2008年5月のことば

生きていてたのしいと思うことのひとつ
それは人間が人間に逢って
人間について話をするときです
相田みつを
聞いてくれる人がいるから
話すことができる。
話してくれる人がいるから
聞くことができる。
自分の正義の主張
自分の都合の押し付け
愚痴を零す
他人(ひと)の評価・悪口
それも「人間について話をするとき」かもしれないけれど、そのような話は、他人を傷つけ、自分をも否定していることを忘れてはいけない。それに、そのような話をしているとき、聞いている人は誰もいない。
しかし、そのような話をすることが好きなのも人間。たしかに、楽しいことかもしれない。けれど、自分の正義を主張し、自分の都合ばかりを押しつけていると、そのしわ寄せは、自分に来ます。愚痴を零し、他人の悪口を言い、誰かを見下していると、その矛先は、いつしか自分に向いている。
正義の主張・都合の押し付け・愚痴・中傷・批判。それらをやめることはできない。その楽しさに身を任せ、いつしか足元すくわれる。たとえその瞬間は楽しくても、他者から自分に対する憎しみや、自身の孤独しか生み出さない。気付いたとき、独りになっていることでしょう。
語り合うことが大事だと言うけれど、それもまた難しい。話せば話すほど分かり合えなくなることもある。平行線をたどることもある。誤解が生じることもある。
このように書いていると、話をすることが恐くもなってしまいます。で、相田さんのことばを読み返す。
「人間が人間に逢って」
大事なことを見落としていました。人間に逢わずに、人間について話すことはできません。
自分が関わる集まりの中で、正義の主張・都合の押し付けをすることもあります。仲間に対し、愚痴を零すこともあります。そこにいない人の悪口を言うことだってあります。
でもそれらは、人間に出逢っているからこそできることです。出逢い、話すこと。つまりそれは、日々の生活です。日々の生活そのものが、生きていてたのしいこと。たのしくないって? さて、どうしてでしょう。
「あう」を、「会う」ではなく「逢う」と書いていますね。「逢う」とは、愛しい人・大切な人に「逢う」ということ。愛しい人・大切な人といっても、誰か特定の人を指しているのではありません。すべての人々を愛しく、大切に想っているからこそ、「逢う」と表現されているのですね。「逢う」の感覚。先ずはそれが、「たのしい」ことの第一歩ではないでしょうか。
人生において、私ができることは限られています。私が経験し、身に付け、感じたことは、とてもとてもわずかなことです。でも、その感じたことを、人に話すことを通して、感動は何倍にも膨らみます。知らなかったことを知らされます。今までとは違うものの見方を教えられます。
同じ年齢、同じ学校、同じ職業、同じ環境にいる人と話をすることは大切です。しかし、そこでグループが形成され、殻に閉じこもり、あたかも普遍的な意見を語り合っているつもりで、まったく独善的な考え方に陥ってしまうことがあるものです。
年齢・性別の隔てなく、様々な環境に身を置いたものが、自分の感得したことを語り合う。当然、同じ境遇に身を置くものどうしが語り合うよりも、考え方の相違や納得できないことはあると思います。しかし、他人の話に耳を傾け、聞き、自分の中で反芻してみる。なるほどと思えることもあれば、やっぱり納得できないこともあることでしょう。でも、そこには聞くという姿勢が生まれます。
人間が人間に逢って、人間について話をする。語り合い、それを共感できて、自分の肥やしとなれば、それは素晴らしいこと。でも、共感できないこともあることでしょう。
だからといって、はじめから聞く耳を持たないのは、自ら孤独への扉を開くようなもの。
話すことがたのしいのは、不平不満を言ったりしてストレスを発散するからではありません。
話すことがたのしいのは、私の話を聞いてくれる人がいるからです。その、耳を澄まして聞いてくれるあなたは、私を受け止めてくれている。その安心感があるから、私は話すことができます。また、あなたが話してくれるから、私も聞くことができる。本当に話が成り立つというのは、そこに、手をつなぎ合う関係があるから。だからたのしい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。5月の人形は鯉のぼりを見上げる子どもの人形と、坊守が長崎に帰った際に買った有田焼の絵皿です。


最近のコメント