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2008年1月26日 (土)

白骨の御文(はっこつのおふみ)

「白骨の御文」 本文(改行は副住職)

それ、
人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、
まぼろしのごとく なる一期(いちご)なり。
されば、
いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。
いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。
我やさき、人やさき、
きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。
されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 
ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、
桃李(とうり)のよそおいを うしないぬるときは、
六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、
更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、
野外(やがい)におくりて
夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、
ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々(なかなか)おろかなり。
されば、
人間のはかなき事は、
老少不定(ふじょう)のさかいなれば、
たれの人も
はやく後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)を心にかけて、
阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、
念仏もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
 
   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
「白骨の御文」 現代語訳(副住職試訳)
 
さて、
私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、
この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、
まるで幻のような一生であります。
この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、
いまだかつて聞いたことがありません。
一生はあっという間に過ぎてゆくものです。
いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。
私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。
今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。
大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。
草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。
ということは、
朝には夢と希望に満ち溢れていても、
夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。
今、無常の風が吹いたならば、
二つの眼はたちまちに閉じ、
呼吸は永遠に途絶えてしまいます。
血の通った顔もはかなく色あせ、
桃や李(すもも)のような瑞々(みずみず)しい美しさも失われてしまいます。
無常の風が吹いたその時、
家族や親族が集まり 歎き悲しんでも、
元気な姿を再び見せることはありません。
いつまでも悲しんではいられないと、
火葬し、夜中、火も燃え尽き、煙が立ち昇る頃には、
後にはただ白骨が残るばかりであります。
悲しいというだけでは言い尽くせません。
このような人間の厳粛な事実は、老いも若いも関係ありません。
誰も避けては通れません。
だからこそ、「あなたはその事実を受け止め、どのように人生を歩んでいくのですか」と、
亡き人から問われているのです。
親鸞聖人は阿弥陀如来を頼りとしなさいと教えてくださいました。
阿弥陀如来は、無常なる人間を(人間が無常であるからこそ)救いたいと願われました。
その願いに包まれて、私は生きています。
そのことを想うとき、
自然と「南無阿弥陀仏」と念仏の声が出ます。
亡き人は、
阿弥陀如来の慈悲の心を、
この私に示してくださいました。
私を生かす教えに出会えたこと、
有り難いことです。大切にいただきます。

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コメント

阿弥陀如来と言うのはお釈迦様のように実在したものなのですか。仏教と言う宗教を形どるために、慈悲深い仏の役目を与えただけの物なのですか。所謂偶像なのですか。

 話は変わりますが、
僧は皆さん出家の身なのですよね。地位も財産も捨てて、仏道に励み、俗人からの施しで生きていく。その形が、古来の僧の姿ですよね。施しを受ける身だから、その施しには税金もかからない。当然ですよね。
 でも、今の僧たちは、出家とは名ばかりで、酒も飲めばカラオケを歌い、檀家ではだれも乗らないような高級車や乗り、不動産経営さえもしている。美食の余り、胃潰瘍に悩む僧が多いとか。檀家がいけないのか、僧たちの規律が完全に壊れてしまったのか。世界がどう変わろうと、仏者にとっては仏道は永遠のもののはずなのに。

 そもそも仏道と言う言葉があるのか、有るとすればそれは何なのか。きっとそんな規律や基調は無いんでしょうね。

宗教と言うのは、自らの心にのみあるものと信ずる愚鈍より

☆眞関嘉之さん
阿弥陀如来は、実際にいらっしゃった方ではありません。
「はたらき」と表現していますが、
「悪いことをしていると、おてんとうさまが見ているよ」というような言葉が成り立たない(「そんなことあるわけない」と言い切ってしまう)現代では、なかなかお伝えすることが難しいのが「阿弥陀如来」であります。
私が、何年かかけてブログや表現媒体で「ことば」を書き続けていることも、「阿弥陀如来」という「はたらき」によるものです。
この「はたらき」は、出家した坊さんだけに注がれるものではなく、生きとし生けるものすべてに注がれています。ですから、仏道とは、仏者(出家者という意味でしょうか?)だけが歩める道ではなく、誰もが今現に歩いている道です。
「阿弥陀如来」について語ると、どれだけことばを紡いでも表現しきれるものではありません。が、「いま、ここに、わたしがいる」ことが「阿弥陀如来」であります(余計分かりませんね)

さて、出家とは名ばかりのお坊さんをたくさんご存じのようですね。
私、坊さんとして生きておりますが、コメント欄で書かれているようなお坊さんを存じ上げません。なぜかテレビでは時たまそういうお坊さんが出ていますが。
テレビで植え付けられてしまったお坊さん像は大きいですね。そんな坊さん、ほんのほんの一握りもいないのですが。
ちなみに、たしかに御布施には税金はかかりませんが、お坊さんはみんなお寺からお給料をいただいているサラリーマンなので、所得税や住民税 都民税 区民税等々、税金は世間一般の皆様と同じようにお支払いしております。その上、ご本山にも冥加金を納めておりますので、湯水のように使えるお金など、持っていないのであります。
あぁそういえば、今年の漢字は「税」でしたね。

母の死、親族の死、その度に白骨の御文を聞き、気になり、検索し、こちらにお邪魔させていただきました。
御文の意味を教えて頂き有難う御座いました。
南無阿弥陀と毎日唱えています。
南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀

☆フクさんへ
メッセージをありがとうございます
先往く方は、後を生きるいのちにメッセージを伝えているもの。
その声に耳を澄ませながら、限りあるいのちを生かさせていただきます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

心に念仏をいだくものです
蓮如様はなぜ、中々愚かなりと仰ったのかが腑におちておりません

☆はやしさんへ
コメントをありがとうございます。
「おろか」というと、現代では「愚か」…考えの足りないさま、頭の働きの足りないさまを意味しますが、
さかのぼって蓮如上人、親鸞聖人の頃は、「おろか」には「半端」とか「足りない」というニュアンスの意味がありました。
「あわれというも中々(なかなか)おろかなり。」と蓮如上人は言われています。
「あわれ」も、現代ではどちらかというと否定的消極的悲しみを指して使われているように感じますが、喜怒哀楽すべてを含めて、心の機微に触れる感情を「あわれ」と表現してきました。
白骨の御文においては、「悲しい気持ち」を「あわれ」と表現されていることと思います。
ですから、直訳すると「悲しい気持ちは、なかなか足りないものである」、つまり、「どんなに悲しんでも、その悲しみが尽きることはない」「どれだけ涙を流しても、とめどなくあふれてくる」というような気持ちを、「あわれというも中々おろかなり」と綴られているのだと、私はいただいています。
南無阿弥陀仏

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