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2008年8月 6日 (水)

たくさんのことを学びました

8月5日、松本サリン事件の被害者の河野澄子さんが亡くなられました。
松本サリン事件が起き、河野義行さんが犯人扱いされたのは周知のことです。
義行さんの奥様 河野澄子さんはサリンによって意識をなくし、ついに回復することはありませんでした。ご家族の負われた傷を思うと、胸が痛みます。
事件で犯人扱いされているときから河野さんとお子さんのお姿をテレビで拝見していましたが、みなさんの毅然としたお姿には、こころ動かされてきました。果たして、自分があのような立場に立たされた場合、あのような姿勢を貫けるでしょうか。
 
義行さんは、仕事が終わると毎日のように病院に向かい、奥様に話しかけていらっしゃいました。
おふたりにしか感じ得ない世界があったんだろうなと思います。
 
ここからは、私が独自に感じていることです。
よく、「生き甲斐」を求めると言います。でも、「生き甲斐」ってどういうことなのでしょうか。
「生き甲斐」を求めている人が考えているのは、生きていることに充実感があって、それが喜びに変わることではないでしょうか。と、感じます。
 
私は、「生き甲斐」ということばを考えるとき、
『河野さん一家は「生き甲斐」に出遇ってしまったんだ』
と、感じるのです(変な表現ですみません)。
その「生き甲斐」って どういう意味ですか? と問われると、うまく説明できませんが、「一生かけて背負うこと」とでも言うのかな・・・。
一般的に考えられるような「生き甲斐」とは、まるで違うものだと思います。
私が考える「生き甲斐は」見つけてしまったら、苦しいのです。つらいのです。でも、そのことを一生こころに留めながら、生きていくのです。つらいけれど、そのことが私を生かすはたらきとなるのです。
 
  
あるとき、私が『河野さん一家は「生き甲斐」に出遇ってしまったんだ』って話をしたら、
「そうですね、サリン事件の犯人が全員死刑になるように、頑張るんですものね。まさに生き甲斐ですね」
と、受け止められたことがあるのですが、そうじゃないのです。
べつに、何か目的があって、それを達成するために「生き甲斐」を得たと言っているのではないのです。
ただ、「あることを明確にこころに留めながら生きていく。そういうものに出遇ってしまった」のです。うまく言えませんが、「生き甲斐」ってそういうことだと考えています。
つまり、「生き甲斐」って、見つけてしまうと、本来苦しいものだと思うのです。
しかし、私が考える「生き甲斐」も、一般的に考えられているであろう「生き甲斐」も、見つけたら人生がいきいきしてくるのです。そこは同じなのです。不思議なことに。
  
河野澄子さんの訃報に接し、
確かに自分自身に出遇い、自分を生きぬいたご家族のことを思い出していました。
家族のあるべき姿を見させていただいた河野さん一家に、感謝申し上げます。
(お別れのことば「ご冥福をお祈りいたします」「安らかにお眠りください」とかって、他人事になっているように感じるのです。自分が亡き人からなにをいただいたのか。そのことを告白できる表現がいいなぁって思います。なかなかしっくりくくる表現もないのですが)

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