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2008年6月

2008年6月26日 (木)

古くて新しい話

憲法9条に触れたので、もうひとつ9条絡みのお話を。
ちょっと古い話ですが、5月4日、「9条ピースウォーク」に参加してきました。場所は幕張。
ピースウォークとは、デモ行進のように声高に願いを叫びはしないけれど、願いを同じくするものが行進することを通して、願いの輪を広げていく運動です。そのピースウォークに賛同した者が、ひとり、ひとりと、列に加わっていけるのも特徴。ピースウォークが終わるときには長蛇の列になっていることも。
 
9条ピースウォークは、今年の2月24日に広島市を出発して、岡山ー兵庫ー大阪ー奈良ー京都ー滋賀ー岐阜ー愛知ー静岡ー神奈川ー東京、そして幕張へと続いてきたのでした。
ピースウォーク参加者の中には、広島からほとんど歩き続けた方もいれば、自分が参加できるときだけ飛び飛びで参加される方も。だから、「京都でお会いした方ですよね」というような、懐かしい友人と再会したような喜びの声も聞こえてきました。
ピースウォーク最終日の幕張に、チョコンと列に加わった私は、申し訳ないなぁという気になりました。
 
さて、ピースウォークも終わり、幕張メッセ近くの広場に集合しました。
参加者で大きな輪を作りました。そして、ある一人が自分の左隣の人に握手とお礼を始めます。ギュッと手を握り、相手の眼を見て、「ありがとう」って。それが終わると、また左の人と握手、そしてまた左の人と…。握手された人は、次は自分の左隣の人と握手します。ギュッと手を握り、相手の眼を見て、「ありがとう」って。
それが続いていくと、輪は、みんなが、みんなと握手をすることになります。
ずっと歩いてきた人であろうが、その日だけ参加した人であろうが関係なし。
日本人であろうが、外国の方であろうが関係なし。
男であろうが、女であろうが関係なし。
宗教が違っても、肌の色が違っても関係なし。
 
ギュッと手を握り、
 相手の眼を見て、
   「ありがとう」

手のぬくもり、
 眼の持つ力と優しさ
  ことばの響き
 
ひとつの願いが通じ合っている。それだけで人間は生きていけるんだなって、強く感じました。

2008年6月25日 (水)

自分の好きにしたら、どうなることでしょう

24日、「憲法解釈の変更を」という見出しで報じられたニュースがありました。
  

憲法9条解釈の見直しを検討してきた「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」は24日、現行の憲法解釈では禁じられている集団的自衛権の行使を容認するよう求めた報告書を福田康夫首相に提出した。

  
自分の意見に合わせるために、「憲法9条解釈の変更を」と言っているようにしか読ませんでした。
 自分はこのように思っている。
 自分はこのようにしたい。
 自分の意見が正しい。
だから、憲法の解釈の変更を・・・
それが成り立ってしまえば、憲法も、法律も、約束ごとも、暗黙の決まりごとも、ぜんぶ自分の都合のいいように変えられてしまう。
ということは、憲法も、法律も、約束ごとも、暗黙の決まりごとも、ぜんぶ無いのといっしょではないだろうか。
 
自分の意見・思想・考え方を基点として、みんながまもるべき約束ごとの解釈を変えようとする姿勢に驚きました。
しかし、法律やルールは、世や時代によって変わるもの。数年前には無かったルールが生まれてくることもある。不可だったことが可になったり、可だったことが不可になることもある。つまり、流動的なもの。
恐ろしいなと思ったのは、国家権力を持っている方々が、憲法までも、自分たちの都合のいいように解釈できると思っていることです。
  
 
     
6月16日~18日、研修会(第45回全国青年研修会 IN TOKYO いのちの渦-憲法9条はだれのもの?)に参加させていただきました。
 
憲法、特に日本国憲法9条を学ぶことを通して、人を人として見ることができない現実に触れ、人間の深く悲しい姿に光が当たるような研修会を開催していきたい。
-研修会の呼びかけ文より-
 
16日は、伊藤真先生(資格試験予備校伊藤塾 塾長・弁護士)のお話を聞かせていただきました。 
憲法と法律の違いについてお話くださったところが印象に残っています。 
     
法律は、国民の自由を制限して、社会の秩序を維持するためのもの
 →国民に対する歯止め
憲法は、国家権力を制限して、国民の人権を保障するためのもの
 →国家に対する歯止め 
    
伊藤先生曰く、「憲法は法律の親玉みたいなものだと思っている人がたくさんいますが、そうではありません」
私もそのように勘違いしていた一人でした。
「憲法は、国家権力を制限して、国民の人権を保障するためのもの」
憲法第99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあります。「国民」の記述がないのは、憲法は、権力の暴走を予期し、それを防ぐためのものだから。
    
 
   
常々不思議に思っていることがあります。 
憲法9条をどのように読めば武力を持てるのだろう、海外に派兵できるのだろう、人を殺せるのだろう、自分の大切な人を戦地に行かせられるのだろう、人と人が殺しあえるのだろう・・・
そして、もっと不思議に思っています。
どうして戦争をしたがっているのだろうって。
  
 
憲法にしても、人の話にしても、読んでいる本や見た映画のことだって、
誰もが、自分の都合のいいように見、聞き、受け止めてしまうもの。
人それぞれの、受け止め方があるもの。
 
でも、
憲法にしても、人の話にしても、読んでいる本や見た映画のことだって、
自分の理想に合わせて見、聞き、受け止めてしまうのは、
私が対しているあなたを無視するようなもの。
無視の結果は、自己否定。
   
   
権力の暴走・国民の無視が、目に見える時代。
今、自分にできることを考えています。


 
日本国憲法
第2章 戦争の放棄
第9条 
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2008年6月 1日 (日)

2008年6月のことば

Dscf1949
 苦悩を抱えている
  その一点で人間は尊い
          佐野明弘

 
寺の山門の前が泥で汚れていたので、ブラシ掛けをしました。水をまいてブラシ掛けをすると、泥は水に溶けて流れます。しかし、きれいに流しきらないと、泥汚れはかえって広がってしまいます。
きれいなところに汚れが付くと、汚れの方が勝ってしまいます。きれいだったところも、あっという間に汚れてしまいます。
キチンとした生活をしていても、手を抜くことを覚えると、すぐに怠惰な生活になってしまいます。
約束事を守ってきたのに、ちょっとくらい守らなくてもかまわないという気持ちが芽生えると、すぐにいい加減になってしまいます。
 
そんなことを考えていて、親鸞聖人の ご和讃(曇鸞和讃)を思い出しました。

  名号(みょうごう)不思議の海水(かいしい)は
   逆謗(ぎゃくほう)の屍骸(しがい)もとどまらず
   衆悪(しゅあく)の万川(ばんせん)帰しぬれば
   功徳のうしほに一味(いちみ)なり

  尽十方無碍光(じんじっぽうむげこう)の
   大悲大願(だいひだいがん)の海水に
   煩悩の衆流(しゅりゅう)帰しぬれば
   智慧のうしほに一味なり

「川の水がたとえどんなに濁っていても、海に流れ込めば、川の水も清浄になります。そのように、衆生の濁ったこころも、阿弥陀如来の大海のような慈悲のこころに優しく包まれます」
川がどんなに濁っていても、海に流れ込めば清浄な水となるはずなのに、現代では、川だけでなく、海をも汚してしまっています。そんな時代の衆生の濁ったこころでさえも、弥陀の慈悲のこころは、人間を摂(おさ)め取って捨てません。
実際は、汚れたものがキレイになるわけではありません。汚れたものが汚れたままに、清浄な水に溶け込んでいくのです。受け容れられているのです。
 
   ☆ ☆ ☆
   
人間の汚れとは、どこから来ているのでしょうか?
人間の有り様を嘆く声は、日々大きくなっていきます。自己中心・マナー違反・傍若無人な振る舞いは、まさに濁った人間の姿です。
しかし、それが人間の汚れだとすると、自分を抜いて考えてしまいます。「私は、そんなにひどい人間ではない」「あいつはひどい奴だ」と。

「苦悩」とはなんでしょうか?
「苦悩」というと、私たち個々が日常抱えている悩みのことだと思ってしまいます。
しかし、「苦悩」について、もう一歩踏み込んで考えてみたいのです。「苦悩」が、個々に抱える悩みを指すのならば、「苦悩」を抱えない人は苦しまないし、抱えた人だけが苦しむことになってしまいます。同じ「苦悩」を持つ者どうしでしか通じ合えなくなります。いや、同じ「苦悩」を抱えていても、なかなか通じ合えないものです。
 
弥陀の慈悲のこころは、あらゆるものを摂めとって捨てません。
 「あなたは海にお入りなさい」
 「あなたは入ってはいけません」
と、取捨選択しないのです。生きとし生けるものすべてが対象なのです。
私たちが考えるような「濁った人間」や「苦悩」は、分別が生じます。自分を善き者とし、他者を貶めてもしまいます。
 
「苦悩」とは、普遍性があり、かつ持続性があるもの。つまり四苦(生老病死)。
誰もが、生きている限り抱き続ける「苦悩 (四苦)」がある故に、人間は悩み苦しみ、濁りゆく。そこに、尊さがある。

  苦悩を抱えている
   その一点で人間は尊い

  
「尊い」とは、人間が、人間の目で見て、人間が尊いのではありません。阿弥陀の目で見て、人間が尊いのです。だからこそ、摂めとって捨てないのです。
  
  
   ☆ ☆ ☆
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。
6月の人形は、カエルと金魚と朝顔です。
今年は雨がよく降りますね。みんな喜んでいます。
 
Dscf1946

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