世の中が便利になって困っているのは実は人間なのです
私の住む地域(世田谷区)では、10月からゴミの分別が変わりました。
今まで不燃ゴミとして出していたプラスチック類や発泡スチロールが可燃ゴミに変わりました。
すると、家庭から出るゴミのほとんどが可燃ゴミになりました。
蛍光灯・割れた陶器・使い切ったガスボンベ等、不燃ゴミも出るけれど、今までに比べると、そんなに不燃ゴミはかさばりません。
分別方法が変わると聞いて、楽になるなと思っていました。
しかし、実際に分別方法が変わり、今まで不燃ゴミのゴミ箱に捨てていた物を可燃ゴミに捨てるときの、想像もしていなかった違和感があります。こんなものまで可燃ゴミに入れていいのかなぁ…。
ゴミ集積所にゴミを出しに行くと、可燃ゴミの日のゴミの量がかなり増えています。
反対に、不燃ゴミの少ないこと少ないこと。
システムが変わって、思うところがあります。
一部不燃ゴミが可燃ゴミとして出せるようになって、可燃ゴミが増えるのは分かるけれど、このシステムになると、不燃ゴミを可燃ゴミに混ぜる人がいるんじゃないかなぁ。
「コップが割れちゃった。たったこれだけだから、可燃ゴミに混ぜちゃえ」って、感じで。
それと、今までリサイクルという名の下、ゴミの分別に気を遣ってきた人もたくさんいると思うのですが、ゴミの分別意識が薄れてしまうような気がするのです。日常生活で出るゴミのほとんどが可燃ゴミになると、少量の不燃ゴミまで燃やせるんだっていう錯覚も起こしてしまうような気がします。
分別の面倒臭さがなくなると、そのタガが一気に外れてしまうような気がして、恐さを感じます。
数日前、読売新聞に掲載されていました。熊本県水俣市では、ゴミを21種に分別しているそうです。
細分化した分別収集を始めるに当たり、何回も事前説明会を開き、ゴミ集積所毎に班長を持ち回りで決め、地域の人々が協力して分別収集に努める。はじめの頃は反発もあったようですが、今では分別が当たり前のこととなり、地域の方々のつながりも強いものになっているとのことです。
面倒くさいことって、なにごともどんどん排除されているけれど、今まで続いてきた、営んできた、育んできた習慣・交流・日常って、やはり意味があってのことだと思う。たとえ簡略化できるようになったことでも、敢えて手のかかることを続けるということも、大切な意味があると感じている今日この頃です。ゴミの分別方法が変わったおかげで。
世の中が便利になって困っているのは実は人間なのです
浅田 正作