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2008年8月25日 (月)

学生(がくしょう)

8月23日(土) 西蓮寺にて「白骨の会(西蓮寺仏教青年会)」を開催しました。
参加者は、私を含めて6人。特にテーマも設けず、誰かが語り始めたことを中心に置いてフリートーク。
今回初参加の方もいらっしゃいましたが、午後5時から8時まで、話が途切れることなく、みんなで語り合いました。
 
話の内容については、秘密。
そこに身を置いて、面と向かって思ったことを語り合う時間。そこにいるからこそ、顔が見える安心感を胸に、正直に語り合いたい。なので、ここでは書きませんね(私が発題したことを書くことはありますが)。
  
今回参加された方の中で、自分の夢のために新たな一歩を踏み出された人がいました。
偶然ですが、今回は欠席だったけど、白骨の会レギュラーの方にも、新たな一歩を踏み出された人がいます。
おふたりとも私より年上。職を辞し、先ずは学校に通う準備をされています。これから学生としての一歩を踏み出されます。
  
タイトルに「学生」と書きました。読み方は、「がくせい」ではなく、「がくしょう」です。
「学生(がくしょう)」とは、元々仏教語です。
意味は「仏教を学ぶ者」です。
ですが、こんにち「学生(がくせい)」は、自身のこれからの歩み・生活のために学びます。あるいは、よりよい生活のために、少しでも良い学校の「学生」になろうとします。しかも、学校を卒業したら、学びをやめてしまいます。あんなに勉強したのに…。
「学生(がくせい)」は、自分のための学びになってしまっています。そして、ある時期が来たら、「学び」をやめてしまいます。
 
ところが、「学生(がくしょう)」は、仏教の学びを通して、学んだことを深く噛み締め、自身を見つめ、自己を知るのです。そして、自己を知った歩みを通して、多くの悩める人々をすくい、安らぎを与えていくのです。
「学生(がくしょう)」は、自己の学びを通して、その歩みの姿によって、周りの人々もすくわれていくのです。そして、そのあゆみは終わることがありません。
 
仏教語としての「学生(がくしょう)」ということばが、時代を経て「学生(がくせい)」となった今、内容も「他力」から「自力」へと変わってしまいました。 
 
新しい歩みを始められたおふたりへ。
おふたりの真摯な気持ちは、痛いほど伝わっています。でも、初めから「人の為」と頑張ったのでは、いつしか「偽」に変わってしまうことでしょう。先ずは、ご自身の夢に向かって、学びを究めてください。その学びのお姿が、周りの人間にきっと安らぎを与えることでしょう。それが、ご自身の満足となることでしょう。
しかし、満足してしまえるようでは、学びも止まってしまいます。「一生をかけた学びが始まる。始めることができた喜び」…満足の根っこは、すでに足元にあるのです。
どうぞ初心を忘れず、学びの人生を歩み続けてください。
 
おふたりからは、「物事を始めるのに遅すぎることはない」ということを学びました。ありがとうございます。
 
愚痴りたくなったとき、面と向かって話をできる人々と会いたくなったとき、「白骨の会」にお出かけください。みんなでワイワイお話しましょう。いつでも待ってます。
次回は9月13日(土) 午後5時~8時頃です。

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コメント

「人の為」のどれだけ難しいことか。
ついつい、自分を偽善者にしてしましがち。
常に、自分の初心を大切にしながら学びを大切にしていきたいです。
学びたいというものに出会えた喜び。これが私の初心です。

☆たかさんへ
私もバリバリ偽善者です
これからのたかさんの学びの歩み、応援し続けます

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