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2008年7月 9日 (水)

宿業・・・

7月9日(水)西蓮寺聞法会でした。
本山出版部から出ている「真宗の生活」をテキストに話をさせていただいています。
7月の題は、「宿業のかがやき」
 
宿業…分かっているようで、全然分かってないこと。
付け焼刃の勉強で話すよりも、参加された方々に「宿業」について聞いてみました。
「宿業」って言葉、今、使いますか? 使うとしたら、どのような使い方をされますか?
当ブログをお読みのあなたも、「宿業」って言葉、今、使いますか? 使うとしたら、どのような使い方をされますか?
  
大まかに分けて、次のような応えをいただきました。
「運命」
「今、いただいている身の事実」
  
やはり、運命論・宿命論・刹那主義・あきらめ主義的に受け止めている方が多かったです。事実、そのように解釈されているだろうなってことは、予想していました。
 
宿命・・・運命論・宿命論・刹那主義・あきらめ主義ではないことを、お伝えしたく思います。
 
負の歴史についてお話します。
中村久子さんという方がいらっしゃいました。幼い頃の病気のため、両手両足をなくされた方です。そのお母さんが厳しい(けど、本当にお子さんのことを思っている)方で、自分で裁縫ができるまでに、育てられました。
生活に困らないように、厳しく育てられた中村さんですが、やはり不自由は感じます。どうしてこのような身になったのか、悩み、恨み、苦しまれました。
そんな中村さんに、真宗の僧侶が、「あなたが今、そのような姿になったのは、前世の行いによるのです。ですから、今、そのことを悩んでも仕方ありません。それよりも、次の世に、素晴らしい生まれを果たすために、今は現実を受け止め、南無阿弥陀仏と念仏申しなさい」と説教をされました。
特定の僧侶の話ではありません。今現に苦しんでいる人々に、それは前世の行いが悪かったためで、今更どうしようもありません。それならば、現実から逃げようとせずに、現実を受け止め、来世のために念仏申しましょう」という布教をされていた時代があったという話です。
 
過去世や来世があるのか、そんなことは誰も知りません。誰も覚えてないし、誰も知らないのですから。そういうことよりも、今の私の身の事実をしっかりと受け止めて欲しい。真宗の教えの醍醐味だと思います。
 
ここからの話に迷いました。
だって、「来世のために念仏しなさい」と説教するのと、「今の私の身の事実をしっかり受け止めて欲しい」という願いを語ることと、まるで違うのですが、とても同じにも聞こえてしまうのです。
「今の私の身の事実をしっかり受け止めて欲しい」ということを伝えたくて、ことばにならないことばでお話させていただきました。
 
過去世とか来世とかいうと、今の自分と分断されてしまうと思うのです。見る人が見ると、過去世と現世と来世ってつながっているのかもしれません。でも、それでは刹那主義・あきらめ主義、責任転嫁、もっと言うと投げやりな気持ちに陥ってしまうのです。
「宿業」について、「縁」ということでお話させていただきました。今の私は、父と母の縁をいただいて生まれ、生きているわけです。その父母にも、それぞれ父母がいて、更にその父母にも父母がいて・・・・・・だれひとり欠けたとしても、今の私は生まれ得ません。
今の私の境遇・思想・交友関係も、自分の力で築いたものではありません。生まれてから今までに出会った人々との縁によるのです。
そういう意味では、過去から連綿と続き、更に未来へと続いていく歴史の中を、今、私は生きているわけです。「今の私の身の事実」は、そうした縁によって成り立っています。
「宿業」とは、「縁」を生きる(生かされている)私の姿を表わしたことばだと思います。
 
と、お話させていただきました。私の偽らざる気持ちです。
でも、それでも、過去世・現世・来世を持ち出して説明する「宿業観」とどう違うのさ?なんて問われたら、ことばもありません。
 
今月の掲示板のことば・・・
 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
 死ぬ時節には死ぬがよく候。
 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
 
このことばも、災難に逢うとき、死ぬときというのは、「宿業」です。
でも、それは前世の行い云々ではなくて、「今を生きる私の身に起こる事実」なのです。
けっして、前世への責任転嫁でも、あきらめさせるためでもなく、否定し得ない現実なのです。

「前世の行いが悪かったため・・・」と説教する僧侶に対し、中村久子さんは、「先ずはあなた自身が手足をなくしてから、そういうことをおっしゃい」と、言いました。そして、「現代のように、血の通わない仏教にしてしまったのは、そういう布教が正しいと思って僧侶が語るからです」と、訴えてくださっています。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」ということばも、聞く人によっては、中村さんと同じことを思われると思うのです。「先ずはあなたが災難に遭ってから、そういうことは言いなさい」って。
でも、そのことばを書かれた良寛さんも、このことばって大事だな、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいなって思った私の気持ちも、諦めの気持ちはまったくないのです。今の私の姿から、これからの人生はスタートするのです。そのことを忘れないで欲しい。たとえどんなにつらくても。
 
今、つらい想いをされている方がいる。その想いは、結局は本人にしか分からない。ということは、その人だからこそ味わえる。その人だからこそ、託された現実だと思うのです。他の誰でもない、この私に…今の現実をいただいた。
そのことを人生の芯に、核に、持っていて欲しい。そういうことをお話させていただきました。
とは言ってみたものの、やっぱり難しい。「そのことを人生の芯に、核に、持っていて欲しい」ということばも、聞く人によっては運命論にも受け取られるだろうし、聞く人によっては、「身の事実」と受け止められるだろうし。
  
「宿業」ということを、曽我量深師は「本能」と、金子大榮師は「個性」と、安田理深師は「本願」と感得されました。ことばは違うけれど、みんな同じことを言っているのだと思います。
この身だからこそ、阿弥陀如来の慈悲が私に届いている、と。
 
      
 
話が終わって、参加されていた門徒さんがおっしゃってくださいました。
 
今日読んだところの題、「宿業のかがやき」だったでしょ。「宿業」が「かがやき」って、とても希望が持てます。あぁ、かがやいているんだなぁって、感じました。
 
そのことばをお聞きして、今日話そうとしたことは、それに尽きるなぁって思いました。ありがとうございます。
今、わたしのいのちはかがやいている。
そうですね、かがやいているんです。とっても。みんな、みんな。

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コメント

本日は猛暑の中を拙宅にお参りいただき、ありがとうございます。夏は僧侶の方には一番厳しい季節でしょうね。私は半袖シャツ1枚で失礼致しました。長時間お引き留めしてしまったようでありながら、楽しい法談の時間はアッという間に過ぎてしまいました。また、宜しくお願い致します。

☆やすさんへ
15日は、長い時間お邪魔して、失礼致しました。
今年もカレーライスをご馳走になり、ありがとうございます。とても美味しかったです。
私は、勉強不足の身で、お話になっているかどうかも心配ですが、時間をかけてゆっくりお話の時間が持てて楽しかったです。
たっぷり時間を空けてお参りさせていただきますので、来年もよろしくお願い致します。

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