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2008年9月

2008年9月23日 (火)

お墓参りについて

お墓参りの仕方について、よく質問を受けます。
「ついで参りはいけないんですよね」
「お墓に水をかけてはいけないんですよね。タワシで擦ってはいけないんですよね」
「お墓の花立てには、両方に同じ花を挿さなければいけないんですよね」
「お花は、お墓の方に向けて挿すんですよね」
 
いろいろな質問があるもんだなぁと、いつも感心してしまいます。
質問・問い合わせはたいてい、「お墓参りはこうしなければいけない」というテレビでの放送がきっかけです。
お墓参りの仕方を特に教わってきたわけではないから、テレビに出演している著名人から「このようにしなければいけません」と言われると、不安になるのでしょう。
 
お墓参りの作法について、特に決まりはありません。
「ついで参り」…けっこうなことではないですか。せっかくお寺まで来ているのに、お参りのメインのお墓ではないからといって、手を合わせずに帰るなんて、こんなに失礼なことはありません。私中心だと「ついで」でも、仏さまから見れば、お参りしているあなたは、ついででも何でもありません。
 
「お墓の掃除」…ブラシや雑巾を用意してあります。こころを込めてゴシゴシ洗ってください。水をかけてはいけないと言う人もいますが、西蓮寺の墓地には屋根がありません。雨が降ったら水をかぶりますが、お墓に傘を差しに来た人を見たことはありません。
 
「お墓のお花」…お釈迦さま在世の頃、お釈迦さまがお通りになる道に、花ビラをまきました。お釈迦さまに対する敬いの気持ちを表わしてのことです。その名残で、本堂・お内仏・お墓に、お花をお供えするようになったのでしょう。
お釈迦さまは、教え導いてくれる方です。亡き人も、私を仏教へと導いてくださった方です。お花をお供えするということは、仏教に出遇えたことへの感謝だと思うのです。ということは、対になっている花立てに同じ花を挿さなければいけないとか、花を挿す向きだとか、花の値段や量を気にすることもないのです。
 
お墓参りは、お参りされるお気持ちと、手を合わせ「南無阿弥陀仏」とお念仏申すご縁をいただいた、そのことが尊いのです。墓前だけでなく、お寺への出入りの際、本堂前での合掌を心がけてください。
お墓参りはご自分がしていることのようにお思いでしょう。しかし、亡き人のおかげで、お念仏申すご縁を、私がいただいているのです。亡き人の、阿弥陀仏の慈悲に包まれて、今の私のいのちがあるんだなぁということを、日常の喧騒を離れて見つめる場と時間をいただいているのです。
 
さて、お墓参りの作法について書きましたが、不思議に思うことがあります。テレビでお墓参りの作法について説明していて、それが気になるのは、「間違った作法ではバチが当たるのではないか」とか「正しい作法でないと、自分に災いが来るのではないか」という想いがあるからではありませんか?
お尋ねの中心には、自分のことしか考えていない姿が見えます。それが証拠に、自分がお参りするお墓には気を遣っても、その他のことに無頓着だと思うのです。
 
お墓にお供物を置いていかれる方がいます。亡き人に対する想いからでしょうが、そのお供物をカラスが食べ散らかし、そのお墓だけでなく、周りのお墓をも汚していることをご存知ですか? お供物はお待ち帰りください。
 
手桶や掃除道具を壊しても黙って帰る人がいます。物が壊れるのは当然のことです。壊れたときに寺に言ってくだされば、すぐに修理・交換ができます。
 
手桶に水が残ったまま手桶置き場に戻していく人がいます。次の人は、水が入っているとは思わずに手桶を取りますから、水をかぶってしまうことがあります。残った水を、よそのお墓の、お花が挿さった花立てに入れてくださる方がいます。その姿がとても美しいです。境内の植木にかけていってもいいのですよ。
 
お寺はたくさんの方がお参りに来るところ。備品はみんなで使うもの。そういう意識を持ってほしいです。垂れ流しの情報を気にするよりも、もっと気にすること、目をむけることがあるのですから。
 
お墓参りは、なにも見えていなかったわたし自身を気付かせてくれるご縁。亡き人は、それを教えてくれる仏さま。
お墓参りの意味を、あらためて考えてみてください。
  
 
※お寺の新聞「ことば こころのはな」の裏面をアップしました。

2008年9月13日 (土)

生活の中の仏教

昨晩、池袋で開催されている仏教学講座(「維摩経」講座)に参加しました。
講座後、講師の古田先生を囲んで呑みに行きました(期最終回だったので)。
  
その席でご一緒した おふたりのご婦人のことばに感動いたしました。
  
「この講座に参加するまで、仏教は死に関する教えを説いてくださるものだと思っていました。でも、仏教はどのように死ぬかではなく、どのように生きるかを説いてくださる教えだということが分かりました」
  
「悩みや苦しみがあってよかった。悩みや苦しみがあるから、嬉しいって思えることもあるんだから」
  
この講座は、僧侶向けの講座ではなく、世間一般に開かれている講座です。
おふたりとも、数年前に広告を見て講座に参加されました。それまでは、仏教に関する講座に出たことはないそうです。
でも、なにかしらこころを惹かれ、興味を持ち、講座に参加し続けていらっしゃいます。
そして、おふたりから出たことば。
聞法ってこういうことだなぁって感じました。
古田先生の講座も毎回楽しみにしていますが、講座の後の呑み会でそんなことばが聞けるなんて…。
昨晩は、この呑み会も含めての仏教学講座でした。
大切な場にご一緒させていただいて、ありがとうございます。
 
次の期も引き続き古田先生で、「涅槃経」のお話をしていただけます。
数年前、「涅槃経」の話を聞きたくて、その当時長野で古田先生の「涅槃経」講座が開催されていて、聞きに行っていたことを思い出しました。
東京で古田先生の「涅槃経」のお話を聞けるとは思いませんでした。次の期も楽しみです。

2008年9月 5日 (金)

ただひとつのいのち

ただひとつのいのち
お彼岸が近付いてきましたね。
境内に、早くも彼岸花が咲きました。
例年、どんなに天候が不順でも、彼岸花は必ず彼岸期間中に咲いているのに、今年は早いです。
色も、淡いピンクです。赤か白しか咲かないのに、この色は初めてお目にかかります。


今朝、境内の掃き掃除をしていたら、私の左腕にセミがとまりました。シャツを通じて、セミの重さをズシリと感じました。
そろそろセミの季節が終わろうとしています。セミの鳴き声が、いのちをいっぱいに振り絞っているように聞こえます。
地面には、いのち終えたセミが落ちています。季節の替わり目を感じます。
いのち終えたセミは、アリによってアリの巣に運ばれていきます。いのちの替わり目を教えていただきました。
その身としてのいのちは終えても、他のいのちの血となり肉となる。
いのちの連鎖…というよりも、いのちは全生命を通じてただひとつ。その、ただひとつのいのちが、セミとして、アリとして、彼岸花として、わたしとして、あなたとして表出している。

秋の声が聞こえてきた、センチメンタルな夏の暮れといった感じです。

2008年9月 1日 (月)

2008年9月のことば

Dscf2025
  影が教えてくれるのは
   そこにある悲しみだけじゃない
  うつむく顔を上げて振り返れば
   そこにある光に気付くだろう

     コブクロ「ここにしか咲かない花」より
 
私は、音楽は詞よりも曲を楽しむ方なので、歌詞カードを見て、詞を味わうということをしません。しかし、車の運転中にコブクロの「ここにしか咲かない花」を聞いていたとき、このフレーズがこころに響きました。
  影が教えてくれるのは
  そこにある悲しみだけじゃない
  うつむく顔を上げて振り返れば
  そこにある光に気付くだろう

この詞が響いてきた瞬間、親鸞聖人の恩徳讃と重なりました。
  如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も
  ほねをくだきても謝すべし

その重なった世界を詩にしてみました。聴いてください。
 
     

私が歩む道は、今歩んでいる道しかない
 他の道があったわけではないし
 他の道があるわけでもない

あのとき他の道を選んでいたら…
人生には、たしかに岐路がある
しかし、
 「あのときあっちの道を選んでいたら」
  と振り返ってみても、
あっちの道は消えている
いや、初めからなかったのだろう
私が歩むべき道は、
 この道ひとつしかなかったのだから

あの道 この道、どちらへ進もうか…
人生には、たしかに選択肢がある
しかし、
 「どちらの道がふさわしい道か」
  と悩むけれど、
さまざまな縁の重なりの中で
たくさんの人々との出会いの中で
私の歩む道は決まっている
道は選ぶものではなく、歩むもの
 
この道を歩んできたのは、この私
 たとえその道がつらい道であっても
 たとえその道が悲しい道であっても
  この道を歩めたのは、この私だから
  この道を歩めるのは、私以外にいない
 
このつらい道の
この悲しい道の
次の一歩は、
 どうやって踏み出せばいいのだろう
次の一歩は、
 どこに踏み出せばいいのだろう
 
つらさ消すことを模索する人もいる
悲しさ消すことに腐心する人もいる
 
つらい出来事を解決するために
 前向きになるのではない
悲しい出来事から逃れるために
 涙をぬぐうのではない
私の身に起きた出来事は
 私が私となるための事実
 
つらさ悲しさをなくすためなら
 逃げてしまえば簡単だろう
しかし、こころまでは逃げられない
たとえ逃げても、
その逃げた道が 私の歩む道
 
私が歩む道は、今歩んでいる道しかない
他の道があるわけではないし
他の誰かが歩むわけにもいかない
 
うつむく顔を上げて
今までの歩みを振り返ったならば
そこにある光に気がつくことだろう
振り返った私に、光が射したのではない
今までも、現に今も、これからも、
私には光が射している
ずっと光の中を歩み続けていた私
 
やりきれないつらさ
ぬぐえない悲しみ
それらを抱えて人生を歩む姿が、
身を粉にしてまで
骨を砕くほどに生きている姿
 
そうまでして いのちを生きていけるのは
私を生かそうとする光が
私に届いているから
 
「雨上がりの道は泥濘(ぬか)るむけれど
今ここに
生きている証を刻むよ」
 (コブクロ「ここにしか咲かない花」)
 
この泥濘るみの道に、私の生きた証を刻む
綺麗に舗装された道が、私の歩む道ではない
泥濘るみの道を、一歩一歩、
ゆっくりゆっくり歩み続ける
 
泥濘るみの道を歩むからこそ気付ける
 さまざまな縁
 人との出会い
 そこにある光
この道は、私が歩むべき道だった
この道を歩めるのは、私以外にいなかった
 
光が射しているからこそ、
この道を歩むことができる
生きている証を刻みながら
 
     
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。
9月の人形は、ガラス細工のバッタ(左)とクサヒバリ(右)です。今にも動き出しそうな、精巧なガラス細工です。
坊守が、京都高台寺前の「ねねの道」を歩いているときに立ち寄ったガラス細工屋さんで買ってきました。
Dscf2027

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