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2007年11月

2007年11月29日 (木)

ありがたいあたりまえ

今の環境・境遇に文句を言いたくなるのも、
それら環境・境遇が「あたりまえ」のことになっているから。

 あってあたりまえ
 役に立ってあたりまえ
 自分の思いどおりになってあたりまえ
 いつもあってあたりまえ
 いつまでもあるのがあたりまえ
 
あたりまえ あたりまえ
いつもあると思っていると、いつまでもあると錯覚してしまう。
なくしたときに、そのありがたさに気付く。
そのときにはもう遅い。
 
「あたりまえ」と思う気持ちからは、感謝の気持ちは表われない。
出るのは文句や愚痴ばっか。
 
でも、「あたりまえ」と思えるということは、ずっとあるから。ずっと続いているから。
「ありがたい」人が、出来事が、環境が、私の周りに、ずっとあったということ。
 
「あたりまえ」と思う気持ちからは、「ありがたい」という気持ちは表われない。
でも、「あたりまえ」になってしまっている事実の背景は「ありがたい」ことの積み重ね。
 
私の想いという側面から見ると、「あたりまえ」から「ありがたい」という気持ちは見えない。
事実という側面から見ると、「あたりまえ」と「ありがたい」は同じこと、なのだと感じています。
 
「あたりまえ」と思う気持ちを戒めること、捨てること、なくすことはできないでしょう。
「あたりまえ」と思っていること。それは、とてもとても「ありがたい(有り難い)」ことの積み重ね。
そのことを思い続けていたい。

2007年11月27日 (火)

環境のせい

環境が悪いと言うけれど、果たして環境は悪いのか。
 
今、私がいる環境。
私が今いる環境に至るまで、多くの出来事が積み重なってきた。
人々の様々な想いが込められている。
多くの努力の結晶でもある。
 
自分が生活する環境を、わざわざ悪くしようと試みて悪くする人はいないだろう。
良くしよう良くしようという想いの結晶なのだと思う。
結果、今、私がいる環境。
 
今だけを見ていると、愚痴を零したくもなるだろう。
他をうらやむ想いも湧くことだろう。
しかし、今、私がここに存在している背景に想いをめぐらしたとき、愚痴を言うのは傲慢な気がする。
 
たとえば、地球の温暖化をなんとかしようと躍起になっている。
しかし、今の環境が悪い方に向かっているから良い方向に向かわせようというのは、
今までの歩みを無視してしまうことになる。
出来事(歴史)を、想いを、努力を、踏みにじっているようなもの。
 
今、私がいる環境。
それは、私が望んだ環境。
良いときはそのままで。
悪いときは良い方向に。
きっと、また悪い方向に進むことだろう。
 
環境のせいにしている人は、人生の暗闇を彷徨い続けることだろう。
暗闇を彷徨っていることにすら気づかないままで。 

2007年11月25日 (日)

ルール

先日、テレビ朝日「報道ステーション」で、知床の漁師とヒグマのドキュメンタリーを放送していました。
ヒグマは漁師のテリトリーに現われ…いや違う、ヒグマのテリトリーに居を構える漁師さん。漁師さんは、海の様子を直に感じるために海岸線に住み、魚を獲り、加工しています。そこに現われるヒグマたち。人間から数10メートルのところまで近づいて来ます。
恐いはずです。実際、この漁場に居を構えた当初は、村の猟師さんに頼んで、熊を退治(撃ち殺す)してもらたこともあるそうです。でも、この漁師さんをまとめる責任者の方(お名前を忘れました)が、殺すのではなく、なんとか共存できないものかと考えます。
そして実行していることは、自分たちの食料や残飯を建物の外に置かないこと。備蓄してある食糧は、厳重にガードすること。熊が人間に危害を加えるのは、人間が熊に食料を与えてしまうから。その味を覚えてしまった熊は、本来食すことがないはずの食料を欲し、人家に近づき、食料を手に入れようとします。
実行していることのもうひとつは、熊が人間のテリトリーに入ってきたときに、責任者の方が「コラッ!」と怒鳴って追い出すこと。「信じられないかもしれないけれど、怒れば熊にも通じるんだよ」と言う責任者の方の顔がものすごく柔和でした。熊を敵として見ているのではなく、同じ生き物として見ているお顔でした。
そうして、自然に築かれていったルールのもと、クマも人間も、厳しい知床の冬を乗り越えていくのでした。
 
自然に築かれていったルール
どこにも明文化してないし、罰則もない。
でも、みんながそのルールの中で、生き生きと自分の生きるべき活動をしている。人も、クマも。
 
身の回りに溢れているルール
明文化されてないし罰則もないものから、
明文化されて罰則があるものまで。
人が生きるために、生きやすくするために、もめごとをなくすために、不快な思いをしないために、快適な生活をするために、ルールは生み出されてきたのだろうけれど、
ルールが増えれば増えるほど、生活は窮屈になっていく。
ルールが増えれば増えるほど、ルールを無視する人も増えていく。
ルールが増えれば増えるほど、ルールの網目を見つけ出す、探し出す、作り出す人がいる。
かくして、またルールは増える。 
 
人と動物の共存が出来ているのに、
人と人との共存って、難しいものですね。

2007年11月22日 (木)

冬ですね

空気が冷たく、澄んできました。
はく息が白いです。
冬ですね。
夜空を見上げると、星がきれいに見えます。
しばらく立ち尽くして、星空を眺めていました。
 
寒さ厳しくなってきます。
風邪にお気をつけて。

2007年11月12日 (月)

気持ち悪い

誰もが同じ考え方をするのは理想的なことではない
                      マーク トウェイン
   
同じ考え方
同じ思想
同じ思考
同じ悩み
同じ迷い
同じ好み
同じ趣味
同じ興味
同じ癖
同じ夢
同じ…
同じ…
同じ…
 
なにもかも自分と同じ人がいたら、気が合うどころか、気持ち悪いだろうなぁ。

2007年11月 7日 (水)

いのち感覚

病気になったら病院へ
年をとったら施設へ
その結果、家庭で死を迎える人が現代日本では少なくなっています。

死を連想させるものは見えないようにしています。
ホテル・マンション・病室からは「死」をれんそうさせる「4」の付く部屋が抜かされています。ひどい場合には「4階」まで削除されているところもあります。駐車場の「4」が抜けている場合もありますね。
「苦」を連想させる「9」が抜けているときもあります。
(「4」や「9」を抜かしたら十進法も成り立たないのに…。「死」や「苦」を無くしたら人生だって成り立たない)
 
そのように、「死」を遠ざける現代日本人。
で、死を見えなくした結果、人を傷つけ、殺す行為が増えているという話を聞くことがあります。
人は傷つき、病み、老い、いつかいのち終えていくものだという、当たり前のことが見えなくなっているのだから。
たしかに、そういう面もあると思う。
思うけれど、本当に「死」が見えなくなっている世の中なのだろうか。

テレビや新聞では、誰々が死んだ殺されたと毎日のように報道されている。
現代日本で自殺者が3万人を超えるということは、もはや周知の事実。
電車に乗ろうとすれば、人身事故の影響でダイヤは乱れている。
救急車のサイレンを聞くことも多くないですか?

ちょっと思い返してみれば、「死」は日常に溢れている。
溢れていると、それが当たり前になってしまう。
そう、「死」が当たり前のことになってしまっている。
恐ろしいことは、その「死」に関して、哀しみがないということ。
 
誰々が死んだ殺されたという情報を、垂れ流しのテレビから耳にする。情報は右から左へ筒抜け。
自殺する人はこころが弱い人だと、生きてる人間は、評論家になる。ホンットにこころの強い人間なんて、どこにいるのだろう。
人身事故でダイヤが乱れれば、「チッ、急いでいるのに」と文句を言う。
救急車や消防車のサイレンがうるさいと、苦情の電話をかける人がいるという。
 
いじめ、虐待、暴力、殺人、戦争
傍観者は、加害者を責める。犯した者は、その責めを受けなければならない。
しかし、起きた出来事をただ評論しているだけの私に、人が傷ついた死んだということに関する哀しみはあるだろうか。加害者を責め、被害者を哀れむことはあっても。それに、哀れむことと哀しむことは違う。
 
情報が今のように溢れていない頃、
たとえば、町内で誰かが亡くなれば、町の掲示板にお悔やみのお報せが張り出された。新聞に載ることもあった。その情報を知って、身内でなくても心底哀しんだ。自分の身に起きたことのように胸を切り裂く痛みが走った。
 
今、日常に溢れている「死」が、まるで他人事のようになっている。
「自分の身に起きたことのように」
この感覚が、いのち感覚が失われている。

「死」が見えなくなっているのではない
「いのち」が見えなくなっている

2007年11月 1日 (木)

2007年11月のことば

 Dscf0926
 如来に信ぜられ
  如来に敬せられ
   如来に愛せらる
 かくて我等は
  如来を信ずるを得る

               曽我 量深
  
 「はい」

呼ばれてもいないのに、返事をするということはない。「はい」と返事をするのは、呼ばれたから。先に、私を呼ぶ声がするから。
  
 「おかあさん」
 
子どもが母を呼ぶのは、実は、母を呼んでいるのではないのかもしれない。母が子を慕(おも)う気持ちが子どもに届いているから、それを受けて子どもは「おかあさん」と、呼んでいるのではないだろうか。
子どもが母を呼ぶ声は、母からの慕いを受けた返事。その返事には、なんの要求も、なんの取り引きも、なんの条件付けもない。
  
 「なむあみだぶつ」
  
お念仏を称えるのは、私の思いによるのではない。望みが叶うために、不安解消のために、亡き人の供養のために称えるのが念仏ではない。
私のことを信じ、敬い、愛している想いがある。その想いの主が、阿弥陀如来。  その想いに包まれて、今、わたしが生きている。だからこそ、「なむあみだぶつ」と  念仏申す声が、私のからだから溢れてくる。
   
   ☆ ☆ ☆

人は、生まれながらにして苦悩を抱いています。人間は苦悩する才能を持った生き物です。
「苦悩」と言っても、望みをかなえたい、不安を無くしたい、災いを除きたいというような個人的欲望に振り回されることではありません。

 どこから来て、どこへ行くのか。
 どこからが生で、どこからが死なのか。
 どうして生まれ、なぜ生きているのか。

「生死の現実」という苦悩を抱えて生きている私。その広くて深い生死の苦悩の海をさまよい、漂い、沈みながら生きている私。そんな私が、どうして溺れることなくこの身を生きていけるのでしょう。

阿弥陀如来は、苦悩を生きる衆生を信じ、敬い、愛しています。

信じる。敬う。愛する。
誰もが一度くらいは、誰かを信じ、敬い、愛したことがあるはずです。しかし、その想いは続かない。相手の裏切りにより、儚くも信・敬・愛は崩れ去ってしまう。
「相手の裏切り」…さて、果たしてそうなのでしょうか。信じ、敬い、愛した想いは、なぜ続かないのでしょうか。それは、私のこころのせいに他ならない。
相手の、たったひとつの気に食わぬ行いで、私の信・敬・愛は、いとも簡単に崩れ去る。
信じたのなら、どこまでも信じてこそ、信。ここまでは許すけれど、これ以上は許さないと、線引きをするような信は、信ではない。始めから信じていなかったということ。敬も、愛も同じです。
線引きし、取り引きし、条件付けをした信・敬・愛。そんなのは、信・敬・愛とは言いません。相手のせいではない。私のこころが、信・敬・愛を持っていなかっただけのこと。始めからないのだから、続くはずもない。
人を信じられない者が、人から信じられるだろうか。人を敬えない者が、人から敬われるだろうか。人を愛せない者が、人から愛されるだろうか。本来は有り得ないこと。つまり、孤独。
このように孤独な私につねに寄り添い、人を信じられぬ私を信じてくださる温もり。その温もりが阿弥陀如来。阿弥陀如来は、衆生を信じ、敬い、愛する。崩れ去ることのない想い。私は阿弥陀如来から信じられ、敬われ、愛されている。
私が、苦悩の海に溺れずにいられるのは、阿弥陀如来の想いに包まれているから。
おかげさまで、私の口から出るはずのないお念仏の声が出て来ます。
  
 「なむあみだぶつ」
 
如来のみもとより生まれ、如来のみもとに還るいのち。お念仏は、子が、母を呼ぶ声に似ています。

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