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2008年5月28日 (水)

ご葬儀について考えてみました②

「お葬式って、どうしてするのでしょうか?」
そのように問われて、日ばかりが過ぎてしまいました。すぐにお応えできず、お待たせてしてしまい、申し訳ありません。
 
ご葬儀とは、亡き人とのお別れの場であるわけですが、
そのご葬儀を通して、自身の今までの生き方、これからの生き方を見つめなおす、つまり、私自身が問われる場だと思うのです。
 
これぐらいのお応えならその場ですぐに出来ましたが、「お葬式って、どうしてするのでしょうか?」と問うた人の気持ちを考えたとき、そういうことが聞きたいのではないような気がしたのです(私が勝手にそこまで考えてしまっただけなのかもしれませんが)。

「ご葬儀について考えてみました①」でも書いたように、いのちあるものは、いつかいのち終えるときを迎えます。しかし、そのことを知識としては知っていても、自分には関係ないこと、遠ざけたいこと、触れたくないことにしてしまって生きています。亡き人は、いのちあるものが迎える姿を、我が身をもって、私に先立って示してくださっているのです。いわば人生の師です。
一般的にご葬儀では、生きている人が亡き人に対し、「安らかにお眠りください」「冥福を祈ります」といって手を合わせます。その心は純粋だとしても、それでは、亡き人との関係がそこで終わってしまいます。そう思いませんか? 安らかに眠ってしまうんですよ。
で、私たちは、「安らかにお眠りください」と言いながら、我が身にいいことが起これば亡き人に報告し、我が身に良くないことが続けば「亡き人が迷っているのでは」と不安になる。安らかに眠ってなんていられません。
だからといって、亡き人のことを想わないようにしましょうというのではありません。そうやって、我が身に起こる出来事のひとつひとつに我がこころは揺れ動く。それは、生きている限り避けられないことです。いや、そういう揺れ動くこころを、生きていると表現するのではないでしょうか。その揺れ動くこころは、亡き人を想うこころに投影されています。亡き人を縁として、生きているわたしの姿を感じられる。
亡き人は、そういう姿を、私に一生懸命見せよう見せようとされているのだと思います。休む間もなく。
そのように揺れ動くこころを感じたとき、それを無くそう無くそうとするのではなく、「あぁ、これが私の姿なんだ」とうなづけたとき、いつの間にか目の前に合わさっている私の手があるのです。
 
生きている者が亡き人のためにする儀式がご葬儀なのではありません。
亡き人を縁として、生きている私を感じさせていただくのがご葬儀なのです。
生きている私を感じるといいましたが、「今の私は、果たして生きていると言えるのだろうか?」と、我が身を見つめなおす場だと思います。

ご葬儀が、もし亡き人を送るだけの儀式ならば、やらなくてもいいと思うのです。
逆に言うと、葬送の儀式を勤めてきた歴史とは、そこで自分自身を見つめなおす人々がいた歴史だと思うのです。ご葬儀が簡略化されてきています。それ自体は、時代・環境の流れで、仕方がないことだと思います。しかし、形は変わっても、ご葬儀をお勤めする大切な意味はあるはずなのです。
簡略化ならまだしも、ご葬儀をお勤めしない方も増えています。ご葬儀の場に立ち会うことがない我が人生…いったい、どこで我が身を振り返ることがあるのでしょう。どこで私に会うのでしょう。どこで手を合わせるのでしょう。

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