明が気に入らないのであれば、徹底的に文句を書けばいい。私は別にかまわないのでね。

憎しみ・恨み・嫉妬・後悔などの感情はすべて怒りから来ている。受け入れたくない現実があるときに、この感情は発生するのですが、ほぼ確実に暗い気分になります。

この暗い気分が人間にとって、毒を飲むぐらいに危険なもので、これが原因で自己を破壊して、精神病になったり、犯罪や争いの引き金となってしまいます。

どうしても疑うのでしたら、自分にとって気に入らない人や出来事をずっと思い浮かべて、憎しみ続けてみてください。必ず暗い気分になるし、鏡で自分の顔をみても、明るく笑ってはいないでしょうから。

憎しみを持てば持つほどに、性格は暗くなり、人生はつまらないものになってしまう。憎しみを肯定化する理由はどうも見つからない。

最も、こういうのも私の主観なので、真実にはまだ遠いのですがね。

KYがそういう意味であればよいのですが・・・(笑

ところで本日の五組同朋会での講師としてのお話、ご苦労様でした。土曜日の夜の時点での準備状況から見て、ここまで充実させられたのは驚異的です。帰途が一緒だった聞法会メンバーのYさんも、「これだけ良いお話をされてしまうと、次回以降の講師の方が大変ね!」と感激されていました。聖人ご誕生から六角堂参篭までの、資料が少ない時期から「我々が学ぶことは無い」と座談の時間に発言する方までいたのは残念でしたが、この時期の唯一の手掛かりとも言える「夢告」が、さらに後の時期の「愚禿」の名告りや「悲歎述懐」という聖人の教相の基盤ともいえる自覚と繋がっていることを聞かせていただき、感激しました。「祖聖と遇う」とは、祖聖のご自覚に触れさせていただかない限り、史実や教えの表層を云々しているだけでは適うことではないな? と痛感させられました。

☆真照さんへ
私、「真宗クソ坊主」と呼ばれております
 
すべては自然(じねん)です。
どうぞご無理なきように。

☆やすさんへ
お話しすることが決まってから、こころの中でいろいろと考えていたのですが、「白骨の会」でやすさんとお話できたことは、とても大きなきっかけをいただきました。しかも、今回の白骨はやすさんと美晴と私の3人でゆっくりお話できました。今回の白骨なくして、昨日の話は生まれませんでした。こちらこそありがとうございます。

『「夢告」が、さらに後の時期の「愚禿」の名告りや「悲歎述懐」という聖人の教相の基盤ともいえる自覚と繋がっていること』
に関しては、自分でもビックリするくらい話がつながって出てきたのです。今回の「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」によって、私自身が学ばせていただいています。話し手が、実は誰よりも聞き手です。遇い難いご縁に遇わせていただきました

##かつさんへ##

いいえ、別にクソ坊主って程でもないと思いますよ。

世の中には、葬式の金施が少ないだけで、怒って帰る坊さんや、高額の戒名料を取ったりする坊さんがいるぐらいですから。

戒名問題は昔からですが、戒名を金づるにしたり、お布施の量で態度を変えたりするのには、もはや目も当てられない。ただの金に汚いおっさんですよ。

おまけに住職は基本的に世襲なので、生活習慣や人間性が一般の人と何ら変わらない場合が多く、中には一般の人よりも杜撰な生活をしている僧侶までいるぐらいだ。戒律は気にする必要はないですが、せめて仏法に従い、心だけでも綺麗になってほしいものです。

そんな愚か者に比べれば、かつさんは良い人だと思いますよ。それはこのブログに書いていることを見れば大体分かる。特に蟻の役割の話は最高だったね。あれはとても大切なことでしょう。

あれだけ分かっていれば人間性はばっちりですよ。見せ掛けだけの念仏者とはやはり違う。

あっ!昨日の私とは別人みたいだ。相変わらずコメントは長いけど。

憎しみも愛情も一方通行では成立しないから人に対しては無理でしょう。
でも、物に対してはできるんですよね。
本当にいやな物って有る人たまーにいますよね。
愛は成立しなくても愛し切れますが、
憎しみきることは一方的にするのは難しい
ですよね。だから人間救われるのでは?
憎しみはストレートに自分に跳ね返るから
憎しみきると自分が死ぬよ。
かつさんも半年庭の石に罵詈雑言を浴びせつずければ人が変り身体壊すよ。ぜひ 試してみて。

☆大さんへ
「半年庭の石に罵詈雑言を浴びせつずければ人が変り身体壊す」ところで文章を書いているんですが…

「半年庭の石に罵詈雑言を浴びせつずければ人が変り身体壊す」ところで文章を書いているんですが…
???
私なんか変なこと書きました?
かつさんはまさか庭の石に怒りながら
書いてるわけでは無いでしょう?
憎しみは物にでも身体を壊すというう喩えの
つもりでしたが。

☆大さんへ
喩えが分かりづらいですよ
私は、大さんの喩えに関わらず、
たとえ私の文章によって憎しみを受けることになったとしても、それでも書かねばならないことは書き続けますという意思を表現してみました。
よけい分かりづらいですね。すみません。
 
あっ、もちろん、石に怒りながら書いたりはしてませんよ

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 落ち葉だって、いらないものではない | トップページ | 今のわたし »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ