ご葬儀について考えてみました(おまけ)
葬儀について書こうとしたとき、「おそうぎ」かな?「ごそうぎ」かな?と迷いました。
どちらを言われますか?
で、
「おそうぎ」で変換すると、うちのパソコンでは「おそう義」とか「襲う偽」などと出てきてしまいます。
「ごそうぎ」で変換すると、「ご葬儀」「御葬儀」と出てきます。
「ごそうぎ」が正しい言い方なのでしょうか。
おかげさまで勉強になりました。
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葬儀について書こうとしたとき、「おそうぎ」かな?「ごそうぎ」かな?と迷いました。
どちらを言われますか?
で、
「おそうぎ」で変換すると、うちのパソコンでは「おそう義」とか「襲う偽」などと出てきてしまいます。
「ごそうぎ」で変換すると、「ご葬儀」「御葬儀」と出てきます。
「ごそうぎ」が正しい言い方なのでしょうか。
おかげさまで勉強になりました。
「葬儀を密葬でしたいんですけど」
「はい、分かりました。それでは、本葬はいつになさいますか?」
「へ?」
どこがおかしいかお分かりになりますか?
最近「密葬(みっそう)」という言葉をよく耳にします。うちの門徒さんでも、「密葬で」と言われる方が増えてきました。
ただ、意味が間違って使われているような気がします。
密葬の「密」が「秘密」を連想させるのでしょうか、ヒッソリと内々でお勤めするご葬儀を「密葬」だと思われているようです。
「密葬」とは、先ずは身近な近親者のみでお葬儀を勤めして、そしてあらためて有縁の方々にお参りしていただく葬儀(本葬)を勤めることになります。
だから、「密葬でしたいんですけど」の返事で、「本葬はいつになさいますか?」と問い返されたのです。
「密」という字には、「密集」という熟語もあります。「集まる」という意味もあるのです。
「密葬で」と言った場合、有縁の方々に呼びかけて、盛大に(とまでは言いませんが)ご葬儀をお勤めすることを含むのです。
今風の、家族だけでヒッソリとご葬儀を勤めしたい場合、
「密葬で」とは言わずに、
「内々で勤めたいのですが」と言うのが正確な言い方です。
☆ ☆ ☆
「密葬」ということをよく耳にするようになって、ちょっと気になっていたので説明させていただきました。老婆心ですみません。
ただ、お坊さんや葬儀社さんなど、ご葬儀に関わる人の間でも「密葬」の解釈はバラバラなので、私が書いたのと違う説明をされる方もいます。そこのところを留意されて、参考にしていただけたらと思います。
「ご葬儀について考えてみました」は、ひとまずこれまで。
「ご葬儀について考えてみました②」で、「ご葬儀が簡略化されてきています。それ自体は、時代・環境の流れで、仕方がないことだと思います」と書きました。
書きましたが、亡くなられた方と、生前なんらかの交流があった方々が大勢お参りに参列されるご葬儀にお参りさせていただくと、「やっぱりご葬儀は大切な式なんだなぁ」と感じることがあります。
人が一生を尽くすということは、そこには人との触れ合いがあります。
ご葬儀の知らせがあると、万難を排してお参りにいきます。やはり、お参りせずにはおれないのです。
ご葬儀を内々で済ませたくなる気持ちも分かります。
うちでも、先々代の葬儀の際、普段連絡もしてこないような親戚が当たり前のように出てきて、葬儀を仕切ってしまったことがありました。
「気持ちのある身内だけでご葬儀をお勤めしたい」。その気持ちは痛いほどわかります。
しかし、こころの底からお別れに立ち会いたいと思ってくれる人もいるのです。
そういう人の気持ちを差し置いてまで、「内々で済ませますから葬儀に来ないでください」とシャットアウトしてしまうのは、その方に対しても、亡き人に対しても失礼だと思うのです。
葬儀に来てくださる方々を通して、亡き人の歩んできた姿を感じさせていただけるものなのです。
こういうこともありました。
亡き人からいうとお孫さんにあたる子が葬儀場ではしゃいでいました。小さい子がいると場が和みます。そう、たとえ親戚どうしはうまくいってなくても、小さい子がいてくれるだけで、空気が和らぐのです。
無邪気な子がいるといいですね、という話ではありません。
小さい子、お孫さんがいるということは、亡き人のいのちが伝わっている証があるんだと感じたことがあります。
「だからご葬儀が大切にされてきたんだ」と思いました。
「なぜ葬儀をするのか」
大きな儀式…葬儀だけでなく、結婚式とか。成人式はどうだろう?…をするということは、それなりにお金・時間・労力・精神力を必要とします。おこたりなく、失礼の無いように、と。簡単に済ませてしまいたい気持ちにもなってしまいます。
それでも儀式をキチンと勤めるのは、私にまで伝わってきて、これからも伝わっていく何かを確認・認識することができるからなのではないでしょうか。(抽象的な言い方ですみません。ただ、そういう表現しかできないのです)。
血縁という意味だけの“いのち”ではなく、たしかにそこに人がいたという事実。
それを、あらためて感じるために、
それを、決して忘れないために、ご葬儀(や大きな儀式)をお勤めするのではないでしょうか。
自分の意思で物事決められるように思っているけれど、そうじゃないのです。
「葬儀は内々で」「葬儀はやらなくていい」
でも、亡き人のことを慕ってお参りしてくださる方は、たくさんいるのです。そこに人が生きていたのですから。
「子どもはいらない」「子どもはまだいらない」
「結婚はしたくない」「結婚はまだ先でいい」
自分で計画することかもしれないけれど、でも、ご縁なのです。
子どもを「いる」とか「いらない」とか表現するのはもうやめませんか。授かるものなのです。
結婚も、しようと思ってできるものでもないし、したくなくてもすることもある。
死についても、恐れたり、まだ先のことと思ったり、遠ざけたりするかと思えば、
簡単に自分や他人のいのちを奪ってしまうこともある。
死を“縁”で語ると、よくお叱りを受けるのですが、死を迎えるということもまた縁なのです。
「縁を待て」と言っているのではありません。
自分の想いを越えた縁の中を今、現に生きている。そういういのちを生きているのです。そういうことを伝えたいのです。
ご葬儀とは、縁を生きている“わたし”を確認する場だと思うのです。
「お葬式って、どうしてするのでしょうか?」
そのように問われて、日ばかりが過ぎてしまいました。すぐにお応えできず、お待たせてしてしまい、申し訳ありません。
ご葬儀とは、亡き人とのお別れの場であるわけですが、
そのご葬儀を通して、自身の今までの生き方、これからの生き方を見つめなおす、つまり、私自身が問われる場だと思うのです。
これぐらいのお応えならその場ですぐに出来ましたが、「お葬式って、どうしてするのでしょうか?」と問うた人の気持ちを考えたとき、そういうことが聞きたいのではないような気がしたのです(私が勝手にそこまで考えてしまっただけなのかもしれませんが)。
「ご葬儀について考えてみました①」でも書いたように、いのちあるものは、いつかいのち終えるときを迎えます。しかし、そのことを知識としては知っていても、自分には関係ないこと、遠ざけたいこと、触れたくないことにしてしまって生きています。亡き人は、いのちあるものが迎える姿を、我が身をもって、私に先立って示してくださっているのです。いわば人生の師です。
一般的にご葬儀では、生きている人が亡き人に対し、「安らかにお眠りください」「冥福を祈ります」といって手を合わせます。その心は純粋だとしても、それでは、亡き人との関係がそこで終わってしまいます。そう思いませんか? 安らかに眠ってしまうんですよ。
で、私たちは、「安らかにお眠りください」と言いながら、我が身にいいことが起これば亡き人に報告し、我が身に良くないことが続けば「亡き人が迷っているのでは」と不安になる。安らかに眠ってなんていられません。
だからといって、亡き人のことを想わないようにしましょうというのではありません。そうやって、我が身に起こる出来事のひとつひとつに我がこころは揺れ動く。それは、生きている限り避けられないことです。いや、そういう揺れ動くこころを、生きていると表現するのではないでしょうか。その揺れ動くこころは、亡き人を想うこころに投影されています。亡き人を縁として、生きているわたしの姿を感じられる。
亡き人は、そういう姿を、私に一生懸命見せよう見せようとされているのだと思います。休む間もなく。
そのように揺れ動くこころを感じたとき、それを無くそう無くそうとするのではなく、「あぁ、これが私の姿なんだ」とうなづけたとき、いつの間にか目の前に合わさっている私の手があるのです。
生きている者が亡き人のためにする儀式がご葬儀なのではありません。
亡き人を縁として、生きている私を感じさせていただくのがご葬儀なのです。
生きている私を感じるといいましたが、「今の私は、果たして生きていると言えるのだろうか?」と、我が身を見つめなおす場だと思います。
ご葬儀が、もし亡き人を送るだけの儀式ならば、やらなくてもいいと思うのです。
逆に言うと、葬送の儀式を勤めてきた歴史とは、そこで自分自身を見つめなおす人々がいた歴史だと思うのです。ご葬儀が簡略化されてきています。それ自体は、時代・環境の流れで、仕方がないことだと思います。しかし、形は変わっても、ご葬儀をお勤めする大切な意味はあるはずなのです。
簡略化ならまだしも、ご葬儀をお勤めしない方も増えています。ご葬儀の場に立ち会うことがない我が人生…いったい、どこで我が身を振り返ることがあるのでしょう。どこで私に会うのでしょう。どこで手を合わせるのでしょう。
今日、久しぶりに葬儀社さんとやりあった。
通夜葬儀の会葬御礼に付いている「清め塩」について。
清め塩を使用するということは、身を清めようとするということ。なにから清めるのか。それは穢れから。
では、なにが穢れなのか。亡き人か、それとも葬儀の場なのか。いづれにせよ、最後のお別れに駆けつけるほど大切な人や、別れの場を、穢れとしていることになります(意識的にしろ、無意識にしろ)。
浄土真宗では、亡き人を穢れとはみません。亡き人は、いのちあるものがいつか迎えなければならない死という姿を、我が身をもって示してくださっている師です。師が穢れなわけはなく、塩を用いる必要もないわけです。どれくらい前からかは分かりませんが、葬儀の際、塩を用いない活動をしてきました。そのひとつとして、真宗大谷派東京教区では、リーフレットを作りました。
葬儀社さんには、会葬御礼に塩を入れないようにお願いしています。その代わりに、なぜ塩を用いないのかを書いたリーフレットを入れてもらっています。
葬儀社さんは、たしかにお願いしたとおり塩を入れずに、リーフレットを入れてくれました。でも、「ご自由にお持ちください」という形で、塩が置いてありました。
(私)「これじゃ意味ないよ」
(葬)「しかし、浄土真宗以外の檀家の方もお通夜にみえるわけですから、塩を用意しないわけにはいかないんです」
(私)「どうしてもお塩を使いたい人は、家に帰って、自分の家のお塩を使えばいいんじゃない?」
(葬)「塩が無いってクレームが来るんです。私どもとしては、クレームがくるのを分かっていて、お塩を用意しないわけにはいかないんです」
(私)「でも、最近、浄土真宗以外でも塩を使わない動きが出てますよ」
(葬)「私が知る限り、そんなことはありません」
(私)「そんなに亡くなられた方を穢れにしたいんですか」
(葬)「とにかく、塩は置かせていただきます」
結局私が折れた。
あの「ご自由にお持ちください」の塩を持ち帰り、穢れを清めるつもりで身にかける人がいるのかもしれない。
そう思うと、亡くなられた方に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
葬儀社さんというか、サービス業の方が、クレームが来ないように気を遣わなければならないのは、よくわかります。だから葬儀社さんが塩にこだわるのも理解はできるし、こちらも「おしえ」を盾に自己主張だけしてもいけないのは分かっているつもりです。
でも、「塩が入ってない」というクレームが来ないように気を遣うのは、なんか違うなって思います。
葬儀社さん自身に粗相があったり、態度・対応が悪かったりしてクレームが来ることは仕方がありません。そういうクレームをいただかないように努めることが大切です。でも、真宗の葬儀を勤めているわけだから、塩がなくて当たり前なわけです。それに対して「塩がない」というのは、クレーマーの側の過度な要求なわけで、そのクレームが来ないように塩を用意するというのは、気の遣い方が違うのではないかと思いました。
「失礼致しました。会葬御礼に付いてますリーフレットをお読みください」と言うだけではダメなのでしょうか。
盛況のうちに終了いたしました。
ありがとうございます。
東京五組同朋大会 兼
親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け法要のお知らせ
「人を憂う」と書いて「優(やさしい)」という字になるけれど、
「人を憂う」って意味じゃないよなぁ…と、考えているときがありました。
あるとき、法話を聞いているときに先生が、
「人の憂いが分かることを優しさというのではないでしょうか」
と言われました。
なるほど!!と思いました。
「優しさとは、人の憂いが分かること」
人の憂いを、“分かる”とまで言ったら傲慢だけど、
人の憂いに敏感でありたい。
でも、いつのまにか「人」が「自分」のことだったりする。
自分の憂いだけしか見えない。
憂鬱ですね。
忙しさで
こころを
亡くしてました
忙しい 忙しい
けれど、
なにもしていない私
生きていてたのしいと思うことのひとつ
それは人間が人間に逢って
人間について話をするときです
相田みつを
聞いてくれる人がいるから
話すことができる。
話してくれる人がいるから
聞くことができる。
自分の正義の主張
自分の都合の押し付け
愚痴を零す
他人(ひと)の評価・悪口
それも「人間について話をするとき」かもしれないけれど、そのような話は、他人を傷つけ、自分をも否定していることを忘れてはいけない。それに、そのような話をしているとき、聞いている人は誰もいない。
しかし、そのような話をすることが好きなのも人間。たしかに、楽しいことかもしれない。けれど、自分の正義を主張し、自分の都合ばかりを押しつけていると、そのしわ寄せは、自分に来ます。愚痴を零し、他人の悪口を言い、誰かを見下していると、その矛先は、いつしか自分に向いている。
正義の主張・都合の押し付け・愚痴・中傷・批判。それらをやめることはできない。その楽しさに身を任せ、いつしか足元すくわれる。たとえその瞬間は楽しくても、他者から自分に対する憎しみや、自身の孤独しか生み出さない。気付いたとき、独りになっていることでしょう。
語り合うことが大事だと言うけれど、それもまた難しい。話せば話すほど分かり合えなくなることもある。平行線をたどることもある。誤解が生じることもある。
このように書いていると、話をすることが恐くもなってしまいます。で、相田さんのことばを読み返す。
「人間が人間に逢って」
大事なことを見落としていました。人間に逢わずに、人間について話すことはできません。
自分が関わる集まりの中で、正義の主張・都合の押し付けをすることもあります。仲間に対し、愚痴を零すこともあります。そこにいない人の悪口を言うことだってあります。
でもそれらは、人間に出逢っているからこそできることです。出逢い、話すこと。つまりそれは、日々の生活です。日々の生活そのものが、生きていてたのしいこと。たのしくないって? さて、どうしてでしょう。
「あう」を、「会う」ではなく「逢う」と書いていますね。「逢う」とは、愛しい人・大切な人に「逢う」ということ。愛しい人・大切な人といっても、誰か特定の人を指しているのではありません。すべての人々を愛しく、大切に想っているからこそ、「逢う」と表現されているのですね。「逢う」の感覚。先ずはそれが、「たのしい」ことの第一歩ではないでしょうか。
人生において、私ができることは限られています。私が経験し、身に付け、感じたことは、とてもとてもわずかなことです。でも、その感じたことを、人に話すことを通して、感動は何倍にも膨らみます。知らなかったことを知らされます。今までとは違うものの見方を教えられます。
同じ年齢、同じ学校、同じ職業、同じ環境にいる人と話をすることは大切です。しかし、そこでグループが形成され、殻に閉じこもり、あたかも普遍的な意見を語り合っているつもりで、まったく独善的な考え方に陥ってしまうことがあるものです。
年齢・性別の隔てなく、様々な環境に身を置いたものが、自分の感得したことを語り合う。当然、同じ境遇に身を置くものどうしが語り合うよりも、考え方の相違や納得できないことはあると思います。しかし、他人の話に耳を傾け、聞き、自分の中で反芻してみる。なるほどと思えることもあれば、やっぱり納得できないこともあることでしょう。でも、そこには聞くという姿勢が生まれます。
人間が人間に逢って、人間について話をする。語り合い、それを共感できて、自分の肥やしとなれば、それは素晴らしいこと。でも、共感できないこともあることでしょう。
だからといって、はじめから聞く耳を持たないのは、自ら孤独への扉を開くようなもの。
話すことがたのしいのは、不平不満を言ったりしてストレスを発散するからではありません。
話すことがたのしいのは、私の話を聞いてくれる人がいるからです。その、耳を澄まして聞いてくれるあなたは、私を受け止めてくれている。その安心感があるから、私は話すことができます。また、あなたが話してくれるから、私も聞くことができる。本当に話が成り立つというのは、そこに、手をつなぎ合う関係があるから。だからたのしい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。5月の人形は鯉のぼりを見上げる子どもの人形と、坊守が長崎に帰った際に買った有田焼の絵皿です。