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2008年8月16日 (土)

なぜ記念日にしか意識しないのでしょう

終戦記念日の頃になると、「なぜ戦争はなくならないのか」「戦争を起こしてはいけない」「日本は平和だ」という声をよく耳にします。そのたびに、私(声の主)不在だなと感じます。
「私の欲望の果てに戦争が起こるのかもしれない」「今現に、私が戦争起こしている」「平和がいいといいながら、平和を感じられない私」
平和を語るには、先ず自分を見つめてから。
 
寺報(ペーパーメディア)「ことば こころのはな」2008年8月号の裏面に書いた文章です。
 
      

「10年間お読みいただいて、ありがとうございます」
明日とも知れぬいのちをいただいて、今日まで生きてきました。西蓮寺寺報「ことば こころのはな」を書き続けて今月号で丸10年になります。よくここまで生きていたものです。
今月号を書くに当たり、この10年を思い返すと、「わたしの目の前に人がいる」ことが見えなくなってきているように感じます。
秋葉原で起きた無差別殺人事件(2008年)。犯人の身勝手な動機と行動に、誰もが憤り、恐れました。この犯人は成人男子でしたが、最近の凶悪犯罪は若い者が起こすという錯覚が生じているように感じられます。
1997年の神戸連続児童殺傷事件(別名、酒鬼薔薇事件)は、幼い子どもたちが殺され、被害者の一人の少年の首が中学校の校門に置かれるという事件でした。まだ犯人の見当もつかないとき、あるプロファイラーが十代の少年の犯行かもしれないと解析しました。「子どもがこんな事件を起こすはずはない。いったい何を言ってるんだ」と非難を浴びていたのを覚えています(犯人は14歳の少年でした)。
10年前は、子どもに対する安心感・信頼感・私たちが守るんだという使命感が溢れていました。それなのに、たった10年で、子どもに対する恐怖心・不安感・なにを考えているか分からないという理解不能なものを見るような目線に変わってしまいました。起きている事件が衝撃的なために、犯人に対して、自分とはまったく別の生き物的な見方をしてしまいます。
印象に残っていることばがあります。2000年に佐賀県で西鉄バス乗っ取り事件が発生しました。その事件で重傷を負った被害者の方が、加害少年に対して、「こんなことをしなくてはならないくらい、少年の心は傷つけられていたんですね」と言われました。
心身ともに深い傷を負ったのに、加害少年のことを想う被害者。そのようにありたいものですねと言いたいのではありません。どのような状況においても、「今、ここにいるあなた」のことを想う気持ちを忘れたくない。そういうことを強く感じるのです。
 
自分の都合や想いが優先し、他者を顧みない。人間不在。
電車やバスの座席に座っているときに、自分の近くに立っている人の存在が見えていますか? お年寄りや妊婦、体調の悪そうな人が立ってませんか? 携帯の電源を切らなければいけないシートに座りながら、携帯を使い続けていませんか? ペースメーカーを使っている人もいなさそうだからかまわないって? 実際にいるいないが問題なのではありません。携帯を使っているあなたのせいで、座るに座れない人がいるのですから。
自分の存在を相手に伝えるための自転車のベル。相手をどかすために、けたたましく鳴らしていませんか?
私に向かって人が歩いて来ます。ちょっと横にそれれば、ちょっと立ち止まればぶつからないのに、まっすぐ突き進んでいませんか? お前がどけと言わんばかりに。
秋葉原の事件。容疑者が犯した罪のみが地獄なのではありません。人が何人も倒れているのに、その様子を携帯のカメラで撮りまくる人々。この世の地獄は、特定の人間だけが作り出しているのではない。私も地獄の構成員。
次々起こる無差別殺人事件。「誰でもよかった」と言う容疑者の決まり文句。
「誰でもよかった」ということばの背景には、「自分さえよければいい」という想いが内在すると感じています。
「自分さえよければいい」「あいつが邪魔だ」「あいつさえいなければ」「自分より恵まれている他者は許せない」自己チュウ・逆切れ・モンスター○○・・・
「自分さえよければいい」見方では、周りに人がいるという皮膚感覚は生まれません。「誰でもよかった」と言えるのは、「人なら誰でもよかった」のではなく、「人でないから、誰でもよかった」のかもしれません。
事件の容疑者だけのことだけを言っているのではありません。「自分さえよければいい」と誰もが考えたことがあるはずです。寺報をお読みのあなたも。書いている私も。
仏教では、こころの中で考えたことも、実際に起こした行動も、罪は同じだと教えています。他者を認めぬ私。いったい私は、何度殺人罪を犯せば気が済むのでしょう。
こころの中で考えたことと、実際に 犯した罪とが同じだなんて納得できませんか? 納得してしまっては、他者の見えないわたしのままです。おしえは、自己の問題解決のためにあるのではない。おしえは、私の闇を照らし出します。自分の考え方とは違うものの見方を示し、見えないはずの闇の中身を見せてくれます。見る勇気を与えてくれます。
人が見えなくなって、自分自身まで見えなくなっています。
 
 今、ここに、あなたがいる
 だからこそ私が生きている
     
         釈勝願(西蓮寺副住職)

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コメント

こんにちは、カツさん
いつもありがとうございます。

かなりの浅学ですが、
仏教の方が本質的に医療・精神科より先だと愚考してる元従事者です。
・どのような状況においても、「今、ここにいるあなた」のことを想う気持ちを忘れたくない

・「人が見えなくなって、自分自身まで見えなくなっています。」
深く考えさせられ、大切だと思いました。

拙い医療技術情報ですが
「誰でも良かった~無差別」
自傷行為等の延長のようにも思います。存在・生きている事を、確認したいのかもしれません。

時代は変われど、これは不変だと思います。
「命に生かされてる事を 常に心に生きて行きたいですね。」


☆tanukiさんへ
「誰でもよかった」は自傷行為の延長のようにも…
私も、それは感じます。でも、自傷が他傷になってしまってはいけませんですね。 
 
「命に生かされてる事を 常に心に生きて行きたいですね。」
はい、不変・普遍の事実だと思います。
にもかかわらず、それを見失っている。
親鸞聖人御遠忌テーマは「今、いのちがいきている」です。素敵なテーマだと思うし、不変・普遍の事実を言い当てたテーマだと思うのですが、
意味が分からない、日本語としておかしい、と言う人がかなりいます。寺の人間も、ご門徒も。
とても悲しいです。
言葉を理解・理知で受け取ろうとしすぎです。感性を大切にしてほしいです。

「今、いのちがいきている」
素敵なテーマですね。
亡き祖父の口癖を思い出します。地元言葉で、「命っが生きちょう」「他の命ば、授かっちょうたっど」
農業は毎日が、自然農法しても、生殺与奪です。

・多殺~溢れすぎる混乱した情報・雇用状況により、自他の区別の認識が薄れている時代のまた違う意味の犠牲者だと思います。もちろん殺人はいけない事ですが。

「今、いのちがいきている」
勉強したいと思います。

☆tanukiさんへ
「命が生きちょう」
かっこいいですね。
テーマも、「今、いのちが生きちょう!!」ってすればよかったかな。(べつの苦情がくるんだろうな…)
 
坊さんにテーマの話をさせると、「いのち」は「阿弥陀さま」を意味するのです。生命のことではなく、阿弥陀さまです、と話します。
「今、阿弥陀のはたらきが私を生かしめているのです」と。
それを伝えたいのです。私も、そんなふうに話したこともありました。
でも、もっともっと泥臭く、「いのちが、生命が、私となって生きている」「他のいのちをいただいて、今の私があるんです」って、解題してもいいなと感じています。
話すほうに、伝えたいという泥臭さが足りないんですよね。

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