
愚かなる 身こそなかなか うれしけれ
弥陀の誓いに あうと思えば
良寛
最澄 「愚が中の極愚」
源信 「予(よ)が如き頑魯(がんろ:頑固で愚かの意)の者」
法然 「愚痴の法然坊」
親鸞 「愚禿(ぐとく)親鸞」
良寛 「大愚(だいぐ)」
ここに挙げました僧侶方、一度はお名前をお聞きになったことがあると思います。
皆、ご自身のことを「愚」と評されたり、名告(の)られたりしています。
「愚」を名告る
では、「愚」を名告るとはどういうことなのでしょう。自身を省みて言われたのだとか、謙遜して言われたのだと解説されていますが、そのような説明だけでは、とても足りません。
「愚」とは、「愚かなる身」とは、果たしてどういう人のことなのか。果たして誰のことなのか。そのことを問うとき、自分というものを外して考えてしまいます。自分は「愚」ではない、と。
また、親鸞聖人は、「悪人こそ救われる」という「悪人正機(悪人成仏)」と言われる教えを説かれました。「悪人」とは何か?ということを考えるとき、「愚」と同じように、自分を外して考えてしまいます。自分は「悪人」ではない、と。
仏法は、私を映し出す鏡です。決して、幸せの道を教えてくれたり、苦悩を取り払う方法を教えてくれるものではありません。自分自身が、今ある姿を見つめることから人生は始まります。仏法は、そのきっかけを与えてくれます。そして、新しい歩みを始めたとき、私の歩みに先立って、仏の教えが、すでに私のよりどころとなっていたことに気づかされます。
仏法は、私を映し出す鏡。自分のことを外に置いて仏法聴聞しても、なにも見えません。なにも聞こえません。なにも開かれません。
あるがまま
11月、親しくしていただいている友人のお父様が亡くなられました。
容態が悪くなり、一度落ち着いたときに、友人はお父様に尋ねられました。
「このまま死ぬかと思ったよ。死んじゃったらどうするんだよ」
お父様は小さな声で答えられたそうです。
「あるがままだよ」
お父様のお通夜の晩、私は用事があり、お参りができない予定でした。しかし、都合がつき、お通夜が終わってからだいぶ時間も過ぎていましたが、お寺に着きました。お寺に入ると、受付の方が本堂に案内してくださいました。初めてお会いする友人のお父さん。厳かなお顔でした。
お父様とのご挨拶を済ませ、お座敷で友人に会うことができました。時間に遅れてしまい申し訳ありませんでしたが、おかげでゆっくりと話すことができました。そこで、先のお話を聞かせていただいたのです。
人生、誰もが自分の思い通りにしようとしながら生きているのではないでしょうか。「あるがまま」に生きられないのが私なのです。もがくのです。さからうのです。抵抗するのです。しかし、苦しいのは、思い通りにならない人生に苦しんでいるのではないのです。思い通りにしようとする私の心が、私を苦しめているのです。やがて誰にも訪れる「死」に逆らえないように、この世のありとあらゆることは、自分でどうにかしてきたつもりでいるけれど、なにひとつ自分ではどうしようもできないのです。
「あるがままだよ」
友人のお父様は、このことばを、私に身をもって伝えてくださいました。ありがとうございます。
良寛さんは、1828年11月12日、三条地震で被災し、同じ地震で被害を受けた友人に手紙を送っています。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
まさに「あるがまま」のお姿です。「あるがまま」とは、苦しみをなくす術ではありません。つらいことをつらいと感じない境地でもありません。「あるがまま」に泣き、笑い、怒り、喜び、哀しみ、楽しむことができる。それは、弥陀の慈悲に包まれているからこそ。
「愚」とは、弥陀の慈悲の温もりに触れた人の、よろこびの名告りなのだと思います。
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西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
12月の人形はヒヨコとネコです。赤と白の、クリスマス仕様の襟巻や帽子をしています。
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