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2007年11月 7日 (水)

いのち感覚

病気になったら病院へ
年をとったら施設へ
その結果、家庭で死を迎える人が現代日本では少なくなっています。

死を連想させるものは見えないようにしています。
ホテル・マンション・病室からは「死」をれんそうさせる「4」の付く部屋が抜かされています。ひどい場合には「4階」まで削除されているところもあります。駐車場の「4」が抜けている場合もありますね。
「苦」を連想させる「9」が抜けているときもあります。
(「4」や「9」を抜かしたら十進法も成り立たないのに…。「死」や「苦」を無くしたら人生だって成り立たない)
 
そのように、「死」を遠ざける現代日本人。
で、死を見えなくした結果、人を傷つけ、殺す行為が増えているという話を聞くことがあります。
人は傷つき、病み、老い、いつかいのち終えていくものだという、当たり前のことが見えなくなっているのだから。
たしかに、そういう面もあると思う。
思うけれど、本当に「死」が見えなくなっている世の中なのだろうか。

テレビや新聞では、誰々が死んだ殺されたと毎日のように報道されている。
現代日本で自殺者が3万人を超えるということは、もはや周知の事実。
電車に乗ろうとすれば、人身事故の影響でダイヤは乱れている。
救急車のサイレンを聞くことも多くないですか?

ちょっと思い返してみれば、「死」は日常に溢れている。
溢れていると、それが当たり前になってしまう。
そう、「死」が当たり前のことになってしまっている。
恐ろしいことは、その「死」に関して、哀しみがないということ。
 
誰々が死んだ殺されたという情報を、垂れ流しのテレビから耳にする。情報は右から左へ筒抜け。
自殺する人はこころが弱い人だと、生きてる人間は、評論家になる。ホンットにこころの強い人間なんて、どこにいるのだろう。
人身事故でダイヤが乱れれば、「チッ、急いでいるのに」と文句を言う。
救急車や消防車のサイレンがうるさいと、苦情の電話をかける人がいるという。
 
いじめ、虐待、暴力、殺人、戦争
傍観者は、加害者を責める。犯した者は、その責めを受けなければならない。
しかし、起きた出来事をただ評論しているだけの私に、人が傷ついた死んだということに関する哀しみはあるだろうか。加害者を責め、被害者を哀れむことはあっても。それに、哀れむことと哀しむことは違う。
 
情報が今のように溢れていない頃、
たとえば、町内で誰かが亡くなれば、町の掲示板にお悔やみのお報せが張り出された。新聞に載ることもあった。その情報を知って、身内でなくても心底哀しんだ。自分の身に起きたことのように胸を切り裂く痛みが走った。
 
今、日常に溢れている「死」が、まるで他人事のようになっている。
「自分の身に起きたことのように」
この感覚が、いのち感覚が失われている。

「死」が見えなくなっているのではない
「いのち」が見えなくなっている

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コメント

こんばんは、かつさん
いのちの社会性感覚麻痺
のようなきがします?

一人がマヒし、それがある定数を増えると
全体の表裏は一転するようにおもいます。

物にあふれて、あふれた物に支配されている。
歴史は繰り返すように感じます

古代ローマ、
猛獣と人の戦いに金かける。
格闘技好きですが、○-1
タブって見えることもありますね。

武道が商売になった時点で、
精神もしんでます。

書くのも恥ずかしいほどの武道経験ですが、
相手にダメージを与えないために
己全てを磨く

私からは、銀河なみの距離ですが
武道家同士は別らしいです。

☆tanukiさんへ
相手を傷つけるために精進しているのではない。
相手を傷つけないために精進する。
 
相手を傷つけることは簡単なんだなぁ。
自己防衛のために相手を攻撃する。
 
相手を傷つけないためには、
自己が受け手となる。
そういえば、柔道の受身って難しかったなぁ。
  
「社会性感覚麻痺」
なるほど、麻痺してるんですね。
「平和ボケ」という言葉もあるけれど、ある状況の中にドップリ浸かると、恐ろしいほどなにも見えなくなりますね。

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