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2008年2月

2008年2月22日 (金)

よ~く考えよ~♪

漢字は、字を見ただけで、なにをイメージして作られたのかが分かります。
漢字の成り立ちを知ると、その奥深さ、意味の深さに感心させられます。
 
ところが、最近聞いた話なのですが、
漢字はもっともっと数が少なかったのだそうです。

漢字の発祥は中国
「中国で戦争が起こると、漢字が増える」という言い伝えがあるそうです。
戦争は人と人とが争います。
争いが起こると、人のことを考える思考が止まります。相手を思いやる、物事の根源を考える作業をしなくなります。
戦争が終わると、勝った国と敗けた国が存在します。勝った国は敗けた国の文化を取り込み、敗けた国は勝った国の文化を受け入れなければなりません。

漢字には、成り立ちがあります。
漢字は、数がもっと少なく、形ももっと簡素でした。
しかし、戦争が終わるたびに新しい漢字文化が入ってきて、戦争を重ねるにしたがって想像する力が衰えていく。
隣国の漢字文化が、分からないのです。
そこで、もう少し意味が分かるように漢字に手を加える。そうしているうちに、漢字の数や画数が増え、複雑化していったそうです。
 
漢字そのものは、人間の想像力の豊かさが表現されています。
でも、漢字の歴史には、人間の想像力の欠如が刻まれています。

こと細かな説明は、分かりやすいし、助かります。だけど、誰かがこと細かに説明してくれると、私は考えるということをしなくなります。マニュアルや説明書・解説書が分厚いのも、想像力の欠如の表われかもしれませんね。

2008年2月21日 (木)

やくどし

「やくどし」って、お役に立つ年ってことよ。
やっと人の役にたてるような年になったってこと。
素敵なことじゃない

と、坊守が申しています。
 
限られた寿命のうちで、「厄年」とか「日が悪い」とか言って、自分の生命活動を控える・抑える・限定する。なんてもったいないことでしょう。
そもそも いのちの営みの中で、いい日悪い日がありましょうか。
自分のこころで作り出しているに過ぎません。
常に「やくどし」…人さまのお役に立つ日々を生かさせていただいているのです。

2008年2月19日 (火)

朝の風景

朝食でパンにぬったジャム
グレープフルーツジャムの味
甘くてすっぱい味がした
甘くてすっぱい 甘くてすっぱい
 
掃除するため外に出た
日は暖かくて、風は冷たい
暖かくて冷たい気候
暖かくて冷たい 暖かくて冷たい
 
「ダメ!! 危ないでしょ!!」
道路に飛び出そうとした子どもに母の声
厳しい響きの中に優しさがある
厳しくて優しい 厳しくて優しい
  
「お前なぁ、~だぞ!!」
「なんだよ、お前こそ~じゃないか!!」
いつも喧嘩してるような会話をしながら登校する小学生
だけど いつもいっしょ
仲が悪いけど仲がいい 仲が悪いけど仲がいい

チリン チリン チリン チリン‹‹☆ 
杖をついて歩いているお年寄りに向かって
自転車のベルを鳴らして走る高校生
体は健康でも、こころは不健康
健康だけど不健康 健康だけど不健康
 
「おはようございます」
 「今日は暖かですね」
  「では失礼します」
いつも声を掛けてくれるサラリーマン
急いでいるのに、立ち止まって挨拶してくれる
気がせく中でも落ち着いている
気がせく中でも落ち着いている
 
あい反するふたつのこと
だけどひとつ
たとえ あい反するものでも
一緒になれる ひとつになれる
人生もきっと、
苦しいけど楽しい 苦しいけど楽しい 

2008年2月12日 (火)

真宗大学記念碑

2月8日、大谷大学時代の先輩と久しぶりにお会いしました。
新宿で待ち合わせて、お昼を食べて、
大谷大学の前身である真宗大学の跡地の公園(巣鴨、宮仲公園)に行きました。
厳密に言うと跡地ではないのですが、跡地のそばの公園に記念碑が建っています。
 
新宿から山手線で大塚駅へ
駅からテクテク5分ほど歩いて宮仲公園に着きました。
が、記念碑がありません。
公園の半分を、工事用フェンスが覆っています。

「先輩、記念碑、この中じゃないですか?」
「かなぁ。記念碑を囲んじゃうかなぁ」
「じゃないですか」
「あぁ~、せっかく来たのに…」
 
先輩は明日新潟に帰ってしまいます。
私も、初めて来ました。
残念ながら記念碑を拝むことができませんでした。
私たちらしいオチでした。

 
その後、神保町の古書街へ。
先輩、引っ越すのに本を買い込んでました。
「おれ、引っ越すんだよなぁ」
「そうですよ…」
 
駅の改札で別れるとき、しんみりしてしまいました。
先輩、お元気で。
  
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 
先輩、そして奥様、
ご結婚おめでとうございます。
東京に来たときはまた呼び出してください。
今度こそ記念碑見に行きましょう!(もういいって)

2008年2月10日 (日)

せめてお名前を…

昨晩、お通夜に出かけました。天気予報で雪が降ると言っていたのですが、結局寺に戻るまで雪は降りませんでした。
「これならもう降らないな。天気予報はずれだ♪」なんて思っていたのがいけなかったのか、夜9時に窓の外を見ると、一面真っ白でした。
「明日のお葬儀、行けるかなぁ。早めに出ないといけないなぁ。明日の朝は雪かきだ♪」

で、今日の朝。いつもより早めに起きて、先ずは境内の雪かきから。主な参道の雪かきをして、「これから表の歩道の雪かきだ♪」
と、山門の外に出てビックリ。明らかに雪かきがしてあります。
「えっ!! あれっ!? 誰が?」
 
 
 
さて、どなたが雪かきをしてくださったのでしょうか。
いろんなことが???でしたが、ありがとうございます。
おかげさまで、今日ご法事があったお家のお墓までの雪かきに取り掛かることができました。
お葬儀にも、スッキリした気持ちで向かうことができました。
 
日中は晴れ渡り、積もった雪もほとんど融けました。
凍結にはお気をつけください。
 
早朝から寺の前の雪かきをしてくださった方、ありがとうございます。
せめてお名前を…
野暮ですね。

2008年2月 8日 (金)

正論は人を傷つける

ある女性歌手の、ラジオ番組での不適切発言が波紋を呼んでいます。
発言内容については、まったく化学的根拠のないことで、無責任な発言だと責められても、そのこと自体は仕方ない。
でも、バッシングのあり方にも疑問があります。
テレビ・ラジオ・新聞・雑誌、諸々のメディアで、いろいろな方が発言をしています。さて、そのすべてが適切な発言なのだろうか。誰も不快な思いをしない発言なのだろうか。科学的根拠に基づいた発言なのだろうか。
すべてのメディアがそんな発言の集まりだったら、なんの特色もなくなるんだろうな。複数のメディアが存在する意味はなくなるだろうな。
 
感じたことは、
もし彼女が業界の大御所的存在だったら、ここまで叩かれたのだろうか。
もし彼女がもっと年を重ねていたら、ここまでバッシングを受けただろうか。
もし彼女がそんなに売れていない存在だったら、発言がここまで批判されただろうか。
 
ある程度売れていて、人気者で、人もうらやむ才能(例えば歌唱力とか)を持っていて、それでいてまだ若い。
そういう人がバッシングのターゲットになってしまうのではないだろうか。やっかみみたいなものです。
 
人の批判をする場合に、とても理不尽で、とても卑怯で、とてもこころない批判をしていないだろうか。この一件だけのことを言っているのではなく、私たちの日常において。
 
有名人ゆえの発言に対する責任はあるけれど、バカな発言は私たちも日常しているもの。「ここだけの話」とか、「人には聞かせられないけど」とか言いながら。「ここだけの話」「人には聞かせられないけど」って、わざわざ断らなくてはいけない発言って、本当はするべきでないと思う。
 
自分は姿を見せず、言いたいことは主張する。
たとえそういう人はわずかでも、まるで大勢の意見のように、当然の意見のように、周りも勘違いしてしまう。そちらに流されてしまう。
 
有名になったからって、なにを言っても許されるわけではない。彼女に、そこらへんの勘違いはなかったか。
正義を気取って誰かを叩いても、果たしてそれが正義・正論・許されることなのか。たとえ100%主張が正しかったとしても、その主張が人を傷つけるということを忘れてはいけない。バッシングをする側に、自分は正しいことをしているという勘違いはなかったか。
 
勘違いが、苦しみを生み出している。
私も勘違いをしていないだろうか。

2008年2月 5日 (火)

ゆっくりあるかないと滑りますよ

今日は暖かな一日でしたね。おかげで、雪もかなり融けました。
 
おととい、雪が降りました。
昨日の朝、地面が凍っていました。特に寺の山門前がツルッツルに凍っていたので、注意書きを書きました。
「日陰滑ります。ご注意ください」って。
 
今朝、毎朝顔を合わせてる方に会いました。
「おはようございます」
「おはよう。昨日さ、滑るから気をつけてって、看板書いてあったでしょ」
「はい、書きました」
「オレはさぁ、感動しちゃったよ」
「えっ、どうしてですか」
「人のこと考えてさ、注意書きなんてなかなか書けないよ」
「そうですかねぇ」
「そうだよ!! だから、気を遣ってもらってるって思えて嬉しかったねぇ。ありがとう」
「いや、そんな。そう言っていただいて、こちらこそありがとうございます」
という会話がありました。
思ったことは、毎朝境内の掃除をするのに、自分の中で決まった工程があるわけです。でも、注意書きを書くということは、決まった工程とは違うことをするわけです。場合によっては、どんなに簡単な作業であっても、なかなか難しいことなのです(私だけかなぁ。同意してもらえるかなぁ)。
でも、昨日は自分なりの工程を無視して注意書きを書きました。注意書きを書くなんて、たいした作業ではありません。でも、なによりも優先してやるべきことだなと思ったのです。
で、今朝、「ありがとう」と言ってくれる人がいて、書いてよかったなって思いました。
 
前にも、「テク テク テク」の記事で書いたけど、急いでも、ユックリしても、結果そんなに変わらないんですよね。それどころか、落ち着きをもって作業に当たった方が、よりいい結果が出るものです。
注意書きを書くことを面倒臭いと思うようならば、毎朝やっている作業をも手を抜いていることになるんじゃないかなと思いました。
 
ずっと前にブログに書いた記憶があるのですが、
字を書くときに、忙しいときでも、急いでいるときでも、ゆっくり丁寧に書くことを勧められましたと書いたことがあります。それから気をつけて実践しています。なるほど、ゆっくり書くと、やらなければいけないことのすべてにゆとりが持てるような気がしています。急いで、汚い字で書いていると、やらなければいけない、ひとつひとつのことに対しても、いい加減に対応しているような気がします。
急いでいるとき、時間がないときこそ、字を丁寧に書いてみましょう。きっと、こころも落ち着くと思います。

って、今朝の会話から思ったのです。
「ありがとう」って言ってくださって、ありがとうございます。

2008年2月 3日 (日)

しんみりと

今朝、カーテンを開けたら一面真っ白でした。
思っていたよりも早い降り出し、というか、もう積もってました。
 
Dscf1250
 
朝から雪かき、ご法事をお勤めして、日が暮れるまで雪かき。
朝早くから雪かきのお手伝いをしてくださったご門徒の生田さん、ありがとうございます。
おかげさまでご法事までに主な参道の雪かきが済みました。
雪かきで汗びっしょりになりました。
  
Dscf1251 
 
ご法事でお集まりの皆様、ご苦労様でした。無事帰れましたでしょうか。
雪はやんだようですが、恐いのはこれから。足元が滑りますから、みなさまお気をつけください。
 
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
シンシンと降る雪を見ていると、淋しい気持ちになってきます。
1月末、あるご住職が亡くなられました。
 
 優しい人でした。
 子ども好きな人でした。
 お酒の強い人でした。
 いつも笑顔で迎えてくれました。
 何回も一緒に旅行に行きました。
 自分に仕事を任せてくれました。
 自分のやりたいようにさせてくれました。
 壁になってくれました。
 背中を押してくれました。
 若手僧侶のこれからを案じていました。
 弱音を吐かない人でした。
 頼まれたことに嫌と言わない人でした。
 
1月31日・2月1日と、通夜葬儀が勤まりました。
正直、亡くなられたことが、まだ信じられません。いや、信じたくないのかもしれません。
日が経つにつれ、哀しみが広がってきます。
どうして人は涙を流すんだろう。
涙の意味を噛み締めています。
早川さん、ありがとうございます。

2008年2月 2日 (土)

2008年2月のことば

   Dscf1245
   涙とともにパンを食べたものでなければ、
      人生の味はわからない。
  ゲーテ
 
涙味のパン…どのような味がするのだろう?
と、問うている時点で、涙とともにパンを食べていないことを告白しているようなもの。
パンを食べるとは、生きるということ。生きるといっても、ただパクパク食べているだけでは、生きているとはいえない。それは、動いているだけのこと。涙は、生きているからこそ流れるもの。動いているだけでは、雫さえこぼれない。涙こぼれる人生こそ、生きていることの証。
流れる涙を、隠してはいけない。

    
涙の海に人は溺れ、
涙でこころ洗われる。
涙なしの人生はありえない。
 
涙のきっかけとなった  
 悲しい出来事 苦しい出来事
悲しみも 苦しみも
 なければいいのにと思うけれど、
悲しみや 苦しみが
 あったからこそ 今の私がいる。
 
悲しくて流す涙
 悔しくて流す涙
  怒りに震えて流す涙もあれば、
安堵して流す涙
 嬉しくて流す涙
  感動にこころ響いて流す涙もある
涙の味はさまざま
 
でも、
それぞれの涙の味が
それぞれ独立しているのではない。
嬉しさの味を知るからこそ
 悲しみの涙はしょっぱく、
悲しみの味を知るからこそ
 嬉しさの涙はあたたかくもあり、
          そして、切ない。

甘い味付けには、
 塩味が欠かせない。
つかれた こころとからだには、
 やさしいあまさがしみわたる。
どんなに美味しいものでも、
 食べ続ければ飽きてしまう。
自分の希望通りのものばかりでは、
 新しい味に出会えない。
食べず嫌いでは、
 本当の良さを感じることもない。
 
味を知ることは、
 人生を知ること。
味覚が豊かになるということは、
 人生が豊かになるということ。
 
嬉しさの涙ばかり流していては、
 それが嬉しさとは気付かなくなる。
 ひとの悲しみがわからなくなる。

悲しみの涙を流してばかりでは、
 目の前にある
 ひとが、道が、光が見えない。
 
涙のしょっぱさに耐え 我慢すれば、
そのしょっぱさが、
 消えると思ってはないだろうか。
 甘くなると思ってはないだろうか。
涙のしょっぱさは、
 いつまでも変わらない。
年を経るとともに、
経験を積むとともに、
 涙のしょっぱさを より強く感じる。
しょっぱさの濃度は同じでも、
 私の感覚が増してくる。
今まで感じなかった涙の味を、
 こころ突き刺すほどに感じる。
 
涙のしょっぱさは、
 いつまでも変わらない。
 
哀しいことは、
 しょっぱさに慣れてしまうこと。
 しょっぱさを忘れてしまうこと。
 
もう涙も流れないほど泣いたのに、
 あふれる涙は尽きない。
それは、
 涙の味を忘れないため。
  
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
      

Dscf1248
西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
2月の人形は石で出来たパンダとフクロウです。
大久保石材様よりちょうだい致しました。
ありがとうございます。

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