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2008年10月

2008年10月28日 (火)

世の中が便利になって困っているのは実は人間なのです

私の住む地域(世田谷区)では、10月からゴミの分別が変わりました。
今まで不燃ゴミとして出していたプラスチック類や発泡スチロールが可燃ゴミに変わりました。
  
すると、家庭から出るゴミのほとんどが可燃ゴミになりました。
蛍光灯・割れた陶器・使い切ったガスボンベ等、不燃ゴミも出るけれど、今までに比べると、そんなに不燃ゴミはかさばりません。
 
分別方法が変わると聞いて、楽になるなと思っていました。
しかし、実際に分別方法が変わり、今まで不燃ゴミのゴミ箱に捨てていた物を可燃ゴミに捨てるときの、想像もしていなかった違和感があります。こんなものまで可燃ゴミに入れていいのかなぁ…。
 
ゴミ集積所にゴミを出しに行くと、可燃ゴミの日のゴミの量がかなり増えています。
反対に、不燃ゴミの少ないこと少ないこと。
 
システムが変わって、思うところがあります。
一部不燃ゴミが可燃ゴミとして出せるようになって、可燃ゴミが増えるのは分かるけれど、このシステムになると、不燃ゴミを可燃ゴミに混ぜる人がいるんじゃないかなぁ。
「コップが割れちゃった。たったこれだけだから、可燃ゴミに混ぜちゃえ」って、感じで。
 
それと、今までリサイクルという名の下、ゴミの分別に気を遣ってきた人もたくさんいると思うのですが、ゴミの分別意識が薄れてしまうような気がするのです。日常生活で出るゴミのほとんどが可燃ゴミになると、少量の不燃ゴミまで燃やせるんだっていう錯覚も起こしてしまうような気がします。
 
分別の面倒臭さがなくなると、そのタガが一気に外れてしまうような気がして、恐さを感じます。
 
     
 
数日前、読売新聞に掲載されていました。熊本県水俣市では、ゴミを21種に分別しているそうです。
細分化した分別収集を始めるに当たり、何回も事前説明会を開き、ゴミ集積所毎に班長を持ち回りで決め、地域の人々が協力して分別収集に努める。はじめの頃は反発もあったようですが、今では分別が当たり前のこととなり、地域の方々のつながりも強いものになっているとのことです。
 
面倒くさいことって、なにごともどんどん排除されているけれど、今まで続いてきた、営んできた、育んできた習慣・交流・日常って、やはり意味があってのことだと思う。たとえ簡略化できるようになったことでも、敢えて手のかかることを続けるということも、大切な意味があると感じている今日この頃です。ゴミの分別方法が変わったおかげで。
 
      
  
世の中が便利になって困っているのは実は人間なのです
             浅田 正作

2008年10月26日 (日)

今のわたし

人に傷つけられたことは、なかなか忘れ得ないもの。
一生抱えることも。
でも、人を傷つけたことは、自分で気づいていないもの。
一生気づかずに生きている。
 
感情は、想いは、人と人とが縁を結び生じるもの。人と人とに限らない。生きとし生けるものが、出遇っている。
そこには、楽しいこともあれば、つらいこともある。
出会えてよかったと思えることもあれば、出会わなければよかったと思うこともある。
 
「縁に生きる」
自分にとって「よかった」と思えることは「縁がよくて」「良縁で」とうなづけるけれど、
苦しいこと、つらいこと、悲しいことを「縁によって」とはうなづけない。
 
それにしても、自身が発する感情にばかり想いが行ってしまう。
私が楽しいとき、他の誰かは楽しんでいるだろうか。
私が楽しいということは、誰かを苦しめているのかもしれない。
私がつらいとき、一緒に苦しんでくれる人がいる。
私のつらさを見て、笑っている人もいるかもしれに。
「縁を生きている」ということは、自身が発する感情だけの話では済まない。
私が誰かを恨んでも、肝心な相手は恨まれる覚えはないかもしれない。
誰かが私を恨んでも、肝心な私は恨まれる覚えもなく生きているかもしれない。
 
私が抱く恨みを消せるなら、それでいい。
でも、人が私に対して抱いている恨みまでは消せない。
誰かが私を恨んでいる。私は恨まれても仕方のないものだ。
その自覚があるだけ、「生きている」といえるのかもしれない。
私は、人に恨まれるようなことはしたことがありません。
そのセリフに恨みすら感じる。
 
自分で負の感情を無くそうとしたり、いい感情を磨き上げようとしたり、「善い行い」を私はしていますと主張する。
そういうことを書いているつもりは、まったくありません。
私がいることによって、喜んでくれる人がいれば、つらい想いをしている人もいる。喜びには悲しみが内包され、つらさには許しが内包されている。
私がいて喜んでくれる人は、私によって悲しみを味わうこともある。
つらい想いをするのは、その背景に許しがあるから。いっそ許せないのなら、つらさも生じないのに。
「縁に生きる」。おしえの一端にでも触れた者として、生きながらにして生じる想いを書いています。

2008年10月17日 (金)

憎いんだけど…ありがとう

憎い 憎い 憎い 
どんなに憎い相手でも、100%憎みきることは出来るのだろうか。
相手の優しかった頃、ちょっとした仕草、年老いた姿、
私の迷い、年とともに薄れる想い、
100%憎みきることが出来たら、どんなに楽だろう。
それが出来ないから、悩む、苦しむ
でも、そういう想いを抱えながら、私が私となる。
 
法然上人出家のご縁のお話です。
法然上人は、幼い頃に父親を敵討ちでいのちを狙われ、殺されます。
法然の父は、幼い息子に言います。「私の仇をとろうとするな。私の仇をとれば、次はお前が狙われる。うらみの連鎖はとどまらなくなってしまう」と。
幼い法然上人は比叡山にのぼり、仏道を歩みます。
 
法然上人出家のご縁…
法然上人に憎しみはないのか?
法然上人は相手を許したのか?
父の遺したことばに納得していたのか?

いろいろな疑問が生じるけれど、私は思うのです。
法然上人は憎しみを抱え続けたことでしょう。
相手を許せなかったことでしょう。
父のことばに納得もできなかったことでしょう。
でも、父のことばを胸に、常に葛藤されていた姿が思われます。
法然上人は、葛藤を抱えながら仏道を、人生を歩まれたことでしょう。
そして、憎しみを捨てきれない自分に対する怒りも持ち続けたことでしょう。
しかし、抱えきれないほどの憎しみや怒りに満ち溢れている自分を知ったとき、自分の真の姿を知ったに違いありません。

100%憎みきれれば楽なのです。
でも、憎みきれない。
かといって、許しきることもできない。
苦しいのは、憎い相手がいるからではなく、そのような私のこころが苦しめている。
だけど、「そのような私のこころ」を捨てられたとして、100%憎みきれて楽になれたとして・・・果たして、そんな人間でありたいだろうか。苦しみをなくして、楽になる…それはつまり、どういうことなのだろう。
 
「苦しみを引き受けて」と表現するのは語弊がありますね。
「苦しみが私となっている」のかな。
苦しみを引き受けたり、逃げたりするのは、私の思いですること(実際に出来る出来ないとかの話ではなくて)。
苦しみが私となっているのは、私の事実。真実の姿。
 
今、浅原才市さんの大切なおことばを噛み締めています。
ご恩思えば みなご恩 この才市も ご恩でできました
私は、このおことばの「ご恩」を「ご縁」といただいています。
恩も縁も、いただくものになっている。それは、私が先にあってのこと。
でも、恩や縁があって、それによって私が私となっている。
「ご恩をいただいています」ではなく、「ご恩でできました」。
「ご恩」で、ご縁でできた私。
 
「恩」や「縁」を口にするとき、良い出来事に関しては「恩がある」とか「良いご縁で」と言うけれど、悪い出来事に関しては「恩」や「縁」とは表現しない。
でも、自分にとって都合の良い出来事も悪い出来事も、「恩」であり、「縁」である。
 
憎しみという縁によって、
憎しみきれない自分を知る。
この私も、憎しみのご縁でできました
 
秋の気配を感じる夕暮れ時、そんなことを考えていました。

2008年10月15日 (水)

落ち葉だって、いらないものではない

落ち葉の掃き掃除 
掃いても掃いても、散る葉 散る葉 
自然界においては掃く必要はないけれど、
アスファルトで覆われた環境においては掃き集めなければならない悲哀。
でも、散りゆく葉を、掃き続けるところに、葉(植物)と人間の感応がある。
 
落ち葉が鬱陶しいからと言って、木を切ってしまったらどうなることだろう。
二酸化炭素は吸収されず、
大地にしみこんだ雨の行方もなくなってしまう。
 
いらないものを なくしたら どんなに住みよいかと思っていたら、
想像もつかないような出来事が押し寄せてくる。

掃除をしながら、そのようなことを想い、過去の記事(どくさいスイッチ)と安田先生のことばを思い出していました。

私たちはもっともっと悩まねばなりません
人類のさまざまな問題が私たちに圧しかかってきているのです
安っぽい喜びと安心にひたるような信仰に逃避していることは出来ません
むしろそういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です

安田 理深

2008年10月13日 (月)

そしていや応なく死が訪れるわけで…

いや応なく人って老いていくわけで、
それで病になるわけで、
そしていや応なく死が訪れるわけで…

 (緒形拳さん 遺作ドラマ「風のガーデン」記者会見にて)
 
「苦から逃れるのではない。苦を苦のままに受け入れて生きていくのです」
親鸞聖人のおしえを受けた私は、そのようにお話し、表現しています。
諸行無常という いのちの事実を知り、受け入れ、そのうえで生きていく。
そのことが難しいことは分かっています。
苦難の只中にいる人にとって、そのことばがかえって苦しみを生むこともあるかもしれない。
 
でも、苦難(に限らず、我が身におこること)から逃れられないのも事実。
いい方向に向かうこともあるでしょう。その努力が無駄だとか、いけないと言っているのではない。
そのために、もっともっと もがくべきだと思っています。
 
あきらめや運命論ではなく、私が生きる道は一本だと思うのです。
その道を、歩んでいくしかない。他に道があるわけではない。ないはずの道を探して、自ら苦しんでいる。
「苦から逃れるのではない。苦を苦のままに受け入れて生きていく」
このことは受け入れがたいことかもしれない。
しかし、親鸞聖人のおしえを受けて、苦を苦のままに受け入れ、私の人生として生きてきた方がいることも事実。忘れてはいけない伝統がある。そうでなければ、親鸞聖人のおしえ、阿弥陀のおしえが今の私に届いているはずがない。
苦から逃れたところに安心を見つけるのではなく、苦と共に生きるところに安心がある。いや、安心(阿弥陀)があるからこそ、苦と共に生きていける。南無阿弥陀仏と手を合わせ、生き抜かれた人々がいる。その人々のおかげで、私が歩む道がある。
 
いや応なく老い、病になり、死が訪れる。
ことばにすればこれだけの事実に、迷っている。
でも、これほどの事実の只中を生きているからこそ、生きていける。
迷いの衆生という器は、阿弥陀の慈悲を受け入れるための器。
 
緒形拳さんのことばを受けて、あらためてそのようなことを教えていただきました。
(ドラマ「風のガーデン」を見ましたが、拳さん、痩せていました。身の事実を受け入れたうえで、自分が成すべきことをされていたんだなぁと感じました)
 
そのようなことを噛み締めていたら、一通の聞法会案内が届きました。前回の講師のおことばが書いてありました。

我々は救いというと、自分で思い描いている。
南無阿弥陀仏の救いはそういうものではない。人生に縦糸が決まることである。
それも自分だけのということではなく、人類の歴史を貫き、どのような人々にとっても一道を開いてくる伝統。
南無阿弥陀仏の伝統とは、「素晴らしい」と言って仰ぎ見るようなものではない。
人生を見失い、生きていることにつまづいている者が受ける伝統。
そのことによって、図らずも自分の人生が一筋の道になっていく。
私の道ではなくて、南無阿弥陀仏の道になっていく。

読んだ瞬間、手が合わさりました。南無阿弥陀仏。
 
       
 
追記
ブログを読んで、「私が大切にいただいていることばに似ています」と、教えてくださった方がいます。
ことばが生きています。感じ入りました。ありがとうございます。
私は選手たちに言う。
「しんどいことはしんどいんだ。しんどいことをなにも明るく楽しそうにごまかさなくていい。しんどい現実をしっかり受け止めて、それに向かって闘うことや。それが挑戦するということや」
水野彌一(京都大学アメリカンフットボール部監督)『一つのことに一流になれ』より

2008年10月 1日 (水)

2008年10月のことば

Pict0402
善い行いは
   よい報いがくるというよりも
  善い行いをするところに
   報いられている

       佐々木 蓮麿
 
「阿弥陀さんって、どこにいるの?」と問われたことがあります。
「私が今ここに生きている。そのことが、阿弥陀さんがいる証です」と応えました。
「阿弥陀さんはあなたなの?」
「いえ、みんな、ひとりひとり生きていることです」
「それでは死んでしまったら阿弥陀さんもいなくなるじゃないですか。死んでしまった人には阿弥陀さんのすくいがないってことですか」と、怒りにも似た声をかけられました。
 
でも、私は感じているのです。私が生きている事実が、阿弥陀さんがいる証だって。この身は、報われているからこそあるんだって。阿弥陀さんを信じてどうこうではない。すでに報いを受けている身だと感じて、今を生きています。
心臓がトクントクン動いている間のことを「生きている」と考えると、死んでしまったらすべて無くなってしまうように感じてしまうことでしょう。でも、いのちとは、両親から、そのまた両親から、そのまたまた両親から受け継いできたものです。そして、これからも受け継がれていくものです。血縁関係だけの話ではありません。私はたくさんの人からいろいろな影響を受けてきましたし、たくさんの人が私から何らかの影響を受けているものです。人と人との関係って、呼応しているものだと思います。そういう意味では、たとえ肉体は滅んでも、いのちは尽きることがないのです。
「阿弥陀さんは、私が生きていることです」と言ったのは、この身は、すでに阿弥陀如来の功徳をいただいている身だと言いたかったのです。阿弥陀さんを信じたら何か功徳があるとか、信じたらどんな功徳があるんだろうなどと考えたことはありませんか? 信じたうえで功徳をいただくのではないのです。既にいただいているから、信じられるのです。いや、信じなくてもいいですよ。私が信じていても信じていなくても、阿弥陀如来は私を信じているのです。
なにか「善い行い」をして、「よい報い」を受けようとする。誰もが考えることだと思います。でも、「よい報い」を期待して「善い行い」をするのは、阿弥陀さんを無視しています。それはつまり、私自身を、いのちを無視しているということです。いのちという報いが、今の私として生きているのですから。
それに、私たちがする「善い行い」は、危うさを併せ持っています。
誰かを助けるということは、同時に迷惑を被る誰かを生み出しています。
誰かを想うということは、同時にないがしろにされてしまう誰かを生み出しています。
誰かに手を差し伸べるということは、同時に見捨てられる誰かを生み出しています。
たとえそのようなつもりはなくても、事実なのです。その事実も哀しいことですが、より哀しいことは、その事実に気付かないままでいのちを終えていくことです。
私たちができる「善い行い」は、そういう哀しい事実と一体なのです。
今月のことばで言っている「善い行い」とは、南無阿弥陀仏とお念仏申すことです。
「善い行い」というと、私がすることのように思ってしまいます。でも、私がするのではなく、お念仏申す縁をたまわっているのです。先程「阿弥陀如来は私を信じている」と言いました。どういうことかと言うと、阿弥陀如来は、まだ法蔵菩薩という名であった頃に、誓いをたてられました。
「南無阿弥陀仏と念仏申す衆生をすくいたい。すべての衆生がすくわれることがなければ、私のすくいはない」と。
この誓いは、法蔵菩薩自身がすくわれたいという誓いではありません。すべての生きとし生けるものへの「信」なのです。
信じるということも、私たちがする「信」は、同時に「疑い」を生み出しています。信じているんだから、その期待に応えてくれよって。わざわざ「信じています」と言うことほど疑っていることはありません。
「信心」というけれど、私が起こすものではなく、たまわっているのです。法蔵菩薩が、衆生を信じて誓いをたてられた。その「信」があるからこそ、手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏の声が出てくる。だから、今、阿弥陀如来が、私として生きている。呼応しているのです。
 
     
 
Dscf2028
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。10月の人形は、楽器を演奏してノリノリのクマと子どもです。芸術の秋ですね♪

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