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2008年8月21日 (木)

春秋を識らずを知る

セミやアリについて書いていたら、「蟪蛄(けいこ)は春秋を識(し)らず」を思い出しましたというコメントをいただきました。
  
「蟪蛄春秋を識らず」とは、「蟪蛄」はセミです。セミは夏の虫です。夏になると大合唱をするセミ。さぞかし夏のことをよく知っているだろうと、思ってしまいます。が、よく考えてみてください。地上では夏しか生きていないセミは、春と秋のことどころか、春とか秋があるということも知らないわけです。ということは、夏という季節のことも知りえないわけです。 
自分が専門にしていることを知っていれば、それさえ突き詰めればいいのかと思っていたけれど、そこだけしか知らないということは、周りのこと、他のことを知らないわけです。周りとの、他との接点なく、自分の興味あることを極めようとしても、それではなにも分からないのです。
そのような例えです。
 
以前、「蟪蛄は春秋を識らず」について書いたことがあるので、読み返していました。2年前の文章ですけど、よろしかったら、お読みください。
 
ケイ蛄春秋を識らず
われら春秋を識らず
 
      
 
昨晩、「クイズ雑学王 スペシャル 芸能人雑学王最強No.1決定戦」というクイズ番組を、夕飯の片づけをしながら見ていました。
  
「飛行機の両翼の翼についているライトは、色が違います。なぜでしょう」
「灯台は白に決まっているのですが、中には白と黒のストライプ、白と赤のストライプのものもありますなぜでしょう」
「リカチャン人形の靴は、小さな子が口に入れても大丈夫なように工夫がしてあります。どのような工夫でしょう」
「電柱の住所表記には、青のものと緑のものがあります。違いはなんでしょう」
知ってるとなんてことない問題だけど、知らないと全然分からないような問題ばかり出て(ホント雑学ですね)、答を聞いては「なるほどぉ」と関心してました。
   
で、答の発表の仕方なのですが、それぞれの専門化に答を説明してもらっているのです。
いろいろなことを専門にされてる人がいるんだなぁ、いろいろな職業があるもんだなぁと、そこにも関心してしまいました。
 
世の中、知らないことだらけです。かといって、いろいろなことを知るにも限界があります。
人それぞれに、いろいろなことを学び、見に付け、世の中に還元する。
人と人とが集まって、接点を持つからこそ、いろいろなことが構築されていくんだなぁと感じました。
 
自分ひとりの経験では、分かったつもりでいることも、まるで分かってないのかもしれません。
もっと知ることがたくさんあるのに、小さくまとまっているかもしれません。
見えているつもりで、なにも見えてないのかもしれません。
それすら知らない自分を、知りたいものです。
 
(追記)
クイズの答が気になりますよね。ながら見だったので、問題の文章や答の説明が番組の通りではありませんが、とりあえず書いておきます。
 
「飛行機の両翼の翼についているライトは、色が違います。なぜでしょう」 
たしか、飛行機に向かって左が緑色・右が赤色だったと思います。 
自分が飛行機のパイロットだとします。今、夜の空を飛んでいます。前方にライトが見えてきました。緑色だけ見えます。ということは、自分の前方を左から右へ向かって飛んでいる飛行機があるということです。赤の場合は逆。そのように、色を違えることで、前方を飛んでいる飛行機の翼のライトしか見えなくても、進んでいる方向が分かるわけです。
  
「灯台は白に決まっているのですが、中には白と黒のストライプ、白と赤のストライプのものもありますなぜでしょう」
灯台は、白と決まっているんですって。それすら知りませんでした。でも、例外がある。それはなぜか。
答は、雪がよく降る地域の灯台はストライプになっているのでそうです。そう、白だけだと雪景色に紛れてしまうからですね。
問題を聞いたときは、「雲と混ざるから」だと思ったのですが、「雪」でした。
 
「リカチャン人形の靴は、小さな子が口に入れても大丈夫なように工夫がしてあります。どのような工夫でしょう」
これは、問題を読んでピンときた人もいるんじゃないかな。
リカチャン人形の靴は、「苦い」んだそうです。お持ちの方、なめてみてください。
 
「電柱の住所表記には、青のものと緑のものがあります。違いはなんでしょう」
東京でいうと、電柱の所有者が、緑は東京電力で、青はNTTなんだそうです。
工事をする際、その色で判別しやすいためにだそうです。色が分かれていることすら気にしていませんでした。

途中まで興味深く見ていたのですが、いつのまにかチャンネルを換えてしまいました。誰が優勝したのか見てませんでした。今は、それが知りたいです。 

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コメント

昨日は「白骨の会」に初めてお邪魔させていただきまして、ありがとうございます。お寺という場において、僧侶の方の一方向的な法話が殆ど主を占める聞法会も我々門徒にとっては不可欠ですが、このような集まった人が自由に会話出来る会があることも素晴らしいと感じました。これからのお寺様は、伝統の範囲に留まらずにもっと色々な役割を提供していく必要があるのではないかと感じました。それが具体的に何であるかはまだ解かりませんが。

☆やすさんへ
聞法会だけでなく、白骨の会にもお出かけいただきまして、ありがとうございます。姿を見かけたとき、うれしかったです。
寺は、いろいろな可能性がある場所です。そういう意味では、「(法事をする場所としての)寺の崩壊の危機」が叫ばれていますが、その寺は崩壊しても、サンガとしての寺はいつまでも続くと信じています。
これからの寺のあり方は、みんなで模索し、みんなで作っていきましょう♪
よろしくお願いします。

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