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2008年8月27日 (水)

出来事によって人生の幸不幸が決まるのではない。ことばによって人生は幸にも不幸にもなる

今朝、掃除のために水をくんだバケツを持って、山門の前を歩いていました。
 
バケツを左手に持ち、私とバケツの分で歩道をふさいでいました。
 
前方からおばあさんが歩いてきます。
  
このままでは私が邪魔をしておばあさんが歩道を通れないので、自分の前にバケツを両手で持ち直しました。
  
おばあさんとすれ違いました。
  
すれ違うときにおばあさんは言いました。
   
「私が通るばかりに、バケツを持ち直させてごめんなさいね」
 
おばあさんのせいで持ち替えたなんてつもりもないし、道をふさいでいるのは自分だと思っていたので、そのことばにビックリしました。
  
「い、いえ、(こころの中では:そんなこと言っていただいて)ありがとうございます」
  
考えもしなかったことばに、しどろもどろになってしまい、会話にならないことを言ってしまいました(恥)。
  
お互い笑顔で会釈し、それぞれの方向に歩き出しました。
 
朝の一言が、一日を幸せにします。
 
ありがとうございます。
 
 
 
「私がいるばかりに、迷惑をかけてごめんなさいね」  
 
存在とは迷惑をかけることなのかもしれない。
 
しかし、だからこそ相手に対してすまないという想いが湧いてくる。
 
迷惑をかけないように生きることが大事なのではない。
 
お互いに迷惑をかけ合いながらも、それぞれが認め合い、受け入れ合うからこそ尊い。
 
「私がいるばかりに、迷惑をかけてごめんなさいね」
 
それが、わたし

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コメント

小さなご縁(本当は小さくはない)の一つ一つにも眼を向けることが出来る、かつさんのようにそういう眼が与えられると、何時でも何処でも豊かで円満している境遇に生かされることになるのでしょうね!

本日、ご案内いただいた会館でのI先生の学習会に行ってきました。始めは「教巻」冒頭部の先生独自の科分・科文の説明が続いて、学者仕事の解説か? と感じていましたが、その後に聞きごたえのある法話となりました。真宗とは仏教史観の眼であるということと、諸仏に遇うことだけが阿弥陀様に値う方法・経緯であるという二つが大きなテーマでした。自分にとっての諸仏・師教を探すことです、と仰っていました。

そこで最後の質疑応答の時間に私が、諸仏とは還相の菩薩、あるいは本願力回向に由り仏性を顕わす人ですか? と質問したところ。「うーーーん・・・そう思っていてよいが満点ではない。それはあなたの宿題とするから私は答えない。」と言われてしまいました。その後、車で帰宅する途中も、帰宅してからも、宿題のことばかりに気が行ってしまいます。今夜は眠れそうもありません。助けてください。教えてください!!

☆やすさんへ
楽しい(?)聞法の時間を過ごされたようですね。
宿題、難しいですね。
 
「諸仏とは還相の菩薩、あるいは本願力回向に由り仏性を顕わす人ですか?」
という問いに、
「そう思っていてよいが満点ではない」
と応えられたI先生。
満点には少し足りないという意味ではなくて、それを満点にするのも零点にするのも、あなたしだい(あなたの宿題)ということではないでしょうか。
私は、やすさんのコメントの中に答があるような気がします。
「小さなご縁(本当は小さくはない)の一つ一つ」
 
(本当は小さくない)って、書かれている時点で、諸仏を満点にいただいているのだと感じています。
 
応えにはなっていないかもしれませんが、
私はそう感じました。


ありがとうございます。一切諸々のご縁が諸仏である、という気もしていたのですが、それを先生に聞き返すタイミングはありませんでした。しかし、このことも思っているだけではダメですね。正に永遠の宿題・課題であると感じます!

☆やすさんへ
「正に永遠の宿題・課題であると感じます!」
そのように、ご自分で感得されたこと、尊いことと思います。
 
「一生の宿題です」って、真宗僧侶の常套句なので、
いや、表現としてはそのようにしか言えないのだけれど、
人に言われるよりも自分で感得されないと、意味のないことばだと思うのです。

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