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2008年10月 1日 (水)

2008年10月のことば

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善い行いは
   よい報いがくるというよりも
  善い行いをするところに
   報いられている

       佐々木 蓮麿
 
「阿弥陀さんって、どこにいるの?」と問われたことがあります。
「私が今ここに生きている。そのことが、阿弥陀さんがいる証です」と応えました。
「阿弥陀さんはあなたなの?」
「いえ、みんな、ひとりひとり生きていることです」
「それでは死んでしまったら阿弥陀さんもいなくなるじゃないですか。死んでしまった人には阿弥陀さんのすくいがないってことですか」と、怒りにも似た声をかけられました。
 
でも、私は感じているのです。私が生きている事実が、阿弥陀さんがいる証だって。この身は、報われているからこそあるんだって。阿弥陀さんを信じてどうこうではない。すでに報いを受けている身だと感じて、今を生きています。
心臓がトクントクン動いている間のことを「生きている」と考えると、死んでしまったらすべて無くなってしまうように感じてしまうことでしょう。でも、いのちとは、両親から、そのまた両親から、そのまたまた両親から受け継いできたものです。そして、これからも受け継がれていくものです。血縁関係だけの話ではありません。私はたくさんの人からいろいろな影響を受けてきましたし、たくさんの人が私から何らかの影響を受けているものです。人と人との関係って、呼応しているものだと思います。そういう意味では、たとえ肉体は滅んでも、いのちは尽きることがないのです。
「阿弥陀さんは、私が生きていることです」と言ったのは、この身は、すでに阿弥陀如来の功徳をいただいている身だと言いたかったのです。阿弥陀さんを信じたら何か功徳があるとか、信じたらどんな功徳があるんだろうなどと考えたことはありませんか? 信じたうえで功徳をいただくのではないのです。既にいただいているから、信じられるのです。いや、信じなくてもいいですよ。私が信じていても信じていなくても、阿弥陀如来は私を信じているのです。
なにか「善い行い」をして、「よい報い」を受けようとする。誰もが考えることだと思います。でも、「よい報い」を期待して「善い行い」をするのは、阿弥陀さんを無視しています。それはつまり、私自身を、いのちを無視しているということです。いのちという報いが、今の私として生きているのですから。
それに、私たちがする「善い行い」は、危うさを併せ持っています。
誰かを助けるということは、同時に迷惑を被る誰かを生み出しています。
誰かを想うということは、同時にないがしろにされてしまう誰かを生み出しています。
誰かに手を差し伸べるということは、同時に見捨てられる誰かを生み出しています。
たとえそのようなつもりはなくても、事実なのです。その事実も哀しいことですが、より哀しいことは、その事実に気付かないままでいのちを終えていくことです。
私たちができる「善い行い」は、そういう哀しい事実と一体なのです。
今月のことばで言っている「善い行い」とは、南無阿弥陀仏とお念仏申すことです。
「善い行い」というと、私がすることのように思ってしまいます。でも、私がするのではなく、お念仏申す縁をたまわっているのです。先程「阿弥陀如来は私を信じている」と言いました。どういうことかと言うと、阿弥陀如来は、まだ法蔵菩薩という名であった頃に、誓いをたてられました。
「南無阿弥陀仏と念仏申す衆生をすくいたい。すべての衆生がすくわれることがなければ、私のすくいはない」と。
この誓いは、法蔵菩薩自身がすくわれたいという誓いではありません。すべての生きとし生けるものへの「信」なのです。
信じるということも、私たちがする「信」は、同時に「疑い」を生み出しています。信じているんだから、その期待に応えてくれよって。わざわざ「信じています」と言うことほど疑っていることはありません。
「信心」というけれど、私が起こすものではなく、たまわっているのです。法蔵菩薩が、衆生を信じて誓いをたてられた。その「信」があるからこそ、手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏の声が出てくる。だから、今、阿弥陀如来が、私として生きている。呼応しているのです。
 
     
 
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西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。10月の人形は、楽器を演奏してノリノリのクマと子どもです。芸術の秋ですね♪

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コメント

おや? 今はクメールの地にいらっしゃるのではないのですか? 私がかつさんの日程を誤解していたようです。でも実際には一ヶ月先であったら、「おみがきの会」や「報恩講」と重ならないのでしょうか?

お念仏したら何か良いことがあるのか? ではなく、南無阿弥陀仏だけがそれ自体として完結している無上の良いことですね。


☆やすさんへ
ただいまぁ
はい、カンボジアへ行ってました。昨日無事帰ってまいりました。
10月1日にアップされるようにセットして、旅立ったです(だから住職の書いた書の写真がアップされなかったでしょ)。
カンボジアに行くため、締め切りが早くなったので、9月末はバタバタでした。 
 
「お念仏したら何か良いことがあるのか? ではなく、南無阿弥陀仏だけがそれ自体として完結している無上の良いことですね」
はい、それに尽きると思います。
10月の文章は、はじめは小賢しいことをゴチャゴチャ書いていたのです。でも、自分の中でスッキリしなくて、寺を出る数時間前に全部書き直しました。「すでにいただいている身だ」ということを告白したくて。

カンボジアのお話は、聞法会や白骨でお会いしたときに。

かつさんの日程を私が誤解していたのではなかったのですね。

おかえりなさい!
暑ーいアンコールの地はいかがでしたか?
お土産話を期待しています。

☆やすさんへ
アンコールの地は、
スコールは降るは、
アルコールはうまいはで、満喫してきました。
でも、また熱を出して寝込んでしまいました(海外に行くと、必ず熱を出す人。はしゃぎすぎ?)。

よい行いって難しいよ。
日常のちょっとしたこと、
席を譲るとか困ってる人を
助けるとかはできても、
会社人間としてはよい行いができないから
社会問題起こすんでしょうね?
事故米なんかも絶対関係者はうすうす
知ってたけど黙ってたんだと思うよ。

 もし阿弥陀如来の救いを実感したいのならば、余計な思考を捨てて、阿弥陀如来に心身を任せるといいでしょう。過ぎてしまったことや未来のことを考えなくても良い。今を中心に考えると少し楽になる。此れは、阿弥陀如来が一瞬一瞬私たちに働きかけているからに他ならない。
 さらに心を空にできたときには、阿弥陀如来が直接慈悲を注いでくださるでしょう。

 そのためには“自分の心の動きを感じ取って観察する”こと。暇なときに、自分の考え、思い、感情、行動、言動を意識しましょう。その際、ストレスを感じたり、嫌悪感のある思考と感情が見つかるはずです。(特に、怒り・嫉妬・後悔・貪欲・期待と思える感情は要注意です)次からは感じないように努力します。自分ですることはこれだけでいいのです。

 他力本願といっても、ただ信じるだけでは救われないと私は思います。自分でも努力しないと・・・。だってそうでしょう?
 はじめから功徳があるというのならば、どうして心に安らぎがないのでしょうか?ただ信じるだけで、苦悩から開放された人がいますか?いないでしょ。
 本当の救いとは何?永遠の安らぎではないとでもおっしゃいたいのですか?
 そう思うのは自由なのですが、心が泣いているのではないでしょうか?あなたはそれで本当に満足しているのですか?

 阿弥陀如来が私として生きているとおっしゃいましたね?それはつまり、自分の真実の姿の心に出会わなければいけないということになるでしょう。
           結論

 心に真実が顕になる=心の阿弥陀如来が目覚める=救われて永遠の安らぎとなる=悟り

☆大さんへ
(人間が考える)「よい行い」が難しいのは、
行うことが難しいのではなくて、
立場によって「よい」が、「よい」にも「悪い」にも「なんら意味がない」にも変わるから。
 
「事故米なんかも絶対関係者はうすうす
知ってたけど黙ってたんだと思うよ」
私もそのように思います。
でも、内にいると、黙っているのが正義になってしまうから不思議。
人体に影響はないなんて言い出す人まで出てくるから、もっと不思議。

☆真照さんへ
「余計な思考を捨てて、阿弥陀如来に心身を任せるといいでしょう」
…難しいですね。自己矛盾をはらんでいるから。
 
?・?・?…が続くので、世間に訴えているのかと思って読んでいましたが、私に向けてでしたか。
「安らぎ」「苦悩からの解放」とは、「この身のまま生きること」と私は受け止めています。ですから、話が噛み合わないですね。
 
自分ですることは「南無阿弥陀仏」
ただお念仏です。

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