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2008年3月

2008年3月31日 (月)

こころ温まる文章に出会いました

こころ温まる文章に出会いました。
気持ちの機微が表われていて、読み手が文中に引き込まれる文章でした。
 
実は、その文章を書いた方と、同じものを見て、私も文章を書いていました。
その方の文章を読んだ瞬間、こころ温まると同時に、愕然ともしました。自分の文章の冷たさに。
その方の文章が、春の暖かな風景を描いた油絵で、見ているものをその風景に取り込んでしまうような文章だとしたら、
私の文章は、冷たくて、硬くて、ギザギザで、見るものを傷つけるようなモノクロの絵です。血の通わない文章でした。寺報やブログで文章を書き続けてきたことが、自ら恥じをさらしていたようなものです(と、いいつつ書いているけれど)。
そのことに気付かせるご縁だったのですね。気付けてよかった。
だからといって文章が急に変わるわけではないけれど、こころに留めて生きたいと思います。
 
今までお読みくださった方、ありがとうございます。
嫌な想いをしたこともあったことでしょう。申し訳ありません。
(文章表現はまだ続けていきます。これからも遊びに来ていただけたら嬉しいです)

2008年3月23日 (日)

ごくろうさま おつかれさま

23日、春のお彼岸も終わりました。
今年は、お中日が珍しく雨だったため、例年に比べてお参りが少なく、その代わりか、最後の土・日のお参りが多かったです。
「みなさま、お彼岸のお参りご苦労さまです」
 
お彼岸中とはいえ、他にもやらなければならないことがあります。
お彼岸が終わると、会合が続いています。そのための連絡を、お仲間とメールでやりとりしていました。
「お彼岸、お疲れさまです。~」 
   
     
  
さて、自分で言いながら、こころの中で疑問に思っていることがあります。
“お彼岸”って、ご苦労さまでお疲れさまなことなのでしょうか?
そうじゃないよなぁって、自分で自分に突っ込んでました。会話中の表現だから気にすることもないのかもしれませんが、“お彼岸”に失礼だなぁって、感じていました。そんなこと思う人もいないでしょうが。
でも体は正直です。5日目の晩は、夕飯食べて、すぐにお風呂に入って寝てしまいました。やはり「お疲れさま」でした。

      
 
いつの間にか、桜も開花しましたね。
近所の桜も咲き始めました。買い物の途中、ふと目に入りました。からだが疲れている中で、こころがホッとする時間をいただきました。ありがとうございます。
 
あっ、「ご苦労さま」「お疲れさま」じゃなくて、「ありがとうございます」ならいいかな。
 
「お彼岸、ありがとうございます」…意味が分からないですね 

 

2008年3月22日 (土)

少欲知足

今朝、山門を出ると、掲示板の前にご夫婦がいらっしゃいました。ご主人が大きな声で奥様になにか説いています。
 
「あ、副住職、今月のことば“足るを知る”ってことですよね!! 今の状況を足りると感じれば、なにも欲しがらないし、今の状況に不満なら、どんなに足りていても、まだまだ欲しい。ですよね」
 
「なるほど、そうですね」
 
「な、そういうことだよ。副住職、ありがとう、じゃぁ」
 
と、納得して行ってしまわれました。
 
     ☆ ☆ ☆ 
今月の掲示板のことば
楽(らく)を求めて苦しみに陥る
 苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

 
掲示してあることばを読んで、読んだだけで納得できることばもあれば、納得できない、分からないことばもあることでしょう。でも、答があるわけではありません。もちろん、私が掲示板のことばに対して書いている文章も、答ではありません。一個人の、現在只今の受け止めにすぎません。それを恥ずかしげもなく吐露しているだけのことです。文章によって、こうあらねばならないとか、戒めを訴えているわけではありません。
 
このことばは、
今の私になにを問いかけているんだろう。
今の私を映し出している。
今出会えたということは、なにか訴えかけているにちがいない。
 
ことばが気になったということは(納得できてもできなくても)、今の私の生活環境・心理状態によるもの。
なにも問題がない環境で、こころに迷いもなければ、ことばもおしえも響きません。
ことばが、おしえが、あなたを呼び止めたのです。
 
掲示板のことばをみて、夫婦で思いを語り合っていたご夫婦には、今、なんらかの呼びかけがあったのでしょう。
 
それにしても、今月のことばを見て「足るを知る」ということばで表現してくださったご主人。ことばを真摯に受け止められたんだなぁと感じました。
 

2008年3月21日 (金)

こころのまよい

今日のお尋ね
「副住職、お内仏(お仏壇)のお線香って、何本が正しいんですか? 私、いつも2本火を点けてたんです。そうしたら、友達が、「2本は迷い線香だ」って言うんです。そうなんですか? 副住職!!」
 
先ずは答から。
何本でもかまわないんです。1本でも、2本でも、3本でも…。
迷い線香と言われたのは、お線香の煙が2本立ち昇り、亡き人がどっちに行っていいのか迷うという迷信からきているかと思います。
何本点けようが、地獄に堕ちたり、逆に、天に昇ったりなんてことは、一切ありません。気にしないでくださいね。
お内仏で、お線香に火を点けるということは、手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申していることと思います。それで充分なのです。何も気にすることはありません。(昨日の文もご参照ください)。
 
会話の内容
「何本でもいいんですよ。香炉の形に合わせて、お線香を折って、火を点けて、香炉に寝かせてください」
 
「えっ、折って、寝かすんですか!!」
 
「はい、お線香は立てないでくださいね」

「今まで立ててました。どうしてですか?」

「火が点いたお線香を立ててたら、もしも倒れたときに危ないじゃないですか」
 
「そういうことなんですか」
 
「はい^^ 火の点いた方を左にして、香炉にお線香を寝かせてくださいね。お線香は何本でもかまいませんから」
 
「わかりました。ありがとうございます」 
 
 ☆ ☆ ☆
 
いつも思うんですけど、なぜ「これをやったらダメ」とか「こうしなければ先祖が迷う」とか言うのでしょう。言っている方は親切心かもしれませんが、人を不安にさせて、そんなのは親切でもなんでもありません。
お彼岸やお盆のときは、住職や私と話す機会なので、不安な顔をされた門徒さんから、いろいろと質問をされます。
 お線香の本数
 仏花の種類
 ご法事は命日の前にしなければいけないのか
 不幸が続くのは、先祖が迷っているのか
 誰も亡くなってないのに、お墓を買ってはいけないのか
 日の良し悪し・方角の良し悪し、などなど
 
先ずお伝えしたいことは、なにも迷うことはありません。
儀式作法として、形式や守らなければならないことはありますが、だからといって「あれをしたからダメ」「あれをしなければダメ」なんてことはなにもありません。どうぞ迷わないでください。
仏事の、「これはどうしたらいいんだろう?」ということや、
「こういうことを言われてしまったけれど、どうなのですか?」ということがありましたら、
お尋ねください。
迷わないでください。なにか言う人がいたとしても、なにも心配はいりませんから。
 
お線香は、お浄土の香りを表わしています。
煙の本数は気にする必要はありません。

2008年3月20日 (木)

私自身が願われている。そのことに目覚めるのが、ご供養。

一日雨で、寒いお彼岸お中日
でも、たくさんの方がお参りにみえました。
自分の意思でお参りに出かけたつもりだけれど、そこには、私をお寺に向かわしめたはたらきがある。
 
お寺に来て、山門をくぐり、本堂のご本尊に向かって手を合わせる。
「南無阿弥陀仏」
 
「念仏申す衆生を救いたい」という阿弥陀の本願が、今、私に届いている。
 
亡き人は、私に念仏申せ申せと呼びかけている。
 
雨が降り、寒い一日、せっかくのお休み
亡き人のためにお墓参りしていたつもりが、
亡き人から、念仏申せと呼びかけられていた。
阿弥陀仏の救いの声に目覚めよと、亡き人の声が、私にとどいている。
 
思慕(おも)われているのは、亡き人ではなく、この私自身でした。

2008年3月19日 (水)

もっとお話したかった

「副住職、亡くなった主人は、副住職とお話するのが好きだったんです。厳しい人でしたけど、副住職とは合うらしくって、お寺に行く日は、副住職とお話をするのを楽しみにしていました。入院中も、副住職と話がしたいって申してました」
 
お参りにみえた奥様に、そのように声をかけていただきました。とても嬉しいことです。
そのご主人は、元気な頃は聞法会にもお出かけいただいていました。
ご自身の体調もすぐれないのに、肝機能障害でダウンした私のことを気遣ってくれました(もう7、8年ほど前の話です)。
ご自身の身にもつらい出来事があったのに、私の身におきた出来事を、自分のことのように哀しんでくれました。
 
またお会いしたいなぁ。
またお話したいなぁ。
でも、当然無理なことです。
 
でも、たとえ 沢山お話していたとしても、亡くなられたら「もっと話しておきたかった」という後悔はつきもの。
これだけ話したからもう充分ってことはない。
だけど、「もっと話しておきたかった」と思える人との出遇いがあった。
その事実だけでも充分なんだなぁ。お遇いできてよかったです。ありがとうございます。

2008年3月18日 (火)

ゲキの間

昨日、門徒さんから質問を受けました。
 
「副住職、“ゲキの間”ってなに?」
「は?」
「あのね、芝の増上寺で、4月に天井絵の公開があるの。でね、友達が、ポスターに公開日は“ゲキの間”って書いてあったんだけど、“ゲキの間”って何かなぁって言ってたの。お彼岸に副住職に聞こうと思って。ゲキの間ってなに?」
「いや、知らないです。ゲキの間…なんだろうな?」
「そっか、副住職も分からないかぁ」
「増上寺さんは浄土宗ですからね。そちら独特の表現かもしれませんね」
「えっ、うち(西蓮寺)と増上寺さんは違う宗派なの?」
「はい、うちは浄土真宗です」
「そっか、じゃぁ分からないわね」
(「いや、だから分からないというわけでもないけれど…」)
 
という会話があって、気になるので調べて見ました。「ゲキの間」を。
 
「増上寺 天井絵」で検索・・・・・あった、「増上寺のサイト」です。

「一般特別公開日 4月2日~4日(御忌期間中)」
「あぁ、“ゲキ”じゃなくて“ギョキ”だ!! (なんで“ゲキ”って読んだんだ?)」
 
御忌(ギョキ)とは、浄土宗の開祖法然上人の法要のことです。
法然上人のご命日は1月25日なのですが、1月はまだ寒いので、4月に法然上人のご法要をお勤めされるのです。(いつからそのような形でお勤めするようになったのか、詳細はしりませんが)
浄土真宗でいうところの、「報恩講(ほうおんこう)」ですね。
今度門徒さんに会ったら教えてあげよ♪(スッキリ)
 
   ☆ ☆ ☆ 
 
で、今朝のお勤めで読んだご和讃(親鸞聖人作)です。
 
  本師源空命終時
   建暦第二壬申歳
   初春下旬第五日
   浄土に還帰せしめけり

  
「師である源空(法然)上人は、建暦2年1月25日にお浄土に還られました(80歳)」
昨日の会話の次の日に、法然上人還浄のご和讃をお勤めするご縁をいただくとは。驚きました。法然上人が呼んでいるのかしら。

2008年3月17日 (月)

踏まれても 踏まれても

今日から春のお彼岸です。
月曜スタートということもあり、前の土・日にもお参りが多かったです。
 
この時期になると、境内に自然と水仙が芽吹きます。
Dscf1660
 
人の行き来があるところに咲くので、春のお彼岸に咲いては、踏まれてしまいます。
でも、咲くことを拒否もせず、毎年毎年咲いては、その存在に気付いた人間の目を楽しませてくれます。
踏まれてしまうかもしれない。でも、咲かずにはおれない。待っていてくれる人がいるから。
苦しみを味わうかもしれない。でも、生きずにはおれない。待っていてくれる人がいるから。
  
Dscf1661
踏まれてしまうのを見かねてか、水仙の周りに棒を立ててくださった方がいます。ありがとうございます。
水仙の周りに柵をしようかな。でも、全体に柵を立ててしまうと、ちょっと鬱陶しくなるなぁ…と、毎年考えているのですが、このように数本棒を立てるだけでも違いますね。いいことを教わりました。
ひとりだけで物事を考えていると、思考が狭くてダメですね。もっといろいろなアイディアがあるのに。
 
それでも、すでに踏まれてしまいましたが…。
人の視野って狭いですね。「どうしてそれが見えないの?」って思うことがあるけれど、興味があることしか見えなかったり、何かに夢中になっているときは何も見えません。視野が広がれば、もっと楽しいのに。

2008年3月16日 (日)

人との会話の中でこそ、感じることがあります

今月のことばが浮かんだのは、毎月参加させてもらっている、お仲間のお寺の仏教青年会での会話がきっかけです。
 
「最近、友達が『楽したいなぁ』って言うんですよ」
「楽はさぁ、苦しいんだよ」
「そうですね‼」
「でも、つらいのに楽しいときってあるよね」
「つらいからこそ楽しさを感じるんだと思います」
「そうだねぇ」
 
だいぶ かいつまんでますが、このような会話がありました。
「楽は苦しい」
この表現に、頭を叩かれたような気がしました。“楽”までは求めなくても、ホッとしたいなとか、仕事を全部終わらせたいなって思うことはあります。でも、ホッとした状態のままだったり、仕事が全部片付いて、なにもすることがないままだったりしたら、不安になることでしょう。
楽は苦しい…矛盾するようだけど、そうではない。
そういう思いを表現しようと思って、3月の「ことば」を造って、「文章」を書きました。
 
「ことば」を考えるのは悩みました。
楽と苦を対比させようとして、
  楽は苦しい
  苦は楽しい
なんてところから考え始めたけど、それは表現したいことと違うなぁ…とか考えて、たどり着いたのが
  楽を求めて苦しみに陥る
  苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

です。もう少し練り上げたかったのですが、タイムオーバーでした。

「あう」という字を「遇う」と書きました。
「遇う」には、なかなかあえないこと、あいがたいこと、といった意味が込められています。
「苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う」と言われても、やっぱり「苦」はつらいです。逃げたいです。でも、逃げていては、「楽しい」って感じることはできないです。苦しみから逃げないなかで、楽しみが見えてくると思うのです。
「楽しみ」と表現してしまうと、「楽(らく)」と同義に捉えられてしまう恐れもあるので悩んだのですが、「私を守っているはたらき」「いまのままでいいんだ、という安心感」もっと言ってしまえば「阿弥陀さま」…そういう想いを込めました。
そのような「楽しみ」とは、なかなか出遇えないのかもしれませんが、でも、誰もが出遇えると、私は信じています。生きている中で。

2008年3月15日 (土)

やることがいっぱいあるって、ありがたいことなんだなぁ

ある介護施設のお話
お世話になっている先生が、先生が勤めている学校の近所に出来た老人介護施設の開所式に呼ばれました。
施設長は、施設の設備を案内してくださいました。施設に入所するお年寄りは、なにも手を煩わせることがないように、設備もスタッフも行き届いています。至れり尽くせりの内容に、先生はビックリで、「あと何年かしたら、私もここにお世話になりたいな」と思ったそうです。
 
時は流れて、その介護施設の現状が先生の耳に入ったそうです。
施設に入所したお年寄りが、次々と出て行ってしまうそうです。
至れり尽くせり、身の回りのことは、全部スタッフがやってくれる。
それなのに、お年よりは出て行ってしまう。
さて、なぜでしょう。
 
自分がすることがなにもない。
自分のいる意味が見えなくなってしまう。
自分はいらないんじゃないかと思ってしまう。
あまりにすべてのことをやってくれるので、お年寄りは自分の存在意義を見失ってしまうのです。
それで、どうにも住み心地がよくなくて、施設を出て行かれてしまうのです。
いや、住み心地はいいのかもしれません。住み心地はいいけれど、自分がいる場所ではない。そんな感じなのではないでしょうか。
 
というお話を、先生から聞いたのですが、一緒に聞いていた友人が「今月のことばみたいだね」と言いました。
 
 楽(らく)を求めて苦しみに陥る
  苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

    ~2008年3月 西蓮寺 掲示板のことば~
 
「楽したい」というセリフを、耳にすることが続いたのです。
そんなに楽したいかなぁ。もし望みどおりの楽を手に入れたとして、満足しないだろうな。
日々の生活の、自分の障害になっている(と思っている)ものがすべて無くなったとして、果たしてそれが楽なのだろうか。いったい楽ってなんなのだろうか。
 
自分の手を煩わせることを、なにもしなくていい状況になったとき、私は、私の存在意義を見失ってしまう。
楽になるとは、自分で自分の居場所をなくそうとしているようなものなのかもしれません。
「自分探し」というけれど、自分を見失っているという意味では、既に、私は楽な状態なのかもしれませんね。
楽していると、楽していることが分からなくなってしまうものなのです。
「楽になりたい」とか「自分探し」を口にする人は、既に楽しているのではないでしょうか。
 
「苦しみを生きる中で」は、極端な表現をしましたが、
「日々の生活の中だからこそ」と言い換えてもいいと思います。

日々の生活を離れたところに楽があるのではない。また、それを求めるのもむなしいこと。
つらく、悲しく、苦しいことがある生活の中でこそ、こころの底から感じられる楽しみがある。
そんなことを考えながら、今月の文章を書きました。
 
介護施設も、スタッフがなにもかもやってあげるのではなく、当番や役割を決めてあげたらいいのかもしれませんね。生き甲斐や責任が芽生えるのかもしれません。それはそれで、また大変なわけですが。

2008年3月 3日 (月)

2008年3月のことば

 Dscf1648
 楽(らく)を求めて苦しみに陥る
 苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

   
苦と楽はワンセット
苦があり、苦に耐え忍び、その果てに楽があると思っていませんか? 
楽があり、その楽に甘んじていると苦に陥ると思っていませんか?
  
苦と楽はワンセット、
私が楽な思いをしているとき、どこかで誰かが、苦しい思いをしています。誰かの苦の上に、私の楽は成り立っています。
  
苦と楽はワンセット
私の人生のみにおいて、苦楽がワンセットなのではない。私が楽なときに、誰かが苦しんでいる。または、私の苦しみのうえに成り立っている楽を、誰かが享受しているかもしれない。
それは、関係を生きているから。だからこそ、苦楽はワンセット。人と人との関係の中で苦楽が生ずる。哀しい事実だけど、だからこそ温かい。誰もが経験している事実だから。
 
本当に哀しいことは、楽な思いをしているとも感じないこと。まだまだ不満ですか? もっともっと欲しいですか? すでに満たされているのに。
苦しみを脱して、楽を手に入れようとしても、その楽は長続きしません。楽が楽でなくなるという意味ではなく、楽を手に入れても、そのことを楽と感じなくなる私がいるのですから。
楽を求めるこころが、余計に苦しみを生み出すということもある。
関係の中を生きている。そのために、苦もあれば楽もある。苦から楽に逃れたい気持ちが起こるのも当然のこと。しかし、楽もまた苦しいのです。
  
楽な生活がしたいと望む。
望み通りの楽な生活を手に入れたとして、果たしてその生活に満足できるでしょうか?
  
楽になりたい 楽になりたい…
いざ楽になったら、どのように生活したらいいのか分からなくなった。今までは子どもがいて、仕事もあった。子育てや仕事の忙しさから解放される日を待っていたのに、いざその日が来ると途方に暮れる。
「やはり私がいないと」と言っては、昔の自分を引きずり、やがてみんなに嫌われる。
  
楽になった 楽になった…
日常を離れ、いざ旅に出たものの、のんびりなんてしていられない。携帯・パソコンに縛られ、旅行に来たのにゲーム三昧。お土産買うのに一生懸命。さて、何しに来たのでしょう。
  
苦から逃れるために、楽を求めて仏法を求めても、そのような聞き方では間に合わないのです。
日常から離れて、静かなところに身を置いて、楽な状態で仏法を学ぼうとしても、それでは身に響かないのです。
日常の中に身をおいて、仏法に聞いていく。生活の中にいながら、おしえに触れていく。
つらく、悲しく、苦しい人生を、楽に転じるのではない。
つらく、悲しく、苦しい人生に変わりはないけれど、苦しみを苦しみのままに生きる中で、その中でしか味わえない楽しみがある。そのことは、仏法にふれていないと気付けない。
「関係を生きているから」と書きました。私ひとりで苦しみを処理しようとしても、とてもできません。ひとりでは淋しいのです。でも、一緒に泣いてくれる人がいるのです。だからこそ、なんとか立ち上がれる。仏法で説かれている内容は、そういう人の歴史です。苦しみながらも、生を全身で受けて生きた人々が、私に先立っているのです。
つらく、悲しく、苦しい人生を生きる衆生を、仏法の灯は照らしているのです。灯に照らされていると感じたとき、うれしいのです。楽しいのです。
仏法にふれた私の歩みが、後の人を導きます。
 
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

Dscf1258 Dscf1256 
 
西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
3月の人形はお内裏様とお雛様です。長崎(坊守の故郷)に行ったときに、グラバー園近くのお店で買いました。
でも、ひな祭りは3月3日ですね。3日で人形を差し替えてしまうのもかわいそうなので、3月いっぱい飾っておきます。2月から飾っておけばよかったですね。

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